淵をさ迷う

 ごうごうと、嵐が渦巻く音がしている。誰とも知れない低い声が、怨嗟や悲嘆を繰り返し続けている。

 絡新婦じょろうぐもと化した遊女に、成す術もなく倒れた以降の記憶は無いが、これは彼女から埋め込まれたものなのだろう。黒々とした呪詛の嵐を傍観しながら、志乃は見当をつけていた。自分の体が呪詛にむしばまれているのだとは理解していたが、嵐を眺める妖雛には、不思議とそれらの感覚が遠い。


 どんなに悲愴ひそうでも、自分の中に残ってはくれないのだろう。空洞を満たしてくれるのは、戦いだけなのだから。


 何度も杭打たれてきた自覚だけが、どろりとした熱を伴って脈打っている。ようやっと思い出した、片割れと喧嘩をした際の狂喜が、ぐつぐつと滾っている。そこに身をゆだねれば、何にも代え難い幸福が待っているのだと察しながらも、志乃は抑制に徹していた。取り返しがつかなくなる予感もまた、寒気となって背筋に張り付いていたので。


 熱と寒気が体の中で混ざり合い、拮抗する感覚は、風邪を引いた時の感覚に似ている。基本的に健康そのものの志乃だが、一度だけ風邪を引いたことがあった。夜蝶街で過ごすようになってから二年ほど経った頃、冷え込む初冬の頃に。


 唸る呪詛の嵐が遠ざかり、体がゆっくり沈んでいく。上下も前後もあやふやになって、水中に漂うような浮遊感に包まれる。明晰夢めいせきむを見ているのか、幻覚を見ているのか。ぼんやりしていく志乃の意識は、重い体ごと布団に着地し、収まった。

 不明瞭な視界もまた、ぼやけつつも徐々に見覚えのある場所を捉え始める。夜蝶街は第一屯所に併設されている医療施設、白灯堂はくとうどう。薄暗い昼間の影色をした天井には、異国風の奇妙な照明が吊り下がっていた。


「――おい」


 視界の横から、ぶっきらぼうな呼びかけと共に、山内の顔が現れた。今よりも幼く、声もまだ高い。志乃が風邪を引いたのは八歳の頃で、山内と中谷は十五歳だった。二人を含めた隊員たち数名が、成人のうたげで祭り上げられていたことも記憶にある。


「相変わらず薄気味悪い笑い方しやがって。んだよ、見舞いなんて必要ねぇだろ」

「ごちゃごちゃうるせぇぞ山内、俺も姉貴も空けるから見張ってろっつったんだ。中谷と交代するまで大人しくしてやがれ」


 映りこそしないものの、津田幹次みきつぐの声もする。けれど、彼は言葉の通り引き戸を開け、足音を遠ざからせていった。残された山内は、不服を顔に湛えている。


「……あ? なに謝ってんだよ。風邪なんて仕方ねぇだろうが」


 志乃は言葉を発していないが、記憶はあの時の山内を再生し続けている。まだ険があって、志乃にとってはついていく対象というだけの。


「それに、お前が風邪引くと、そこらのガキと変わんなくなるし。ちょうどいい、お似合いだから、そうやって大人しくしてりゃいい」


 馬鹿にしたような笑い方をしながら、それでも心配が目の奥に潜んでいる。今なら含まれた真意も察せられるが、八歳時の志乃は正直に言葉を受け取って返答した。証拠とばかりに山内の表情が崩れ、「真に受けてんじゃねぇよ」と、揺らぎの生じた声を出している。


けなしがいのねぇ奴……ってか暇だな、暇。しょうがねぇから、お前が何かしてほしかったらやってやるよ。……は?」


 考えたのち、志乃が口にした「してほしいこと」。山内の目を真ん丸にしたそれは、今となってはいつも通りになった、「頭を撫でてほしい」という要望だった。


「いや、いいんだけどさ。……お前、撫でられんの好きなの?」


 好き嫌いなどよく分かっていなかった志乃だが、その時から、撫でられることは何となく、してほしいことだと感じ取っていたのだろう。実際、戸惑われつつも撫でられると、だらしない笑い声が出た。それもまた無音だったが、視界が小刻みに揺れていたので分かるし、何よりちゃんと憶えている。頭や頬を撫でてもらうことは心地よく、「嬉しい」のだと理解したから。

