後/仇

花の砦

 子の刻より前へ、時はさかのぼる。

 さすがに全てとはいかなかったものの、志乃は贈られた料理の半分以上を食べ終えていた。膨大な味を叩きつけられて舌が、結構な量を入れられて胃が驚いたこともあって、途中で降参せざるを得なくなってもいたが。


「……すみません。残してしまって」

「気にしなくて良いよー。さすがに俺もー、用意しすぎちゃったよなーって思ってたんだー。残りは俺たちで食べるからー、志乃はちょっと休まなきゃだねー」


 隣に居座り続けた雷雅が、志乃の頭を撫でながら笑う。べったり付きまとわれっぱなしなことは、軟禁じみたひと月のせいで気にならなくなっていたため、志乃はされるままになっていた。

 ウトウトと微睡まどろみもたれ掛かる志乃を、雷雅は心底嬉しそうに抱え、胡座あぐらの上へ乗せている。可愛くてたまらないとばかりに抱きしめる様は、人形やぐるみを思いっきり抱きしめる子どもと大差ない。


「志乃嬢がお休みになられたということは、もう始めてしまってよろしいので?」


 ひたすら軽快に喋り倒していた青鷺が、ひどく落ち着いた声音に笑みで問いかける。上機嫌な雷雅の返答は「いいよー」と軽く、無邪気ですらあった。


「それでは、あっしはこれにて。どうもお世話になりました、雷雅様。風晶様にはまだお世話になりますけど」

「ああ。と言っても、お前は消えるだけだから、私が面倒を見る必要もないと思うがな」


 にっこり、青鷺は空っぽの笑顔で返して、今まで通り平然と退出した。

 彼が出ていくと、当然ながら室内は静まる。初夏を迎えた外から隔てられ、春の夜を思わせる空間は相変わらずだが、幻は解け始めのきざしが見えている。

 花楼の九階に灯されている火は、狐火でも、これから正体を現す鷺の火でもないため、何の影響も受けず灯り続けている。春めいて柔く、ほのぼのと優しい中で、傾国の鬼は笑っていた。朧月の双眸を、たった一人の花明はなあかりにして。


「私も準備をしておこう。……本当にいいんだな、雷雅」

「あはは、風晶は心配性だなぁ。うん、でも、分かるよぉ。だって、志乃を呪詛にさらすんだもんねぇ」


 変わらない軽さと緩さで、雷雅はどこまでも本当のことを言う。事実、志乃がおちいった眠りは、逃げ道を塞ぐ眠りだった。料理の一部に潜ませていた薬、花楼最上階だけに焚かれていた香、青鷺の幻術が作り上げた、穴一つもないわなだった。

 囚えた蝶を愛おしいと愛でておきながら、そのはねを摘まんで蜘蛛の前に差し出す鬼。曇ることなき美貌の鬼は、この上なく優しい顔をしている。


「大丈夫だよー。志乃を死なせはしないしー、こっち側に来させるのも、たぶん多勢にとってよくない。だからー、対処は何が何でもしてみせるよー。まあ、どうにもならなかったら、なおしてこっち側へ戻すことになるだろうけど……それならそれで、別の方針に切り替えれば良いだけだからねぇ」


 抱きしめた志乃に頬を寄せながら、雷雅は何でもないことのように言ってのける。実際、雷雅にとっては、ほとんどのことが何でもないのだ。盤上に数多の駒がいて、飽きることなく掻き混ぜ並べて遊んでいられる。盤を挟んで向かいの席、誰も座らない空席には、目を向ける必要すらない。


「そうか。花居志乃がこちらに来ないことを願うばかりだ」

「えー。確かに志乃がこっちに来るのは良くないけどー、駄目じゃないんだよー? いいじゃない、志乃がいるの。こーんなに可愛いんだからー」

「お前の元で幸福になれる奴などいない。閉じ込められて人形のように扱われるのと、人の側で人として生きていくのなら、どちらがマシかなど明白だろう」


 吐き捨てて、風晶は窓から外へ出ていく。出番が来るまでは、屋根の上で様子を見ながら待機する予定だった。その間、雷雅から話しかけられたくなかったため、通った窓は閉めておいた。

 眠る志乃と二人残された雷雅は、風晶から暗に拒絶を示されても、にこにこと満足げに志乃を抱きかかえている。拒絶など、雷雅にとっては妨げにもならないし、不快をもたらしもしない。だいすきで、あいしている存在が傍にいるのなら、雷雅はそれで満足なのだ。

