情炎・暮

 獣は情が濃く、狐は特にそうだと言う者もある。


 千に届くかというほど昔、呼ばれる名もなかった白雨も聞いたことのある噂だが、人間は何も知らないのだなと侮蔑していた。情が濃いというのなら、毛の色が違うだけで嫌われるはずがないと。

 かつて、白雨の毛並みはすすけた灰色をしていた。自分たちが食うねずみと同じ、後は死ぬだけの老いぼれと同じ、見窄みすぼらしくて弱い色。いやしい色で生まれてきた白雨を、母親は疎んで不孝と吐き捨て、同胞はらからは醜いと嘲笑った。追い出されるように独り立ちしても、会うものは皆、灰色の狐を邪険に扱った。

 嫌厭けんえんされる以上、群れて暮らす必要はない。白雨は野山から離れ、人間の傍でひっそり暮らすようになった。最初は里でひっそり暮らしていたが、次第に規模の大きな所へと移り、やがて都の片隅へと辿り着いていた。


 そこで、人間の華やかな暮らしぶりを見ると同時に。この世で最も美しいだろう人間を目にした。それがすべての始まりと言っても過言ではない。


 音に聞く貴族の屋敷とはどんなものかと興味が湧いて、矮躯わいくを良いことに忍び込んだ春の夜。朧月、吊り灯籠と石灯籠が柔らかく浮かび上がらせた庭に、ぞっとするほど美しい人間が立っていたのだ。

 艷やかな黒の短髪と、白皙の肌。胸を締めつけるような、愁いを乗せた睫毛まつげが縁取る切れ長の目。直衣のうし姿から男だと分かるが、女と言われても不思議ではないほど、その人間は美麗だった。

 見惚れる狐に、男が気づく。茂みの中、我を忘れて呆然と固まっている獣に、顔をしかめることも、嘲弄することもせず、男は微笑んだ。朧月や灯籠と同じ柔らかさで。


 煤けた灰色の狐にとって、それは初めて向けられたもの。透き通って美しく、こちらの心も解きほぐすようなもの。

 何も言わず去ってしまった男を、白雨は追えなかった。初めて、垢抜けていない己を恥じたがゆえに。しかし、少しずつ込み上げるものもあった。近づきたいという願いが。


 近づきたい、そばにいたい、隣に立ちたい。

 あの微笑を、間近で、独り占めしたい。


 決心してしまえば、もう直向ひたむきに取り組むだけ。術を操る妖獣となるべく、努力の日々が始まった。

 今まで以上に人間を観察し、術の研究に奔走すること数年。素養もあってか、白雨は様々な術を習得して、人の繋がりも得て、男の屋敷に雇われることができた。けれど見えてしまったのは、陰裏で渦巻く欲望や謀略と、その渦に笑って身を投じ、堪えもせず美しく在る男の姿だった。

 向けられるものが何であろうとも、男は汚れないどころか、美麗を増し続ける。灰色の狐が向けた欲ですら、慣れた様子で受け入れて。狐が正体を明かしても、とっくに知っていたと、気にならないと微笑んで。その微笑と言葉に、狐も心を蕩かされていった。


 ところが、男は都を追放される。男を盲信していた数多の人々と同様に、狐も涙に暮れた。胸を貫く痛烈は、どんなに泣いても薄れなかった。それを癒やせたのは、黒雲に乗って戻ってきた男、魔性と化して咲き誇った男だけ。

 戻ってきたのなら、またお傍に。そう歓喜したのも束の間、男が懇意にしていた人間を一人連れ去って物にしたと聞いて、狐はまた新たな心を手にした。妬み嫉みで燃える心を。


 誰であろうと、許すまじ。あの方の寵愛を手にするのは、私。


 愛する男が魔性となったのなら、己も魔性に堕ちねばなるまい。そうしなければ釣り合わない。灰色の狐は長らく使ってきた人の姿を脱ぎ、獣として野に戻った。力あるものを討ち倒し、食い殺し、糧にして強くなるために。

 男がもたらした災雷によって、狐以外にも跋扈ばっこするモノたちが溢れ、現世は混乱に晒された。幽世は弱肉強食が顕著となり、灰色の狐もまた、弱きを踏みにじって強者へと上り詰めていた。食らえば食らうほど力が高まり、見窄らしいと嗤われた毛並みが白銀へと変わり始めていたことも、狐を調子づかせていた。


 私を見て、私を見て。こんなにも強く美しい私なら、あなたの隣に置いても見劣りしないでしょう。だから、またお傍に置いてくださいまし。また微笑みをくださいまし。私が望むのはそれだけ、あなたに愛してもらうことだけ。

 そのためだけに生きていると言ってもいいのです。あなただけが、私の生きがいなのです。


 うずもだえながら愛しい男を想い、狐は多くを食い漁り続けた。毛並みはいつしか赤の混じる白銀に、尾は最大の九つに。頂きを極めた狐はしかし、かつても今も己を厭う同族と、共謀した人間に襲われる。


 討たれるものか、討たれるものか。

 邪魔をするな、邪魔をするな!


