後/仇
花の砦
子の刻より前へ、時は
さすがに全てとはいかなかったものの、志乃は贈られた料理の半分以上を食べ終えていた。膨大な味を叩きつけられて舌が、結構な量を入れられて胃が驚いたこともあって、途中で降参せざるを得なくなってもいたが。
「……すみません。残してしまって」
「気にしなくて良いよー。さすがに俺もー、用意しすぎちゃったよなーって思ってたんだー。残りは俺たちで食べるからー、志乃はちょっと休まなきゃだねー」
隣に居座り続けた雷雅が、志乃の頭を撫でながら笑う。べったり付き
ウトウトと
「志乃嬢がお休みになられたということは、もう始めてしまってよろしいので?」
ひたすら軽快に喋り倒していた青鷺が、ひどく落ち着いた声音に笑みで問いかける。上機嫌な雷雅の返答は「いいよー」と軽く、無邪気ですらあった。
「それでは、あっしはこれにて。どうもお世話になりました、雷雅様。風晶様にはまだお世話になりますけど」
「ああ。と言っても、お前は消えるだけだから、私が面倒を見る必要もないと思うがな」
にっこり、青鷺は空っぽの笑顔で返して、今まで通り平然と退出した。
彼が出ていくと、当然ながら室内は静まる。初夏を迎えた外から隔てられ、春の夜を思わせる空間は相変わらずだが、幻は解け始めの
花楼の九階に灯されている火は、狐火でも、これから正体を現す鷺の火でもないため、何の影響も受けず灯り続けている。春めいて柔く、ほのぼのと優しい中で、傾国の鬼は笑っていた。朧月の双眸を、たった一人の
「私も準備をしておこう。……本当にいいんだな、雷雅」
「あはは、風晶は心配性だなぁ。うん、でも、分かるよぉ。だって、志乃を呪詛に
変わらない軽さと緩さで、雷雅はどこまでも本当のことを言う。事実、志乃が
囚えた蝶を愛おしいと愛でておきながら、その
「大丈夫だよー。志乃を死なせはしないしー、こっち側に来させるのも、たぶん多勢にとってよくない。だからー、対処は何が何でもしてみせるよー。まあ、どうにもならなかったら、
抱きしめた志乃に頬を寄せながら、雷雅は何でもないことのように言ってのける。実際、雷雅にとっては、ほとんどのことが何でもないのだ。盤上に数多の駒がいて、飽きることなく掻き混ぜ並べて遊んでいられる。盤を挟んで向かいの席、誰も座らない空席には、目を向ける必要すらない。
「そうか。花居志乃がこちらに来ないことを願うばかりだ」
「えー。確かに志乃がこっちに来るのは良くないけどー、駄目じゃないんだよー? いいじゃない、志乃がいるの。こーんなに可愛いんだからー」
「お前の元で幸福になれる奴などいない。閉じ込められて人形のように扱われるのと、人の側で人として生きていくのなら、どちらがマシかなど明白だろう」
吐き捨てて、風晶は窓から外へ出ていく。出番が来るまでは、屋根の上で様子を見ながら待機する予定だった。その間、雷雅から話しかけられたくなかったため、通った窓は閉めておいた。
眠る志乃と二人残された雷雅は、風晶から暗に拒絶を示されても、にこにこと満足げに志乃を抱きかかえている。拒絶など、雷雅にとっては妨げにもならないし、不快をもたらしもしない。だいすきで、あいしている存在が傍にいるのなら、雷雅はそれで満足なのだ。
それにしても、と。雷雅は自分でも困るくらい、一度触れると離せない
「んー……、……
このひと月の間に何度思ったか分からず、何度諦めたかも分からないこと。いつでもできるそれを、やっぱり封じ込める。やってしまったら、盤をぐるりと掻き混ぜて、また一からとなるだろうから。
気を紛らわすように、雷雅は残りの料理を食べ始める。風晶と青鷺も消費していったので、雷雅一人でじゅうぶん片付けられる量だ。仕掛けた側ゆえに罠を恐れる必要はなく、志乃に食べてほしかった分もしっかり食べさせたため、心置きなく平らげられる。
