第十一章 結び直し

翼を編む

 忘花楼ぼうかろう崩壊から数刻後、朝を迎えた現世にて。直武と紀定、そして変わらず江営こうえいに滞在中の兼久隊が、ひと月ぶりの合流を果たした。

 利毒が生成した呪詛の結果、雷雅が完遂した計画は、紀定を送り届けた風晶によって報告されている。危険視されていた呪詛は現世に及ぶことなく消え去ったが、新たな問題が浮上していた。利毒の呪詛を一身に受けた挙げ句、騙されたとはいえ、人肉を口にしてしまった志乃について。

 ひとまず朝餉を済ませ、五ツ半。色護衆の管理下にある屋敷の奥座敷にて、直武は一人、寄せ木細工のような模様が施された呪具に向き合っていた。起動させれば間もなく、息遣いの雑音が聞こえてくる。


「そちら、聞こえておりますか」

『ああ、聞こえている。貴殿の報告を待っていた、麗部うらべ直武。まずは詫びよう。貴殿の身を一時拘束したことについて』

「私の教え子に情報を秘匿していたことには、関心が無いのですね」

『それについては、詫びは不要と判断した』


 表情にも声色にも温度がない直武の問いに、同じく無機質な男の声が返答する。大したことではない確認事項を、片手間で処理していくように。


『若者とはいえ、駆り出されていたのは人妖兵じんようへいが二人に、中枢十三家の一角が一人。戦力としては申し分ない。加えて、雷雅が直接こちらへ締結しに来た協約の書類には、貴殿ら四名の命を保証することが最初に記されていた。血判付きでな』


 さらりと付け足された最後の一言は、雷雅の入れ込みようを示すもの。幽閉された時点で、傾国の鬼が今回の件を重視しているとは感じていたため、直武はさほど驚かなかった。だが、かの鬼の思考や加減を把握できるほど付き合いが長くない者であれば驚愕している。

 妖怪にとって、約束事は強固な制限。中でも血判は、人妖問わず絶大な効力を発するため、軽々に交わされるようなものではない。破る行為に走れば痛みを以って警告し、破ってしまえば大きな代償を支払うことになる。どんなに強大な力の持ち主でも、その制約から逃れることはできない。


 色護衆を通して人間側に協力している妖怪ですら、血判など滅多に使わず、また使いたがらない。実力を兼ね揃えた古強者ふるつわものであれば、制約の効果は比例して強まるため、なおのこと。

 けれど、人間に協力する側では古強者の筆頭だろう雷雅は、使ったのだ。それだけの価値ある成果を得るために。相応またはそれ以上の前払いと命の保証があったから、受けた傷は不問ということだろう。

 そんなことは、直武も承知していた。痛いほどに分かっていた。


『雷雅もまた、〈特使〉とは何なのかを探っている。古くから禁書を漁っていたような鬼でも分からないと言うし、だからこそ調査にも協力するというのだ。いつも通りの取引をしたまでのこと。しかし……重要な役を果たすと思われる人妖兵に呪詛を受け止めさせたのはともかく、道を踏み外させたことは、こちらとしても予想外で痛手だった。これから、制御や調整に難儀することは避けられない』


 志乃について述べられていることは明白だった。物の怪に匹敵する呪詛を受けたことも置いておけないが、人肉を口にしてしまったことが、最悪の事態としか言いようがない。前者は処置を施せるが、後者はどうしようもない。

 歴史上、人妖兵となった妖雛でも、人肉を食べる過ちを犯した者はいる。だが、その事例は全て、魔に堕ち討たれるという結末に収束している。人間側が尽力しても、本人が努力を重ねても、崩壊を止められた例はなかった。どうしても抗えないのだ。


『だが、麗部直武。貴殿であれば、くだんの人妖兵を安定させられよう。貴殿は麗部正武まさたけと異なり、十分な実力を有している。理想だけを語る愚行はしないだろう』


 久しぶりに聞いた兄の名前が、直武の脳裏に悪夢を思い出させる。軍船いくさぶねの死骸が連なる灰色の海から、よろよろと上がってくる兄。その兄が、こちらの首を絞めに来る夢を。

