幕間 断片追想

おもうは一人

 ——ああ、何だっけ。


 考えていたことが、どこかに行ってしまった。最近いろんなことを忘れているけれど、そうなるだろうとは聞かされていたし仕方がない。むしろ喜ぶべきだ。願い叶う時が近づいているのだから。

 それに、すぐ忘れたということは、たいして憶えていなくても良い記憶だったんだろう。忘れちゃいけないことは取りこぼさないよう、予防して貰っているのだし。


 とはいえ、自分で忘れないようにしておく努力は必要だ。決して忘れるはずのない記憶以外の、思い出せる記憶をおさらいしよう。


 ■


 男なのか女なのか分からない、道化じみた不気味な鬼に出会った日のことは、まだ鮮明に思い出せる記憶の一つだ。


 私は小さな遊里の見世で、誰も呼ばずに頬杖をついていた。前は大きめの町にいたけれど、訳あってここにいる。正直なところ、あそこを出た後は死んでもいいやと思っていたし、都合がいいかもしれないと思っていた。でも、何もしないで死ねないとも思って、極めて不真面目に生き延びている。

 私は客を呼ばなかったけど、物好きな人とたまに夜を過ごした。生きる以外には一つの望みしか持っていなかった私には、細々とした収入で充分だった。その望みを叶えるにしても、具体的にどうすればいいのか分からなかったし。

 いつ野垂れ死ぬのか分からないまま、外面だけ綺麗に整えて動いているだけの小娘だった私。百花繚乱に混じる日陰草に過ぎなかった私を見つけて、嬉しそうに笑う鬼がいた。


「何という逸材でしょう、アナタは。どうかワタクシに協力していただけませんか」


 妖怪の甘言に耳を傾けるなんて愚の骨頂だけど、あの時の私は無気力だったから、どうして私を絶賛するのか訊き返した。


「アナタは怨恨を抱いておられる。それを果たしたいと願っておられる。しかし気力を持ち合わせてはおらず、後々生きる気力もお持ちではない」


 よくご存知なのねと笑ったら、「アナタのお客様から教えていただきました」と返された。聞いていないか本気にしていないかと思っていたから、適当に話していたけれど、案外憶えられているものらしい。


「ワタクシは蠱毒を用いて、強大な力を発生させる試みしたいと考えているのですが、そのためには、あらかじめ強い思念を抱いているモノが必要なのです」

「ああ……それなら、花柳界は打ってつけだね。恨み辛みの坩堝るつぼだもの」

「ンフフフ理解が早くていらっしゃる。そこでアナタにご助力を願おうと思ったのです」


 ただの敷物と化した布団の上、仄暗くて狭い部屋に降り積もっていく、妖しい魔性のささやき声。ひそめられているのに、無遠慮に入ってくる嬌声を容易く遮断してしまう美声は、獲物を絡めとる蜘蛛糸のようで。枯葉に過ぎなかった私は、ためらいなく糸に触れた。


「貴方は私の願いを、私の呪いを、成就させてくれる?」

「もちろん。そもそも、アナタの呪いが芯となるのですから、叶わないはずがない。何を呪うかによって、結果の形態は異なるでしょうが、呪いは必ず成功させますよォ」

「そう。なら良いわ。だけど失敗したら、貴方を呪って殺す。それで構わないでしょう」

「ァハハハ! ええ、エエ! もちろんですとも! ァアアしかしその呪詛は大輪となって咲き誇るべきもの……ンフフフ、ワタクシごときに向いていいものではありませんねェ。そうならないよう気を引き締めねば」


 楽しそうに、嬉しそうに、恍惚と笑う鬼は胡散臭いことこの上なかったけれど。嘘は言っていないという確信が不思議とあったから、私は選択を悔いなかった。悔いるほどの人生を送ってはいなかったし、願いが叶うならそれでいいと思っていたから、というのもあったけれど。


 協力関係を築いた鬼は、翌日から付近の幽世に棲みついて、負の感情の収集を始めた。まず求められた協力はこの収集で、私自身に負の感情を溜めること。私自身が恨まれたり妬まれたり、私自身が抱いている怨恨をより強くしていくことだった。

 前者は簡単。要は他の遊女から客を奪えばいい。鬼から術や薬の援助を受けて、憂いもなく色んな男と寝れば良かった。食い尽くしてしまったら、鬼に連れられて別の場所へと移動した。

 いつしか私は妖怪か何かだと言われるようになっていたけど、実際間違っていなかったと思う。呪詛と怨恨によって、私の身体は徐々にむしばまれ、健常から外れていったのだから。

