岸より思う

 話の途中、水門で区切られた手前まで進んでいた舟は、折り返して戻っていく。話し終えた頃には、夜の街の喧騒と灯明に囲まれていた。


「ずいぶん遠ざかって、朧になってしまったものだ。僧形を取ってまで、忘れまいとした記憶は色あせて、忌々しい記憶だけがこびりついている」


 舟が止まりそうになった時だけ、思い出したようにかいを動かして、風晶は淡々と零す。志乃に散歩を持ちかけた時も、自らの過去を話していた時も、彼は複雑な色を浮かべこそすれど、激情を燃え上がらせはしなかった。


「この姿は、私が判断を誤ったせいで死した命があることを、忘れないためのものだった。皆の後を追おうと思っても、私の命は奴に握られているから、死のうと思っても死ねなかったのだが……易々と死ねないことこそ、私に下された罰なのではと思ってな。人でなくなった以上、捧げるあがないが正しいのかも、人が逝く彼岸に届いているのかも分からないが」


 どこにもない岸へと向けられた視線に、志乃は掛けられる言葉を持ち合わせていない。志乃でなくとも、そんな言葉は誰も持っていない。


「朧になったのは記憶だけではないな。情も既に枯れてしまった。先月までは雷雅に怒り、雷雅を嫌悪できていたが、今はそれすらもうなくなりかけている」


 何度目かの橋に差し掛かり、また風晶の顔が隠れ、影が怪火の寒色に染まった。


「私はもう川を渡ってしまって、幽世かくりよの岸に着いてしまった身だ。故に、お前がこちらに来てしまったら、現世うつしよへ戻してやれなくなる。私の二の舞になってしまう。だから、忠告するくらいしかできないのだ。お前を育てた人間たちと雷雅を、決して同じと思わないでほしいと」


 先に影から出た風晶は、まっすぐ志乃を見つめていた。重みと迫力がありながら、押し潰すような強さは無い、森の深奥を思わせる目で。


「夜蝶街の人間たちはお前を旅立たせ、そのことを当然と思っているだろう。子が親元を離れ、成長し、自分で歩いていくと知っている。だが、雷雅は違う。奴はお前を娘と呼びながら、閉じ込めて飼い殺そうとしている」


 ひそめた眉と声に不快を滲ませながらも、静かに風晶は続ける。


「奴がお前に与えるものは、支配と停滞だ。一度囚われれば成長を失い、人として生きる機会も永遠に失われてしまう。こちら側へ来てはならないのだ、お前は」

「……ですが、俺は。近くまで行ってしまうかもしれません」


 ぽつり、志乃はかげった微笑を浮かべて言った。このひとになら、察せられても探られたくはないものを打ち明けられる気がした。


「夜蝶街で育ててくれた人たちにならって、学んで。麗部うらべの旦那のお供をして、戦いを伴う任務をこなして。それで分かったことと言えば、俺は妖怪に近いということでした。情を解さず、人を傷つける。それが楽しくて……楽しいからこそ、満たされる」


 言ってしまった言葉は、事実を刻み込んで染み入らせる。認めてしまったからこそ、あらわになる。傷つけること、血が流れること、戦い殺し合うことは、自分の空虚を満たしてくれるのだと。

 内側に隠れ潜むモノがわらっている。人間側へ向かうには、人界に混ざるには、あまりにも不適合なさがを。変われるだろうかと、夢物語の可否を真面目に思案していることを。


「俺は、変わることなどできるのでしょうか。そもそも、変わることを許されるのでしょうか。半分も人間であることが疑わしいくらいなのに」


 志乃はいつも通り笑っていた。きっと、いま笑うことは間違っているのだと分かっていても、これが一番顔に馴染んでいる。否、それしか浮かべるものがないのだ。空虚が広がる心側うらがわを覆うおもて、真似て作っただけの仮面は、本当の表情にはなり得ない。

 空っぽ、仮初かりそめ。何もないが故に、何も分からない自分。疑問すら底なしの空洞へ消えていくような心側へ、しかし。


「お前は変われる」


 至極簡潔な風晶の返答が、響いた。うつむいてしまっていた顔を上げ、向き合った鬼の目を見ても、相変わらず揺らぎはない。


「確かに雷雅は情を解さない。だが、自分が傷つけたものを思って苦悩することもない。自分の力や性質を恐れることもしない。その時点で、お前は人の側へ寄っている」


 先ほどよりも力の籠った声が、もう一つの事実を照らし出す。


「お前もまた、雷雅の血で変じてしまったが故に、歪みから逃れられなくなったのだろう。その歪みが障害にもなる。だが、お前は歪みを自覚していても、知ることから逃げなかった。知った今も、恐れはすれども、逃げようとは思っていないのだろう。自分の性質だけでなく、自分の罪からも」


 舟が止まってしまっていたが、漕ぎ手は櫂を動かさない。自分が行き着くと定まってしまった場所へ、青と白の混じる若人を、連れて行くわけにはいかない。


「こちら側に来るということは、お前が問題視していること、罪と考えるものからの逃避に他ならない。お前はそれを望んでいるのか」

「いいえ」


 考えるよりも早く、志乃は即答する。考える必要などなかった。誰かに言われたことを思い出す必要も。分からないと惑うことはあっても、逃げたいと思ったことは、一度もなかったのだから。


「逃げることは、違います」


 いつの間にか笑みは抜け落ち、内から嘲笑う声も消えた。何も無いからと振り返りもしなかった空洞から、あるかも分からなかった底から、確かに浮かんでくるものがある。


「俺は逃げてはいけない。それ以前に、逃げたくない。俺は――」


 知りたい。理解したい。責務も、信頼も放棄したくないし、するわけにもいかない。自分がどれほど愚かでも、大きな欠落があっても、罪も性も背負い続けるとしても。


「俺は、人の側にいたい」


 空虚だと思っていた心側うらがわで、初めて現れたもの。わずか、ほのか、ほんの少し。けれど確かに有るそれを、志乃は初めて掴んだ。自ずと掴んだ胸元越しに。

 深く暗い鉄色くろがねいろの目が、一度ゆっくり瞬いた。志乃の言葉を記憶するかのように。


「ならば、その望みを手離すなよ。誰かに手渡すこともするな。それはお前が叶えるものであり、お前が居たい場所に居続けるための杭になるのだから」


 静かに付け加えてから、風晶はやっと櫂を動かした。ばしゃん、と水を打つ音が、何かを破り捨てる音にも聞こえた。


 ――志乃は逃げないと言った。その言葉を違えることは、おそらく無い。これからなされる断罪や清算からも逃げず、結果を受け入れるだろう。

 岸から背を見送るだけの風晶に、雷雅と同じ岸にいる鬼に、できることはない。こちら側へ来ないよう、ただ祈るだけ。

 喧騒と華燭が両脇を固める中、舟は暗い川を行く。明けない夜を謳歌し浮かれる、暖色だらけの世界の中で、怪火の色と川面だけが冷たかった。

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