やがて、外の色合いに青が差した。被せられていた覆いは取り払われ、真実が月光と火明かりの元に
「あはは。俺のところに来るときは、ちゃーんと自分の足で歩いてきて、ね、志乃」
そしたら、なんでも叶えてあげる。ずっと楽しい常春の日々をあげる。
漆黒へ
***
時は戻り進んで子の刻、その先へ。
見渡す限りの蒼い海。見渡す限り炎の海。絢爛豪華な楼閣は、今や蒼炎が落とす影の下。かげろう炎波の上では、花に風が吹き荒れている。
風晶と芳親の戦いは、未だ風晶が優勢だった。紀定の援護も変わらず打ち払い、向かってくる芳親を迎え撃つ。一切の無駄も、衰えすらもない姿は、頂上の目前に立ちはだかる断崖絶壁と同じだった。しかし、挑みかかる
『ハァァァッ!!』
鼓舞、
「――オオオォォォッ!!」
芳親よりもずっと低い風晶の雄叫びが、びりびりと空気を揺らす。刀の斬撃とは到底比べ物にならない、重い殴打の一閃が、芳親を宙へ吹き飛ばす。
屋根瓦という足場を失えども、万能と言える牡丹を繰り出す妖雛には苦もない。瞬時に咲き開かせた花を踏み、飛び移りながら、妙術での攻撃へと切り替える。踏まれぬ花はくるり、姿を一矢へ。宙を駆ける作り主の軌跡から、堅牢たる鬼の頭上へ次々降り注ぐ。
けれど、鬼が纏い冠するは風。金棒を振らずとも、空いた片手をぐるり振るえば、花矢の到達を許さず散逸させる。花矢を散らす風が一周するよりも速く、芳親は屋根瓦へ舞い戻り、宙で貯めた助走を弾みにして斬りかかった。
「……ふむ。分かってきたな」
再び金棒で防ぎつつ、互いの得物をぎりぎりと下方へ押しやって、風晶が呟く。光が失われて久しい黒々とした双眸を、炎が蒼黒く照らしていた。
「雷雅が調べても謎が多いという時点で、私もお前には興味があった。ゆえに観察させてもらったが、なるほど規格外だな」
斬り結ばれていた鋼の縁が、解かれる。続けて炎の波が迫り来たため、双方後ろへと飛び退った。何度も炎に洗われた瓦には、芳親や風晶が繰り出した術の痕跡も残らない。
「花居志乃はまだ分かる。雷雅の介入がなかったとしても、こちらと近いからな。だが、お前は根本も、組み立ても、こちらとは異なっている」
『それは、僕が常世にいたからだと思うけど』
話のために金棒が下げられたのを見て、芳親も一時、切っ先を下へ向けていた。ぎらつく戦意もひとまず抑えて、こてんと首を傾げている。
「その常世に入れた経緯も、こちらとしては謎でしかないのだがな。人間と相容れず、異常な花居のとは違って、お前は人間と相容れているのに異常だ。今まで見てきた妖雛、人妖兵に至れた者たちとも違っている」
「花居志乃を含め、これまで現れた妖雛及び人妖兵が、人をも傷つける
聞き覚えのある例えに、芳親は目を見開く。神霊由来の鬼が、弧を描く口に
「お前の万能は、破魔を宿し目的とするが故。四大武家の一角たる渡辺は、妙術として『破邪』を有しているが、それとはまた別だな。あれは人間が掲げる正を証明し、平らかな道を作るもの。お前は人間の隙を覆い、脆弱を守り、防ぐものだ。それは、お前自身にも効いているのだろうな。迷いなき精神は、お前自身へ組み込まれた性質に裏打ちされ、成り立っているのだろう」
『……詳しい説明はなかったけど、
「ああ、それなら
『合ってる。僕の妙術は、攻撃のためじゃなくて、守るためのもの。だから、僕の攻勢は、あんまり強くない』
故にこそ、志乃と初めて戦った時も、志乃に押し負けた。熊井元助を始め、多くから指摘されてもきた、長らく抱え続けている欠点。