 身動きを取らずとも、直武自身があり得ないと知っている夢は、簡単に霧散する。現を見据え続けてきた目が、静かに呪具へ視線を注いだ。


「もちろん。それが今、私の成すべきことです。明掛の物の怪と再戦する際、必要になる戦力でもありますので」


 吐いた言葉が、体内から熱を奪っていく。声は色を失くし、顔は波紋の揺らぎもなく情を削ぎ落す。冷え切ったその姿は、まぎれもなく直武の一部。


『貴殿は上手くやる。お節介だが、くれぐれも気を付けて』

「ええ。どうぞご心配なく、百元ももと殿」


 直武が呼んだのは、色護衆を上役として取り仕切る家の名。中枢十三家に含まれながらも、他十二家とは一線を画す頭の名前。

 与太話に逸れることもなく、通信が切れる。久しぶりに、直武の頭は冷え切っていた。それが自分の本性だったと思い出せたほどには。同時に、借り物の願いを崩さず保てていたのだと安心もしたが。


 若き後進の指導者という道を選んだ直武を、師匠や先生と呼ぶ者は数多いる。しかしながら、直武はそんな呼称に足る人物ではないと、自分でよく知っている。それが相応ふさわしかったのは、戦死した兄や姉だったことも。

 兄や姉が今も生きていて、指導者として活動してくれていたなら、どれだけ良かっただろう。自分よりずっと、志乃や芳親を始めとした若人たちを導けるだろうに。叶うことのない理想を、到底及ばない身でこなす苦痛が、遥か昔に奥底へ仕舞われた箇所をむしばんでくる。


 戦場で武器として在り続けてきたものが、人としての振る舞いを教示しきれるはずがない。それでも、直武は兄姉の真似をして、兄姉に見出し受け継いだと感じた灯火を掲げて歩いてきた。何もかも借り物なくせに、自分とは真逆な兄姉の代役をしているだけのくせに、あたかも人格者のように振舞ってきた。

 直武の在り方と、惑い迷う妖雛たちには、どことなく共通するものがある。だからこそ放っておけなかった。道を示す役に最適なのは自分だと傲慢ごうまんにもなった。そこまで思い接触した以上、責任を取り切ることも決めている。


 残り僅かな命は、どんな形であれ、後続の薪に使いたい。


 日差しも風も入らない、薄暗い部屋の中、直武は背筋を崩さず座っている。このまま瞑想めいそうもできそうな静謐は、しかしこちらへ向かってくる足音によってやわらげられる。


「……お、いらした。先生、いま大丈夫ですか?」


 開けっ放しの障子戸から、兼久の声が転がり込んできた。直武が振り返れば、見慣れた教え子の顔がひょっこり覗いている。


「ああ、ちょうど終わったところだ。予想通り、雷雅はこの件に相当入れ込んでいたらしい。血判まで用意してきたと」

「ですよねぇ。そうでもなきゃ、中枢十三家を弾くような結界なんか張れないでしょうし。血判持ってきてなかったら、雷雅まで討伐対象だったのに」


 やれやれと言わんばかりの顔をする兼久は、怒気を隠し持っている。志乃はもちろん、芳親に紀定といった近い仲の存在も巻き込まれたのだ。三人がいかに強力な兵士とはいえ、危険な綱渡りをさせられたことに変わりはない。それでも、直武と一対一という状況にでもならない限り隠し通すどころか、かすかに感じ取れる程度に自制できるのは流石と言える。


「ま、それはとりあえず置いて……と言っても、こっちもそういう案件なんですが。ついさっき阿伎戸あぎとが血判引っ提げて来たんです。今は客間に通してあります」

「ほう、それは。かの妖怪がそこまでの誠意を証明するなんて、よほどの案件だけれど……」


 知った名前に目を丸くしつつ、直武は首を傾げる。阿伎戸と名乗る妖怪は知古の一人であり、直武を始めとした色護衆の多くからも信を得ている存在なのだが、何故いま訪ねてきたのか。