 討伐に来た同族も人間も薙ぎ倒して奮迅ふんじんしたものの、狐はとうとう封じられた。それでも諦めなかった。諦められるはずも、忘れられるはずもなかった。どんな慰めも抑えられなかった火照り、疼きが、ただ一人を求めて泣き叫んでいる。

 愛しているのです、愛しているのです。恋しいのです、恋しいのです。城でも国でも傾けるあなた、されど何にも傾かないあなた。あなたの傍にいられないことが、何よりも痛くて哀しいのです。

 あなたを想って幾星霜。ようやく戻ってこられました。起きがけに狸やいたち、他にもたくさん食らって、力も美しさも取り戻して。これからもまだまだ美しく強くなりますから、どうか私を傍に置いて、どうか私に微笑みかけて――。


 そう、新たに咲こうとしていたというのに。


「……どう、して……?」


 途方に暮れたか弱い女の声が、ぽつり。白銀の毛並みと九尾を手に入れた狐の呟きは、がらんとして薄暗い大広間に落ちていく。白雨は自室を兼ねた八階ではなく、四階に設けられた大広間にて準備を進めていた。あえて雷雅から離れて冷静を保つというのもあったが、奥ゆかしく勿体つけた演出で向かう予定だったために。

 花魁の姿は完成していない。それどころではなくなって、手伝いの者たちを下がらせてしまっていた。唯一残っているのは、凶報をもたらした式神禿だけだ。利毒が従えているものではなく、雷雅が――想い続けてきた男が寄こしたもの。


『白雨に用は無いよ』

『志乃がいるものー。白雨は要らないよー』


 待ち焦がれた声で、切り捨ての言葉を吐いたもの。


 静寂の水面に落ちた、呟きの波紋が消える。途端、金切り声の悲鳴が荒波を立てた。どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 何が足りなかったのだろう。何が駄目だったのだろう。雷雅の隣に相応しくなれるように頑張って、頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って。邪魔するものは殺し、糧にし、力をつけた、強くなった。同族と人間たちから封じられても、雷雅への想いを忘れたことはなかった。忘れられるわけがなかった。


「――あの女」


 余波が揺らす水面にぽつり。再び声が零れる。今度は沸々と、静寂が熱せられていく。

 あの女、あの女。雷雅の背に隠れていた女。ほんの一瞬まみえただけだというのに、目に焼きついた女。雷雅によく似た気配の女。たかだか十年と少し程度しか生きていないだろう小娘。

 けれど女だ。雷雅が傍に留め置く女だ。


「あの、女……ッ!」


 ぎり、と歯を食い縛り、拳を握る。積み重ねてきた全てを台無しにした女。焦がれに焦がれた寵愛を奪った女。

 許せるものか、認められるものか。たとえ子どもを抜けたばかりであろうとも、あの鬼から寵愛をたまわれる女は自分だけだ。

 風晶はまだ我慢できた、男だからだ。だがあの小娘、志乃と呼ばれていたあれは我慢ならない。幾年経とうと望み続けたその座には、いかなる女も座らせない。だというのにあれは、何の苦労もなく、雷雅の囲いに収められていた。


 ――憎い。


 憎い。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いすべて憎い顔も体も存在も気配もすべてが憎い憎い憎い憎い憎い殺したい殺したい殺したい殺したい今すぐにでも引き裂いて殺したい食い殺したい!

 そうすればあれも己の一部となる。そうすれば雷雅の愛も戻ってくる。


 だが。


「……足り、る?」


 それで雷雅はこちらを見るだろうか? まだ、まだ、足りないのではないか?

 足りない。

 足りない。足りない足りない足りない足りない。

 もっと美しくならなければ、もっと強くならなければ。あの女を食い殺す前に、雷雅の目を否応なく奪えるようにならなければ。


「……ああ!」


 一つ思い至って、白雨はパッと笑みを咲かせる。いるじゃないか。祖がかつていた国でも、この国でも、貴き者たちに愛される花の色。牡丹の色をした目の持ち主が。

 あれを先に食ってしまおう。手に入れてしまおう。そうすればまた、美しくなれる。


 今までの狂乱はどこへやら。少女を思わせる純真な笑みを咲かせて、自らに充てがわれていた式神禿を起こして。白雨は可憐に弾む声で命じた。


「芳親を連れておいで。今すぐに」


 ***


 湯楼の見回りを終えて、芳親と紀定は一度、住居楼へと戻っていた。

 約ひと月の間、世話になっていた洒落柿色の作務衣をたたみ、着替えるのはご無沙汰となったいつもの衣服。芳親は狩衣に犬の面、紀定は裁付袴たっつけばかま。手入れを欠かさなかった刀と苦無も従えて、同じく世話になった部屋を後にした。

 物々しさを増した二人が向かうのは、渡り廊下ではなく屋外、楼閣の外周に当たる庭。まずは湯楼の死角へと向かい、五井鷺と合流する。


「雷雅様ご一行が花楼へ来訪したと、同行している青鷺の旦那から知らせが入っておりやす」


 灯籠もなく、月明かりだけが頼りの物陰にて、姿勢を低くした五井鷺がささやく。先に花楼で待っている小鷺も含めて、四人は暗色の外套を羽織っているため、上手く陰に溶け込めていた。


