情炎・蒼

 直々の呼び出しという想定外を受け、四人は当初の予定を変更し、外套を脱いで堂々と、正面から花楼へ入った。全員、元々着ていた服装に戻っていたため、傍目には再び団体客一行が訪れたようにも見える。

 だが、花楼内部に漂うのは、歓待とはかけ離れた雰囲気。働き手たちは姿を見せず、灯された光が震えている。しんと静まり返る中、白雨が原因という威圧の澱みで、空気だけが重い。

 絡繰からくりの駆動音すら立てない禿が、滑るように進む真後ろを芳親が追随し、目立たない色合いをした着物の三人がさらについていく。図らずもその隊列は、少し前に訪れた雷雅一行と似ていた。黒い装いの雷雅が夜を率いていたなら、白い装いの芳親は昇る月に見える。暗夜は晴れて、沈んでいたものが明らかになろうとしている。

 一行は上昇箱ではなく階段で、重苦しい空気の中を颯爽と進んでいた。白雨を待たせ、怒りで暴れられては敵わない。故に四階へも早く到着した。絵画における瘴気を表す、黒い霧が今にも溢れ出そうな……否、既に漏れ出ている大広間の前にも。


「境田芳親を連れて参りました」


 相変わらず情の見えない禿の声が告げれば、自ずと襖が開いていった。広間もまた明るかったが、流れ出る悪寒と危機感が、入室者たちの肌をひりつかせる。


「あァ……思ってたより、早かったねェ」


 広間の奥、準備の道具が散乱したままの上座から、ゆらり立ち上がる白銀の影。鎌首をもたげる蛇のように九つの尾を広げて、白雨が一行を出迎えた。

 散乱しているのは、床上の道具だけではない。未完成の花魁姿もまた、髪も打ち掛けも乱れて狂騒の跡が窺える。あられもなく、けれど強者の品を失わず、白銀に紅の混じった狐は嫣然えんぜんと微笑んでいる。


「何だい、そのなりは……ああ、なるほどねぇ。何で利毒が招き入れたかは分からないけど……色護衆か、貴様ら」


 ぎろり、蜂蜜色の目は鋭く、紅を引いた口からは牙が覗く。毛先が紅い九尾も逆立ち、空気の重さがいっそう増した。


「忌々しい……忌々しい、忌々しい忌々しい! 貴様らの相手などしたくもないわ、汚らしく生き延びようとする塵芥の集まりごときが……っはは、だけど。だけどねェ、芳親。あんたがここであたしに食われるのなら、見逃してやっても良いよ。そこの見目が良い人間も食いたくはあるが、あたしも暇じゃないんだ。早く綺麗になって、雷雅様の所へ行かなくちゃいけないんだから……」

「断る」


 軋みながら早まっていく声を、恐れなど微塵もない即答が切り裂く。もはや隠されなくなった気迫も、混じって濃くなっていく狂気も恐れずに。


「僕たち、も……行かなきゃ、いけない。……邪魔、しないで」

「利毒の所へかい? どこにいるかも分からないだろう。あたしだってそうなんだから」

「それでも……最上階に、いる、仲間と……合流、しなくちゃ、いけない」


 ぴくり、白雨の方が跳ねる。「ああ、そう」と低い声が落ちると同時に、狐の顔と気配の鋭さが増した。


「あんたたちもかい。……あんたたちも、志乃って奴の所に行くんだねぇ……」


 ずるり、ずるり。尾を引きずり、裾を引きずり、ゆっくりと狐が迫り来る。ずるり、ずるり、保たれ纏われていた綺麗な皮が剥がれていく。


「ねぇ。あんな小娘のどこが良いんだい? あんな女より、あたしの方がよっぽど綺麗だろう?」


 ざわり、ざわり。朱紅混じりの白銀が増す。ざわり、ざわり。見定める視線の先、獲物の肌を粟立たせる、おぞましい気配が大きくなる。


「綺麗じゃないって言うならさァ……あんた、糧になっておくれよ、芳親。あんたの目が欲しいんだよ。花の色をした目が。……ああ、そこの人間。あんたも布で隠してたのかい。顔の形が良いねェ。芳親諸共、糧になっておくれよ」