 それにしても、と。雷雅は自分でも困るくらい、一度触れると離せない人形むすめへの執着あいを、改めて自覚する。まだ行動を共にすることにはなるが、そのために一時離れることが、たまらなくせつない。ずっとこうして、腕の中にいれば良いのにと思ってしまう。


「んー……、……なおしちゃおっかなぁ。ふふ。だけど、それは避けたいからねぇ。ざーんねん」


 このひと月の間に何度思ったか分からず、何度諦めたかも分からないこと。いつでもできるそれを、やっぱり封じ込める。やってしまったら、盤をぐるりと掻き混ぜて、また一からとなるだろうから。

 気を紛らわすように、雷雅は残りの料理を食べ始める。風晶と青鷺も消費していったので、雷雅一人でじゅうぶん片付けられる量だ。仕掛けた側ゆえに罠を恐れる必要はなく、志乃に食べてほしかった分もしっかり食べさせたため、心置きなく平らげられる。

 やがて、外の色合いに青が差した。被せられていた覆いは取り払われ、真実が月光と火明かりの元にさらされる。されど、まだ夜は続く。天蓋を支配する巨大な月も、九重ここのえの最上にする二つの黄金月も、欠けることなく満ちたまま。


「あはは。俺のところに来るときは、ちゃーんと自分の足で歩いてきて、ね、志乃」


 そしたら、なんでも叶えてあげる。ずっと楽しい常春の日々をあげる。

 仮初かりそめにして幻の春、月光もにごる夜の中、黒と金の鬼は微笑みささやく。闇夜の中へ、陰翳いんえいの中へ、蝶が落ちてくるのを待っている。

 漆黒へあかく咲き誇った花が来るまでは、時など止まっているようなもの。ふすま越しに、禍々しいその気配を感じ取れるまでは、あいする人形むすめを撫でていられる。仮初の常春が、うつつの夏へ追いつくまで、雷雅は留めた蝶を抱きしめている。たいせつに、たいせつに――。


 ***


 時は戻り進んで子の刻、その先へ。

 見渡す限りの蒼い海。見渡す限り炎の海。絢爛豪華な楼閣は、今や蒼炎が落とす影の下。かげろう炎波の上では、花に風が吹き荒れている。

 風晶と芳親の戦いは、未だ風晶が優勢だった。紀定の援護も変わらず打ち払い、向かってくる芳親を迎え撃つ。一切の無駄も、衰えすらもない姿は、頂上の目前に立ちはだかる断崖絶壁と同じだった。しかし、挑みかかる登攀者とうはんしゃは、牡丹色の目から光を失わない。


『ハァァァッ!!』


 鼓舞、奔流ほんりゅうする力のうねりから発せられる雄叫びを上げて、芳親は何度目かも分からない斬撃を繰り出す。聞きすぎて馴染みすら覚え始めた、刀と金棒がぶつかり合う鋼の音が、波打つ炎を押し返す。


「――オオオォォォッ!!」


 芳親よりもずっと低い風晶の雄叫びが、びりびりと空気を揺らす。刀の斬撃とは到底比べ物にならない、重い殴打の一閃が、芳親を宙へ吹き飛ばす。

 屋根瓦という足場を失えども、万能と言える牡丹を繰り出す妖雛には苦もない。瞬時に咲き開かせた花を踏み、飛び移りながら、妙術での攻撃へと切り替える。踏まれぬ花はくるり、姿を一矢へ。宙を駆ける作り主の軌跡から、堅牢たる鬼の頭上へ次々降り注ぐ。

 けれど、鬼が纏い冠するは風。金棒を振らずとも、空いた片手をぐるり振るえば、花矢の到達を許さず散逸させる。花矢を散らす風が一周するよりも速く、芳親は屋根瓦へ舞い戻り、宙で貯めた助走を弾みにして斬りかかった。