『昔と比べれば、攻撃も強くなってきたけど。やっぱり、僕の力は守るためにある。ただ、守ることが目的なら、僕は実質、万能』
言い切ってみせる芳親の表情は、平然とした無表情。誇る必要すらないほど、芳親にとって守護の万能とは、できて当然のことなのだ。
風晶も、芳親の内面は察したのだろう。不快を示すこともなく、ただ同じように、それが当然なのだと受け入れている。
「お前の守る対象には、花居のも含まれている。故にこそ、障壁である私への攻撃は多彩にして、いずれも強力だったのだな」
『あ、効いてたんだ』
間の抜けた声が、真剣みを帯びていた空気を台無しにする。何を思って攻撃していたのか、疑わしくなってくるような声だったが、風晶は「安心しろ」と
「波風とて岩を削れるのだ。私も攻撃され続ければ、消耗するし傷もつく」
『そんな風に見えない』
「仕方なかろう。実力差だ」
じとっとした芳親の目が、にべもない正論を受けてさらに不満を募らせる。が、それはしまわれていた戦意を呼び起こせば、
「さて。一刻を争う事態の中で、私の長話に付き合ったことを考えるに。産形のは何か仕掛け終えたのか?」
じろり。牡丹の目と向き合っていた目が、斜め後ろへ視線を飛ばし、蒼い炎に紛れていた影を捉える。紀定が姿を見せることはなく、風晶も攻撃は仕掛けない。
『うん。整えてもらった』
そんな、静かな睨み合いがなされた間で。芳親が張り詰めた声で言った。牡丹の双眸を
『ちょっと、時間がかかるからね。邪魔されたら困る』
「詠唱でもする気か? ならば確かに、隙だらけになるな」
『でも、貴方は何もしてこない』
「それはそうだ。忌々しい
言いながら、風晶は大きな動きもなく、風刃を繰り出してけしかける。蒼い炎を巻き込んだそれは、途中で無に帰された。蒼黒い火影から放たれた、術を纏う苦無によって。
「
至極冷静な態度を崩さないまま、風晶は手当たり次第、四方八方へ風刃を飛ばす。蒼炎の海が掻き回され、荒れ狂う様を前にしながら、芳親は切っ先を石突に、柄の頭に両手を重ね乗せて、杖のように構えた。
『
渦巻き、波打ち、宙へと舞い上がる蒼炎の
赤、白、紫の光が混ざり合い、芳親を囲って巡り回る。
『
先駆けの色を追いかけて、半透明の牡丹が群れを成し、咲き走っていた。横だけでなく縦へも咲き広がっていくそれは、唱えた通り城塞の様相を形作る。勢いにひらりと
「ほう、見事なものだ。しかし、そんなに大きな的を広げていては、維持が困難になろう」
表情一つ変えずに言って、風晶もまた、金棒の先端を瓦へと向けた。
『恐れよ、恐れよ。ここに渦巻くは
散り散りになった蒼炎と、迫る半透明の牡丹を巻き込んで、風晶の周囲に突風が渦巻く。縦に、横に、斜めに。詠唱の邪魔が入らないよう、盾の役目も果たす風は、一つ一つが刃を研いで極まっていく。
『三つ目の白日にて、覆われし全てを明らかに――
大小さまざまに現れた風刃の群れは、一声を下された途端、
花が散る、散る、散る。咲き開く、咲き誇る、咲き乱れる。風が切り裂き、
ここでも差は明らかとなった。ほどけても巻き直す風刃と違い、無から咲き開く牡丹は、徐々に力から枯れていく。それでも不落を完遂せんと、本丸は揺るがず咲き誇り続ける。展開する芳親の体を
『……ッ』
現世と幽世に戻され、馴染んだ体が
『……漂い満たす天香。獅子を見送る花の露。蕾を開くは、
風炎の荒波に散らされながら、けれど花々は宿した光を強めていく。散逸した花びらは、巻き上げられた
『八重の曲輪は力を
上げられた刀の切っ先が、真っすぐ、的を指し示した。風を繰り出す不動の鬼ではなく、未だ尽きぬ蒼炎を抱えた、青鷺を。
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