 大広間を埋め尽くすほどの巨躯、その先端に備わった、凶悪な牙の覗く口が笑う。狂ってもなお艷やかな声を発する。

 朱紅混じりの白銀の九尾が、飛びかからんと体勢を低くしたのを察して、芳親は素早く抜刀していた。紀定もまた苦無を手に、鷺たちは習得済みの術を発動できるように構える。

 志乃と合流し、利毒の呪詛拡大を阻むための前哨戦。狐は殺戮の予感に心躍らせ、相対する四人は感覚を研ぎ澄ませた。


「……、?」


 その中で、一人。妖狐と同じく高揚も覚え始めていた芳親は、面の奥で眉根を寄せる。

 点のように小さな異物の気配、違和感。初めて白雨と遭遇した時に感じ、結局は正体の分からなかった違和感がして。


 ――ぐしゃり。


 遮るように、湿った砂袋を貫くような音がして。


「――あ?」


 音の出どころに、皆の目が集まっていく。新雪のごとき白銀の腹に、赤い蕾が突き出していた。白雨の腹を突き破って、鮮血でぬらりと光るつぼみが。

 ごふ、と。口から真紅の滝も現れる。白雨の口から溢れた血が、瞬く間に白銀を汚す。四肢も床も赤く染められていく反面、妖狐の背上では黒い影がむくむくと膨らみ現れて、継ぎ接ぎだらけの蜘蛛を形作っている。


「ぐ、ぁ……あああああああぁぁァアア!?」


 おぞましくも美しい女狐の顔が歪んでいく。声から女の面影が失われる。咆哮を上げ、白銀の巨躯がのたうつ。白雨はしかし、どくどくと血を流しながらも激しく動けない。継ぎ接ぎだらけの蜘蛛から、抱え込むように抑えつけられているせいで。


「ッ……!」


 咄嗟に、芳親が呪力の牡丹を咲かせようとしたが。瞬く間に視界が青く染め上げられ、白雨の姿が見えなくなった。照明の火が色を変えたのだ。温かな橙から、冷たい青白へ。華やかな世界が、水底のような世界へ一変する。


「紀定……!」


 咄嗟に背後を振り返ったが、いたはずの三人が見当たらない。だが気配は拾えている。見えない壁で隔てられてしまったような感覚に、面の奥で複雑の色を濃くしつつも、芳親は周囲の観察に努めた。

 青が照らす大広間を見渡しても、楼閣の外からでも感じられた白雨の気配は、拭き取られたかのように無くなっている。その他に危機を予感させるもの、敵意を感じさせるものは無く、鬱蒼とした世界で静かに火影が揺らめくばかり。

 急変に惑いつつも、芳親は警戒を怠らずにいた。そこへふと、跳ね躍り出る影が一つ。

 芳親よりも小柄で、子どもと一目で分かる影。しかし実体は無いようで、あやふやな靄の塊のまま、踊るように動き回っている。

 動く度に影は増え、いつの間にか、小規模な子どもの集団が現れていた。追いかけっこをするかのように、音もなくはしゃぎ回っていた子らは、芳親の両隣を横切って駆けていく。つられて振り返れば、影の一人と顔を見合わせるような形になった。


「……、……。ついて、行けば……いいの?」


 来ないのかと問われているような気がして、芳親は首を傾げた。影は何も言わず、こくりと頷いて早々に走り出したが、少し先で立ち止まっている。


「……、……」


 敵意や害意は感じられない。むしろ気配が薄すぎて、脆弱ばかりが目につく。あの白雨の前ではひとたまりもなかっただろうに、どこに隠れ潜んでいたのだろう。

 不可解なことはいくらでも湧いてくるが、ひとまず芳親は影の後を追いかけた。方向としては大広間へ来た時の道、ほとんど一本道な廊下を逆行しているはずだが、入り組んで迷路と化している。幻覚を見せられていることは明白だが、なぜ今、誰がどうして割り込んできたのかまでは分からない。