 微睡みの中、撫でてもらった心地よさが、体内へ溶けて熱と悪寒を緩和してくれる。やがて、暗さを増した視界に、山内の姿も溶けて消えてしまった。しかし夢幻は終わらず、明るさを戻すと共に、別の人影を形作る。体を横向きにすると、墨の香りと書き物をする音が聞こえてきた。


「……何だ、起きたのか」


 じろりと一瞥を向けてくるのは、今と変わらず険のある中谷。文机ふづくえの上で、持ち込んだ仕事を淡々と片付けているだけなのに、妙な迫力を醸し出しているのも、必要以外には関わらないと言外に伝えるところも相変わらず。ただ眺めるだけなら文句を言われない、というのも変わらないのだが、この時の志乃は知らない。

 寝ていることしかできない志乃にとって、動きのある中谷を眺めることは必然。怒られるかもしれないという恐れは忘れて、筆と墨の内緒話を聞いていた。志乃がぽつり、中谷に呼びかけるまで。


 こちらを向いた中谷の表情は、山内と違って全く動かない。周囲のほとんどを有象無象と捉えていた志乃でも憶えられた無表情は、こちらの奥底まで見透かすような、超然とした何かの気配を感じさせる。

 聞こえない自分の声が、記憶通りの言葉を発する傍ら、志乃は中谷を恐れていた理由も察した。何もかも見透かしそうな目が、誤魔化しの効かない目が、仮初の皮を被る身にとっては脅威だったのだ。野に生きる獣が、捕食者に見つかることを恐れるように。


 とはいえ、この時の志乃であれば、どこまでも空っぽなことを言われたところで、気に留めもしなかっただろう。理解できないのだから。けれど、理解できないからといって、そこに付随ふずいするものまで消えることはない。

 色々な考えを巡らせるようになった志乃の頭だが、ひとたび撫でられてしまうと単純へ逆戻りする。風邪が朧にした幼い頭は、なおのこと単純だった。ついさっき理解したばかりの心地よさと嬉しさを甘受したがっていた。


 血を伴う劇薬の幸福より、ずっと穏やかな幸福。心臓を剝き出しにするような渇望より、布団に包まれた安寧。この夢幻は、前者から逃げる志乃が作り上げた避難場所。殺傷の喜びを拒否する表明に他ならない。


 撫でてもらった感触はそのまま、中谷の姿も暗く溶けていく。重ねていたはずの手は、自分の頬に触れる。ひどすぎるくらい冷たい手だった。山内の手の感触も、中谷の手の感触も台無しにしてしまう、ぬくもりとは程遠い手。

 再び前後左右、上下も分からない浮遊感に包まれる中、何を掴むでもなく片手がさ迷う。指と手のひらの間にできた空洞から、闇の中へ体も溶け消えてしまいそうなところに、熱を湛えた手が挟まった。


 ぼうと上げた視線が、牡丹色の視線と繋がる。常に前髪や仮面で遮られるその目とは、何度も目を合わせてきたはずなのに、初めてくっきりと見えた気がした。視界を縁取る枠線までもが、ぴったり重なり合っていた。


 ――ああ、確かに。

 貴方は、俺の片割れだ。


 証拠や理屈が追いつく前に、無垢な輝きを放つ事実が、重なった手の内で握られる。志乃と芳親は同じ場所に立って、同じものを目指している。


 でも。

 同じ場所に辿り着くことは、できない。


 目を背けられない事実もまた、空いたままの片手に暗澹あんたんと凝っている。どんなに逃げたところで、必ず追いつかれるという確信がある。

 目線を下げて逸らした途端、芳親の姿も暗闇に溶け消えた。呪詛の嵐はとうに止み、暗闇と静謐が広がるばかり。感覚が拾う情報は皆無と思われたが、鼻は鉄の臭いをかぎ取った。僅かでも分かる血の臭い。呼吸に一筋ほど混じっていただけで、たちまち笑いがこみあげてくる匂い。


 結局、志乃はここへ戻ってくる。血と死骸で埋め尽くされた戦場へ。深淵は常に足元で口を開き、志乃が落ちてくるのを待っている。


 ***


 次に目を開けた時、志乃は夢が覚めたのか、まだ夢を見ているのか分からなかった。


 最初に視界を満たしたのは、初めて見る粗末な天井……というか、はり越しに見えている屋根の裏側。すぐ真横には壁があるが、竹の簀子すのこを立てかけただけの簡素なもの。最低限、住居としての機能を保っているような有り様らしかったが、強力な結界が敷かれてもいるらしい。風邪とはまた違った重石おもしのような気怠さが、志乃の全身を抑え付けている。