 後者も簡単だったけれど、少し難しかった。私自身の怨恨を育てるというのは、進んで嫌な目に遭うということ。それ自体はともかく、そうやって育てた恨み辛みを抑えるのに苦労した。


「まだ若い身空で可哀想に」「こんな生き方をしなくてもいいはずだ」「もっと自分を大事にしなさい」


 そういう同情や憐憫れんびんは構わない。虫の居所が悪いと困ったけれど、通常ならば滑稽な芝居を見せてもらっているのだと楽しんだ。上辺だけの言葉を吐く連中も、同じく遊びとして楽しんでいただろう。本気で心を傾けてくる人に対しては、騙すようで申し訳ないと思えても、いつの間にかどうでもよくなった。


「嫌いなものを呪うより、好きなものを想うべきだ」「復讐なんて何の意味もない」「全部忘れて、幸せに生きなさい」


 問題は、こういうことを吐かす連中。悲願を否定された時、烈火の如く生じる憤りを収め、平静を装うのがとにかく大変だった。復讐が無意味と言われた時は、特に。相手にも事情があったのではなどと吐かした時は、なおさら。

 復讐、仇討ち。純粋が欠片でも残っていたら、間違っていると断言できただろう。でも、それは潰えて久しい。だから復讐は、呪いは、願いは、私を生かす炎になった。絶対的な、私の正しさになった。


「ええ。アナタの怒りは正しい。アナタの願いも、呪いも正しい」


 揺れるたび、私は鬼の声を頼りに戻ってきた。正しい、正しい、正しい。周囲からすれば間違っていても、私にはそれだけが正義。


「そもそも、この世に誠の“正”などありません。己が正しいと感じたものを突き通せば、それが正となる。もっとも、自分だけにですが。でも、アナタにはそれしか残っていないのでしょう? だからそれしか選べなかったのでしょう?」


 そう、これしか残っていないのだ。他の生き方も幸せな生き方も無い。そんなものは望まないし、望んだところで二度と手に入りはしない。

 だから、奪った奴を呪うこと、復讐することこそ、私が選んだ人生だ。間違っていても、一つだけだったとしても、私が選んだものだ。


「ならば、ワタクシはそれを、せめて華やかなものにしてさしあげたい。エエもちろんワタクシ自身の欲だとか目的はありますけれどもね? 冬を耐え忍んだものが春に解き放たれるように、苛烈な夏を越したものに静穏な秋が訪れるように、アナタも報われるべきだと思うのですよ」


 鬼は私を肯定した。否定しなかった。私がろくな死に方をしないとしても、愚かな命の使い方をしているとしても、決して否定しなかった。「それがアナタの選択なのでしょう」と、私が再び掴んだ覚悟を重んじてくれた。


「どうぞお任せを。アナタという花を、必ず咲かせてご覧に入れます」


 ■


 ――ああ、何だっけ。また記憶が飛んでしまった。


 頭がぼうっとしている。紙燭しそくの灯りが浮かぶ、とろりとした闇の中は、夢かうつつかも判別がつかない。

 でも、そうだ。よく分からなくなったら呼べばいい。鬼が来れば、私がいるのは現だ。


「……利、毒」

「はい、ワタクシはここに」


 どこからともなく、意外と早い返事があった。どうなんだろう、即答すぎて疑わしい。いるくせに姿は見せないし。


「少し前からここにおりますよォ」


 心を読んだかのような補足。ますます疑わしい。だけど、まあ良いか。私が悲願を叶える時、ちゃんと起こしてくれればそれで。


「ンフフフ用もなくただ呼ばれただけというのも、案外悪くありませんねェ。ワタクシも特に用はなく憩うために来ただけなのですが」


 馴染みのある早くて変な口調。聞きすぎてむしろ落ち着くまである。うん、姿は見えないけど、利毒はすぐそばにいるんだろう。


「利、毒」

「はァい何でございましょお……アアもしやお話をご所望で? これはこれはワタクシとしたことが気が利かずたァいへん失礼をば。ァアハであれば僭越せんえつながらお話させていただきましょうそうしましょう」


 一向に顔が見えないから、呼んで存在を確かめているだけなんだけど。喋り続けてくれるなら好都合だ。しばらくいなくなりはしないだろう。


 利毒。私の悲願を叶える鬼。そう契約を交わした相手。私の復讐を肯定し、成就させるモノ。

 きゅるきゅる音を立てて回る車輪のような語りを聴きながら、忘れないよう繰り返す。のろい、うれい、さいわい、あがない……私がおもうは、一人。


 やっぱり頭はぼんやりしているけれど。鬼の声が聞こえて、復讐を忘れずにいるのなら正常だ。

 私のおもいはもうすぐ届く。あと少し、あと少し――。

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