「……ふむ。分かってきたな」


 再び金棒で防ぎつつ、互いの得物をぎりぎりと下方へ押しやって、風晶が呟く。光が失われて久しい黒々とした双眸を、炎が蒼黒く照らしていた。


「雷雅が調べても謎が多いという時点で、私もお前には興味があった。ゆえに観察させてもらったが、なるほど規格外だな」


 斬り結ばれていた鋼の縁が、解かれる。続けて炎の波が迫り来たため、双方後ろへと飛び退った。何度も炎に洗われた瓦には、芳親や風晶が繰り出した術の痕跡も残らない。


「花居志乃はまだ分かる。雷雅の介入がなかったとしても、こちらと近いからな。だが、お前は根本も、組み立ても、こちらとは異なっている」

『それは、僕が常世にいたからだと思うけど』


 話のために金棒が下げられたのを見て、芳親も一時、切っ先を下へ向けていた。ぎらつく戦意もひとまず抑えて、こてんと首を傾げている。


「その常世に入れた経緯も、こちらとしては謎でしかないのだがな。人間と相容れず、異常な花居のとは違って、お前は人間と相容れているのに異常だ。今まで見てきた妖雛、人妖兵に至れた者たちとも違っている」


 すがめられた風晶の目は、怪訝や困惑もあってか、厳しさが和らいでいた。


「花居志乃を含め、これまで現れた妖雛及び人妖兵が、人をも傷つけるつわものの剣であるというのなら。お前は奉られる剣のようだな。刃があるのに人を傷つけず、人を脅かすものを斬る」


 聞き覚えのある例えに、芳親は目を見開く。神霊由来の鬼が、弧を描く口にのこぎり状の歯を覗かせて、風晶の後ろで笑っているような。仄暗ほのぐらい蒼の中に、そんな幻覚さえ見えた。


「お前の万能は、破魔を宿し目的とするが故。四大武家の一角たる渡辺は、妙術として『破邪』を有しているが、それとはまた別だな。あれは人間が掲げる正を証明し、平らかな道を作るもの。お前は人間の隙を覆い、脆弱を守り、防ぐものだ。それは、お前自身にも効いているのだろうな。迷いなき精神は、お前自身へ組み込まれた性質に裏打ちされ、成り立っているのだろう」

『……詳しい説明はなかったけど、慧嶽けいがくにも、同じことを言われた』

「ああ、それならおおむね当たっているのだろうな。で、張本人たるお前の見解は?」

『合ってる。僕の妙術は、攻撃のためじゃなくて、守るためのもの。だから、僕の攻勢は、あんまり強くない』


 故にこそ、志乃と初めて戦った時も、志乃に押し負けた。熊井元助を始め、多くから指摘されてもきた、長らく抱え続けている欠点。


『昔と比べれば、攻撃も強くなってきたけど。やっぱり、僕の力は守るためにある。ただ、守ることが目的なら、僕は実質、万能』


 言い切ってみせる芳親の表情は、平然とした無表情。誇る必要すらないほど、芳親にとって守護の万能とは、できて当然のことなのだ。

 風晶も、芳親の内面は察したのだろう。不快を示すこともなく、ただ同じように、それが当然なのだと受け入れている。


「お前の守る対象には、花居のも含まれている。故にこそ、障壁である私への攻撃は多彩にして、いずれも強力だったのだな」

『あ、効いてたんだ』


 間の抜けた声が、真剣みを帯びていた空気を台無しにする。何を思って攻撃していたのか、疑わしくなってくるような声だったが、風晶は「安心しろ」と鷹揚おうように返事をした。


「波風とて岩を削れるのだ。私も攻撃され続ければ、消耗するし傷もつく」

『そんな風に見えない』

「仕方なかろう。実力差だ」


 じとっとした芳親の目が、にべもない正論を受けてさらに不満を募らせる。が、それはしまわれていた戦意を呼び起こせば、たぎりに呑まれて消え去る程度のものだ。突破を諦めるつもりなどない以上、気にすることはない。


「さて。一刻を争う事態の中で、私の長話に付き合ったことを考えるに。産形のは何か仕掛け終えたのか?」


 じろり。牡丹の目と向き合っていた目が、斜め後ろへ視線を飛ばし、蒼い炎に紛れていた影を捉える。紀定が姿を見せることはなく、風晶も攻撃は仕掛けない。


『うん。整えてもらった』


 そんな、静かな睨み合いがなされた間で。芳親が張り詰めた声で言った。牡丹の双眸をめた顔は、覚悟を決めた面持ちで引き締まっている。


『ちょっと、時間がかかるからね。邪魔されたら困る』

「詠唱でもする気か? ならば確かに、隙だらけになるな」

『でも、貴方は何もしてこない』

「それはそうだ。忌々しい怨敵おんてきの指示など遂行したくないというのもあるが……娯楽など、失われてとうに久しいのでね。仮初の興味でも、そそってくれるものなら放っておいて、経過を見たくはある」