 やがて影が足を止め、芳親が間近に歩み寄っても動かなくなった。周囲は変わらず蒼黒、穏やかな静謐に包まれている。


「……ねえ」


 芳親が、質問を絞るための沈黙を破った直後。影が震えて形を崩し、落ちて凝った黒の中へ溶けていく。すると怪火の勢いが増して、赫灼かくしゃくとした群青が視界を満たした。

 思わず袖で目を庇うほどの眩光がんこうはすぐに収まり、芳親も即座に察して腕を下ろす。青い怪火の世界は、忘花楼ではない別の屋内を照らし出していた。これもまた幻覚なのだろうが、やはり目的は分からない。

 唐突に現れた屋内の様相は、大きな屋敷の広間らしかった。中央に火のない囲炉裏があり、周囲を影が囲っている。


「――いいか、お前たち。旦那が帰ってくるまでの辛抱だ。わしらはここを、絶対に守り抜かなきゃならねェ」


 聞き覚えのある声がして、ハッと見開かれた牡丹の瞳が、影の一つに吸い寄せられた。


「だが同時に、生き残らなくちゃならん。だから敗色が濃くなったら、逃げろ。逃げて生き延びろ。わしらは皆、旦那に拾ってもらった命。旦那の居場所を形作る、かけがえのない一つ一つの要素だ。無駄に散らすわけにはいかねェ」


 車座の一角、詳細の分からない影の中から、姿が浮かび上がるものが一つ。撫で付けた濃藍の髪に赤い瞳、青みがかった灰色の装いをした五井鷺が、険しい顔で影たちに向き合っていた。


「孤独のさみしさは、みんな知ってるだろう。青鷺の旦那の一番嫌いなもんがそれだってことも。旦那にそれを背負わせちゃならねぇ。わしらが一番に考えるべきなのは、わしらの居場所に帰ってくることだ。旦那さえいりゃ、わしらはまた一緒に暮らせる」


 顔の見えない影たちが、頷いたり顔を見合わせたり、各々の反応を示している。それはきっと、青柳座に属する鷺たちなのだろうことは察せられた。彼らに何らかの危機が迫っていることも。

 ぶわり、足元から青い怪火が伸び上がって、五井鷺たちのいる広間に覆い被さっていく。そして足元から消えていくと、また別の風景が現れた。

 今度は屋外、地面が動いている。否、視界の持ち主が走っているのだ。切らした息遣いの合間に、また声が聞こえてくる。


「小鷺、小鷺。あとちょっとだからな。あとちょっとで合流場所だ」

「う、ん……」


 疲労が色濃く現れた五井鷺の声。消えかけそうなか細い小鷺の声。既にふらついていた視界ががくりと揺れて、倒れていく。目指していたのだろう方角には、曇り空と川があったが、獣の足に遮られてしまった。白銀に、血がべっとりと付いた足だった。


「あ、ぁ……」


 悔恨、苦渋、慟哭の色が一緒くたになった声。せり上がってきた青い炎が、景色を覆い尽くしていく。熱くも冷たくもなく――音も、なく。

 そのまま、幻覚は終わりを告げたらしい。火明かりは青いままだが、本当の忘花楼に戻っているようだ。

 芳親は廊下の突き当たりに立っていた。引き返してみれば大広間へと戻れたが、蜘蛛に囚われていた妖狐の姿はない。流血や暴れ狂ったのだろう痕跡はあったが、大広間の中だけで終わっている。


「……、……静か、すぎる……けど」


 紀定の気配だけは絶えず拾えている以外、芳親に語りかけてくるもの、訴えかけてくるものは無い。時の流れから置き去りにされたように、忘花楼は寒く冷たい炎に照らされている。