「何でも、雷雅に依頼されて来たらしいんです。なので、先生にも一応、確認をしていただきたく。阿伎戸からも、そうしてもらった方が信頼的にありがたいと」


 問う前にもたらされた答えは、直武が浮かべた予想に入っていた一つ。となると、その依頼の内容も、直武には容易く見透かせる。


「なるほど。晴成君の義手を作りに来たのか」

「雷雅曰く、『貰ったお礼に』だそうですよ。勝手に盗んでいったのはあっちだっていうのに」


 驚かず苦笑で応じる兼久だが、目はまるで笑っていない。棚盤山たなざらやまでの一件では、晴成や志乃を現世へ運び出すのが最優先だったとはいえ、晴成の腕を回収できなかったことは兼久の気に掛かっていた。それを踏まえれば、雷雅のお礼など嫌味のようなものだ。


「晴成君には要点を話しておきましたが、阿伎戸にはまだ会わせていません」

「分かった、すぐに行こう。阿伎戸は客間に通してあるんだっけ」

「はい。供は不要ですか」

「そうだね。かの妖怪は物々しい空気を好まないし、完全中立を貫く職人だから」


 言いながら立ち上がり、直武は一人で客間へと向かう。梅雨も間近な現世の空気は湿り始めていたが、一陣の爽風が直武の頬を撫でていった。


 ***


 妖怪にも、職人と呼ばれる存在がいる。その中には武器職人もおり、扱う品物ゆえに完全中立、独立を貫いている者がいる。そういった者たちは戦闘の実力を兼ね揃えてもいるため、依頼を持ちかけるにも心構えが必要となるものの、金銭と誠意に見合う品を納めてくれることは保証されている。

 阿伎戸を名乗る妖怪もまた、製造技術と戦闘能力を高い水準で持ち合わせている中立の存在だが、妖怪よりは人間を好ましく思っている稀有な存在。色護衆とも長きにわたって信頼関係を築いており、妖怪本体に警戒は不要という点でも稀有な存在である。

 というのが、晴成と澄美に教えられた、阿伎戸の大まかな人物像だった。


「改めまして。お初にお目にかかります、星永晴成殿。そして、護堂澄美殿。わたしは武具を始めとした道具を手掛けております職人妖怪、名を阿伎戸あぎとと申す者にございます」


 内面と実績についてしか聞いていなかったため、阿伎戸を名乗る妖怪の外見には二人とも面食らい、敷居をまたぐことも躊躇する羽目になった。改めての挨拶をされている今は、気を取り直して相対していたが。


「先ほどは失礼致した、申し訳ない」

「いえいえ。自分の外見については承知しております。初見の方に戸惑われるのも慣れたこと。怯えさせる意図は無いとご理解いただければ、充分にございます」


 阿伎戸が発する静穏な声には、カタカタと軽やかな木の音が混ざっている。それは彼の頭、彼が話す度に口を開閉させる、作り物の獅子の頭部から零れる音。阿伎戸は獅子舞に用いられる伎楽道具が、ひとりでに動いているという奇特な姿をしていた。今は綺麗に、おそらく正座をしていたが。

 緑の布で覆われつつも、少し見えている胴体内部に、座っている誰かの姿はない。こごった真っ暗闇だけが、座布団の上に収まっている。さらに、不釣り合いな鈍色にびいろの義手が二つ伸びており、行儀よく揃えられて浮かび上がっていた。


「さて、ご挨拶も済ませましたところで、晴成殿。わたしは雷雅殿より依頼を受けまして、あなたの義手を製作しに参上した次第にございます。理由については」

「ああ、存じている。雷雅が拙者の左腕を入手し、志乃に食べさせた故と」


 淡々と事実を述べる晴成に、珍奇な獅子舞はかこりと首を傾げる。疑問を浮かべたというよりは、観察しているかのように。


「ふむ。取り乱してはおられないのですね。お若いながら胆力がおありと見えます」

「起こってしまった事について、とやかく言っても仕方ありませぬ。起こった以上、その後にどう対応するかの方が重要かと」

「かっかっかっ、ごもっとも。奥湖おうみの星永に隆盛の気配ありとは風聞しておりましたが、なるほど確かに。あなたのような方が洛都への足掛かりとして派遣されるのであれば、座して待つ当主殿もまた、美しい藍色の目をしておられるのでしょう」