 一呼吸するだけで気力が奪われていくため、首を動かして人を探すことさえままならない。声を発することも、なんとなくはばかられる。静かだからというだけでなく、この場で発声することはよくないという直感が働いていた。


『――女子おなごよ、無理に声を出すな。のどが潰れるぞ』


 それでも一か八か、と息を吸い込んだところへ、霊妙な響きを伴った声が割り込む。若い女性の声色だが、響きに潜む深さと重厚さは古老のそれだ。

 他者の声が聞こえて間もなく、女童めのわらわが視界に顔を出す。切り揃えられた黒髪を揺らす姿はいとけないが、ぱっちりと開かれた双眸には、子どもらしからぬ深閑が凪いでいる。加えて、かもし出している雰囲気も奇妙だった。人間や妖怪を前にした時とは、何か違っている。


『ああ、違うとも。だが、知らぬ気配では無いはずだぞ、花居志乃』


 思考を読み取ったかのような返答が、口を動かすことなくなされる。耳に聞かせているというよりは、頭に響かせているような声で。

 どうなっているのか気になったが、志乃は気配の心当たりを先に探し、そしてすぐに見つけた。目では姿が見えているのに、気配が不確定で捉えにくいという特徴は、慧嶽けいがくによく似ている。


『気付いたな。そう、わらわの気配は木や岩と同じ。こちらが調節しなければ、お前たちには気配を捉えることができぬ』


 やはり、志乃が考えていることは筒抜けらしく、瞬きの微動さえしない女童から声が返ってくる。慧嶽とはまた違う不気味さと思いきや、不思議と気にならなかった。それどころか、木陰で葉擦れの音を聴くかのような、居心地の良さすら感じ取れる。


『清めたとは言え、ありとあらゆる穢れにまみれたお前に近寄るのは難しいゆえ、分身を通して話をさせていただこう。妾は便宜上、芳紅よしべにと名乗っている。ここ、常世にて境田芳親の面倒を見ていた、いわゆる仙女というものだ』


 常世、仙女。志乃の口が動きだけで名称をなぞった。人間どころか、妖怪すら立ち入ることは困難を極める場所と、その住人。意識を失っては覚醒を繰り返したのち、こんな遭遇が待ち受けているとは誰が想像できるだろう。少なくとも志乃には無理だった。たとえ声を出せたとしても、何を第一声にすればいいのか分からない。


『混乱も致し方なかろう。簡単に説明すると、お前は罠にめられたのだ、花居志乃。眠らされ、呪詛をその身に受けさせられ、治癒のためにここへ連れてこられた。本来なら、常世は穢れきったものを受け付けないが、妾の手に負える領域から穢れを流出させないという制約の元、招き入れることができた』


 反面、芳紅と名乗った仙女は、すらすらと流れる語りを止めない。


『常世では、口から声を出すことはほとんどない。使う場所が違うのだ。お前が声を出せないのも、常世における発声方法を持っていないが故。喉を震わせることは可能だが、そうすると凄まじい負担がかかる。現世で芳親が上手く話せないのと逆のことが、お前の身に起こっているということだ。声以外にも、そもそも体が適応しておらぬ』


 体が鈍重なのは、結界ではなく常世の環境によるもの。自分の置かれている状況をひとまず呑み込みつつ、志乃は把握に徹する。


『お前たちの状況は、雷雅を通して現世にも伝えてある。普通はできぬが、雷雅はやり遂げおった。風聞に違わず恐ろしい奴だな、あれは。……して、ほとんど何も知らぬはお前だけとなった故、妾からこれまでのことを説明することとなった。お前にとっては悪いことばかりと言い切れてしまうが、心して聞くように』


 第三者だからだろう簡潔さに、志乃はすぐさま頷いた。悪いことばかりと断言されてしまっても、今の志乃には情報が足りなすぎるし、動けず声も出せない以上は何もできない。話を聞く以外の選択肢など、存在していない。


『そうだろうとも。では、話していこう』


 女童は淡々と、読み上げるように語り出す。忘花楼ぼうかろうで起こった全ての顛末てんまつを。志乃に起こってしまった、悪いとしか言いようのない全てを。

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