 言いながら、風晶は大きな動きもなく、風刃を繰り出してけしかける。蒼い炎を巻き込んだそれは、途中で無に帰された。蒼黒い火影から放たれた、術を纏う苦無によって。


相剋術そうこくじゅつ……を、応用したものか。これがあちこちに撒いてあると。どれ、いくら仕掛けてあるのやら」


 至極冷静な態度を崩さないまま、風晶は手当たり次第、四方八方へ風刃を飛ばす。蒼炎の海が掻き回され、荒れ狂う様を前にしながら、芳親は切っ先を石突に、柄の頭に両手を重ね乗せて、杖のように構えた。


かぐわしき天香てんこう。獅子も憩う雫の源。つぼみを開くは、崩れを知らぬ花砦はなとりで


 渦巻き、波打ち、宙へと舞い上がる蒼炎の波濤はとう。風晶によって荒れ狂わされていた炎の海を、芳親の足元から、新たな波紋と風が侵食していく。

 赤、白、紫の光が混ざり合い、芳親を囲って巡り回る。あおられた前髪の下から現れた目が、光を受けてさらに鮮やかさを増していく。


八重やえ曲輪くるわは虫も通さず、花芯かしんは傾きを知らず。安寧秩序の夢幻を今ここに――難攻不落の百花城』


 おごそかに唱えられ、声に彩られて顕現を許されたもの。解き放たれた牡丹色の波動が、一気に蒼炎の海を塗り替える。紀定が仕掛けていた、苦無の影と拮抗していた風の刃を押し返し、霧散させる。

 先駆けの色を追いかけて、半透明の牡丹が群れを成し、咲き走っていた。横だけでなく縦へも咲き広がっていくそれは、唱えた通り城塞の様相を形作る。勢いにひらりと翻弄ほんろうされた花びらは、地に落ちた途端、新たな花として加わっていく。


「ほう、見事なものだ。しかし、そんなに大きな的を広げていては、維持が困難になろう」


 表情一つ変えずに言って、風晶もまた、金棒の先端を瓦へと向けた。


『恐れよ、恐れよ。ここに渦巻くはさらし風。いかに隠せど逃しはせぬ。畏れよ、畏れよ。天より降り来たる息吹いぶきは、野を分け断ちく一撃なり』


 散り散りになった蒼炎と、迫る半透明の牡丹を巻き込んで、風晶の周囲に突風が渦巻く。縦に、横に、斜めに。詠唱の邪魔が入らないよう、盾の役目も果たす風は、一つ一つが刃を研いで極まっていく。


『三つ目の白日にて、覆われし全てを明らかに――颱渦たいかの進攻』


 大小さまざまに現れた風刃の群れは、一声を下された途端、うなりをあげて疾駆した。

 花が散る、散る、散る。咲き開く、咲き誇る、咲き乱れる。風が切り裂き、穿うがち、殴打する。再生を繰り返す百花の城と、巡り吹く暴風の破城槌はじょうつい。ついには屋根瓦も巻き込んで、蒼炎に彩られた透明と、千紫万紅が拮抗する。

 ここでも差は明らかとなった。ほどけても巻き直す風刃と違い、無から咲き開く牡丹は、徐々に力から枯れていく。それでも不落を完遂せんと、本丸は揺るがず咲き誇り続ける。展開する芳親の体をむしばみながら。


『……ッ』


 現世と幽世に戻され、馴染んだ体がきしみ始める。常世の神秘に追いつかなくなる。視界が端から狭まっていく。体内の膜たちに破裂が迫る。それをぎりぎりでき止めながら、芳親は再び口を開いた。


『……漂い満たす天香。獅子を見送る花の露。蕾を開くは、花礫かれきつがえた弓待つ矢狭間やさま


 風炎の荒波に散らされながら、けれど花々は宿した光を強めていく。散逸した花びらは、巻き上げられたちりから、号令を待つやじりとなって、揉まれながらも輝きを放ち始める。


『八重の曲輪は力をがくに、花芯は蓄えをしべの先に。散りゆく夢幻よりはなむけの実を――百花飛散、一斉射!!』


 上げられた刀の切っ先が、真っすぐ、的を指し示した。風を繰り出す不動の鬼ではなく、未だ尽きぬ蒼炎を抱えた、青鷺を。

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