 獅子舞の頭が口を開閉させて笑ったかと思えば、黒目が大きく愛嬌のある目玉がくるり、笑みの上弦を描く糸目に変わる。頭頂付近に引っ掛けられた小さな丸眼鏡も、動きにつられて揺れては音を立てていた。


「話が逸れてしまいましたね、失礼しました。晴成殿の義手ですが、こちらである程度の設計案は幾つか練っておきましたので、お目通しいただければ。もちろん、お気に召さなければ遠慮なく却下してください。晴成殿のご要望通りのものを作り上げること、そこにわたしや雷雅殿の意思、謀略などを介在させないことは、血判にて契約済みですので」

「拝見いたす」


 鈍色の腕に恭しく差し出された紙束を受け取ると、晴成は素早く目を通していく。案は合計三つ記されており、いずれも異なる性能や素材による違いなどが精密な図面と共に、詳らかに記述されていた。

 晴成は自分の知識の浅さから、設計図の半分も理解できないだろうと踏んでいたのだが、その予測は見事に外された。図案には見慣れない名称こそあれども、小難しい専門用語は見受けられず、用途や効果が的確な短文でまとめられている。さらに、それぞれの義手の情報を一枚の紙にまとめた上で比較しており、理解を深めることさえできた。


「これは……いずれも素晴らしいな。貴殿にいくつ質問をぶつける羽目になるのかと身構えていたが、浅学の身でも、畏れ多いほど価値ある義手ばかりと分かる」

「ありがとうございます。しかし晴成殿、浅学と申されましたが、ある程度の学が無ければ、そう容易く素早い理解は叶いません。何か気になることがございましたら、どうぞ遠慮なく。どうやら、あなたとの話し合いは、わたしにとって有意義なものとなりそうですから」


 またくるり、獅子舞の目玉が笑顔の糸目に変わったが、またすぐに戻った。大きな黒目が描かれた目玉は、静かに控えている澄美の方へと向けられる。


「ところで、澄美殿にも何か、助けになれる物をお作りしましょうか。もし必要であれば、費用は請け負うと雷雅殿から申し付かっておりますが」

「え」


 自分に声を掛けられること自体想定外だった上に、告げられた内容も想定外。きょとんと眼を見開いた後、澄美は晴成を見た。助けを求めるような視線は、落ち着かせるような微笑に受け止められる。


「依頼するのもしないのも、お前の自由だ。落ち着いてよく考えてみるといい」

「ああ、唐突すぎましたね、気が利かず申し訳ありません。晴成殿のおっしゃる通り、時間はいくらでもありますし、この機でなくとも色護衆伝いにご依頼くだされば、いつでも腕を奮わせていただきますよ」

「……申し訳ありません。お時間を頂戴いただければ」


 ぎこちなく頭を下げる澄美に、「とんでもない」と阿伎戸が鈍色の両腕を振る。澄美は即断こそしなかったが、阿伎戸と晴成の話し合いに耳を傾けるうち、朧気ながら自分でも武器について考え始めていた。

 晴成だけでなく兼久隊の面々からも指摘された、先頭に関連する自分の長所、短所。自分が感じている有利と不利、それを緩和してくれる役目を持ったもの――いつの間にか、澄美は考えることに没頭してしまっていた。

 ようやく意見がまとまってきた辺りで、澄美はハッと我に返る。気付けば、阿伎戸と晴成は意見をまとめ終え、話し合いも締めにかかっていた。


「――ご高見、ありがとうございました、晴成殿。とても良いものが作れそうです」

「こちらこそ、知見を深めていただき、感謝申し上げる」

「あの」


 二人が挨拶を終えた隙間に、澄美の声が滑り込む。彼女が答えるのは、是か否のどちらか。あるいは判断材料となる情報を求める声か。阿伎戸も晴成も、邪魔せず座して答えを待つ。


「晴成様ほど、有意義な時間をお出しすることは叶いませんが……こちらからも、相談をさせていただけないでしょうか」

「ええ、もちろんですとも。澄美殿の求める物を、最上の形で提供できるよう、ご協力させていただきます」


 是の側に近い歩み寄りに、獅子舞はからころと笑みを表す。かくして、晴成だけでなく澄美もまた、新たな戦力の確保に一歩を踏み出した。

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