「それから、志乃さんもおられると。利毒が動くまでは、あちらも最上階から動かないとのことでしたので、合流も難なく行えるかと思います。……では、参りやしょうか」


 言葉少なに報告を済ませて、五井鷺は二人の先導を開始した。なるべく建物にぴたりと寄り添い、素早く花楼へと走る。今夜の客は雷雅がいることもあってか少なめで、忘花楼には珍しく穏やかな空気が漂っていた。

 三人がひとまず目指すのは、花楼に複数設けられている裏方用の入口。芳親と紀定も何度か使ったことがあるそこでは、先に小鷺が待っている。しかし渡り廊下の脇に差し掛かった辺りで、不意に芳親が声を出した。


「紀定、五井鷺、待って」


 目的地が目と鼻の先でも、呼ばれた二人はぴたり静止する。双方ともに芳親を振り返ったが、「どうしました」と訊き返したのは紀定だけ。五井鷺は弾かれたように、花楼へと顔を向け直している。


「何か、起きてる。……たぶん、白雨が、原因で」


 目深に被った頭巾越しに、芳親は花楼を見据えている。その背はぞわりと這い上ってくるような感覚を伝えていた。強大な何かを前にした時に現れ、戦う際には高揚と化す感覚が。


「どうやら芳さんの言う通りでさァ。白雨の妖気が膨れ上がってやがる。こりゃあだ」


 すぐさま五井鷺が補足し、紀定も徐々に感じ取り始める。じわりじわり、重圧をかけてくるような空気を。

 ただならぬ空気に思わず足止めをくらい、花楼を見上げた一行の元へ、小柄な影が向かってきた。三人と同じ暗色の外套をはためかせて、小鷺が走って来たのだ。


「どうした、何があった」

「ら、雷雅様が、白雨を拒否した、らしくて……それで、白雨が、怒ってるンです」


 転げるように駆け付けた、小さな体を支えて問う五井鷺に、小鷺は肩で息をしながら言葉を吐き出す。


「加えて……芳さんを、連れて来いと、触れを出して……きっとあいつ、芳さんを食うつもりです。そうにちげぇねぇ。だって……だって、あの時と、同じ……!」

「落ち着け。まだ誰も食われちゃいねぇよ」


 目に見えて錯乱している小鷺を抱きしめつつ、五井鷺は芳親と紀定を振り返った。


「どうしやしょう、お二方。おそらく白雨の邪魔は避けられねぇでしょうが……」

「先に白雨を片付ける」


 竹を割るように即答する芳親に、鷺たちの目が揃って丸くなる。しかし紀定は分かっていたかのような苦笑を浮かべている。


「そうでしょうね。元々、白雨も封印すべきと見做されていましたし、害があるなら討伐も視野に入れています」

「……ですが、利毒が動き始めたらどうしやす。白雨は簡単に片付けられる相手じゃねぇ」

「それでも、障壁なら、倒す。……どうせ、敵、なんだし……結局、そうなる、から」


 頭巾と前髪で遮られた牡丹色の目は、暗くて冷たい。けれどわずかに入った光は、小さいながらもぎらりと輝いている。

 言葉の通り、芳親には白雨が何であるかなど関係がないし、最初から敵対者だと分かっている。話ができるなら応じても、自分の前に立ちはだかるのなら、倒す以外にないのだ。


「……ああ、そうだ。あれも結局は敵、討ち倒さなきゃなんねぇ。すいやせん、腰が引けちまってやした」

「いえ、無理もありません。正直なところ、私も恐ろしいですから」

「はは、冗談じゃねぇらしいですね。けど、同じ怖がりさんがいるってんなら、ちったぁ気も和らぐように思えやす」


 紀定も五井鷺も弱々しく笑い合いながら、次にはもう奮い立って、眼差しも表情も鋭利に研ぎ澄ませる。覚悟を決め慣れている動作、腹を決めている者の動作だった。


「それじゃ、行きやしょう。……小鷺、お前は青鷺の旦那と先に合流するか?」

「……いや。五井鷺を置いていけない。おれも行く」


 怯えを押し込めた顔で、しかし反論を許さない強さで小鷺も答えを出す。四人の意思は同じ方を向き、体もまた行き先へと向き直った。

 折しもそこに、花楼からやって来る影が一つ。迷いなく近づいてくる姿に、四人が顔を見合わせつつも待ち構えていると、来訪者は少し距離を開けて止まり立ち尽くした。

 小柄な来訪者の正体は、楼閣と渡り廊下を照らす怪火の元に柔く浮き上がる。現れたのは無表情の禿、四人も何度か目にしたことのある、式神禿の姿だった。


「境田芳親」


 心情など何もない空虚な声が、硝子玉の黒い目が、はりつけにするかのごとく芳親へ向けられる。そして、先に四人が決めた目的もまた磔にする、決定打を言い放つ。


「白雨様がお呼びです。早急に四階大広間へ向かってください」

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