「……眠って、る……みたい」


 不気味とも捉えられそうな蒼の世界に、呟く。芳親が感じていたのは、微睡むような停滞だった。

 居心地が良いとまでは言えないが、身を任せればゆるり溶け出して、幽暗と混じってしまえそうで。それを安心と錯覚できそうな空間は、淋しい。むぐらに閉ざされたいおりで、秋霖しゅうりんの音を聴き続けているかのように。

 何とも言えないまま、芳親は立ち尽くしていた。事態が急を要するとは分かっていても、ここで何か、感じ取らなければならない気がしていた。

ひたすら哀しいだけのここには、妙な離れがたさもある。暗い顔をしている人や、涙を流す人に憶えるもの。励ましていなければという焦燥。そういうものに似た、離れがたい空気。


 人はいつ、自分から遠ざかって行ってしまうのか分からない。人はいつ、いなくなってしまうのか分からない。その未知は、胸の中に広がる温もりを細め、消えかけまで追い詰める。


「……、……帰り、たい」


 帰りたい。家族や仲間の元へ帰りたい。


 ひどく幼い願いをぽつりと零して。俯き始めていた顔を上げて。芳親は青い炎たちを、落とされた蒼い火影を見た。炎を伝ってくる思いは、それだけなのだと。

 帰りたい、戻りたい。蒼光が染み渡り、胸の内へ迫ってくる。淋しい、哀しい。心臓を締め上げようとする。

 振り払うように、芳親は踵を返した。胸中に入り込まれたことへの嫌悪は無く、むしろ火種にして。

 分からないことが多々ある中、新たに分かったことが一つ。青く蒼い怪火の持ち主は、救われなければならない。

 歩き出した芳親の前に、ひとりでに浮かぶ怪火が現れた。声をかけずとも先導を開始するそれに、芳親もまた疑うことなくついていく。

 青に満たされた静謐の忘花楼は、迷宮と化していた。憶えていた道順がまるで役に立たないほど、縦横無尽、無茶苦茶な様相で入り組んでいる。けれど怪火はするする飛行し、芳親も道の複雑さを気にせず追い駆けていた。


「――紀定!」


 しばらくして、知った気配が明確になる。芳親の名を呼ぶ声が前へ飛べば、すぐに目当ての人影が現れた。


「芳親殿、ご無事でしたか」

「うん、無事」


 どこなのかすら分からなくなった廊下の真ん中、そこへ続く左右からそれぞれ合流した二人が足を止めると、怪火もまたピタリと止まった。芳親と同じく、紀定も別の怪火から先導されて走ってきたらしい。


「離れている間、何かありましたか」

「……鷺たち、の……記憶、みたいなもの……見た。けど……不確か、で……謎、ばっかり」

「ええ、私も見ました。あの光景をそのまま受け取るのなら、五井鷺殿と小鷺殿は……白雨に喰い殺されていることになります」


 少し躊躇ちゅうちょした紀定だったが、すぐに仮説を唱える。芳親も頷いたが、仮面の奥では眉を潜めていた。


「……あの二人が、死んでる、として……じゃあ、僕たちと、一緒にいた、二人は……、……変装した、誰か?」

「その可能性が最も高いでしょうね。死して霊体となっていたのなら、芳親殿が気付かないのは不可解です。忘花楼自体に、貴方の認識を鈍らせる術がかけられており、気付けなかったという可能性もありますが」


 至極冷静に語る紀定に、再び芳親も頷く。かと思えば、何か思い至ったかのように牡丹の目を見開いて、二つになった怪火を見た。音もなく燃え、待っているかのように宙で止まる冷色の怪火を。


「……五井鷺、小鷺?」


 か細く問うた声に、ぼっ、ぼっ、と怪火が二つとも膨らむ。しかしそれ以上の反応は見せず、ふよふよとゆっくり前進して、止まった。二人の先導は完了していないとばかりに。


「……行きましょう、芳親殿。どのみちここから抜け出さなくては、利毒の阻止も叶いません」

「うん」


 やり取りが聞こえたのか、二つの怪火はどちらも滑るように動き出す。芳親と紀定も余力は充分、後を追って走り出していた。

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