いつかの悲劇
※この部分には男性同士の性的接触を
***
地を震わせた落雷の直後。既に火の手が上がっていた
けれど。彼らの頭にあった、鎮火や人命救助といった使命は、到着とともに蒸発した。
漆器のごとき天蓋へ伸びていく火炎、押し寄せる熱波と
戦慄で肌が粟立つ間もない、凄惨極まる地獄の中に、すらりとした人影が――否。二本の角を生やした鬼の影が一つ。背後に炎の逆光を浴びながら、
「わー、早かったねぇ」
のんびりと聞こえた声が、知っているものだと気付くより早く。晶之は突如現れた黒縄に拘束され、膝を付けされられた。
がくんと落ちた視界を、四方八方から吹き上がった血飛沫が染め上げる。鉄の臭いとほのかな生温かさ、臓物をこぼしながら、悲鳴も無く仲間たちが倒れていく。一人残され、呪術で編まれた縄に
何故、と。晶之の頭に浮かぶのは、埋め尽くすのは疑問ばかり。何故、友がここにいるのか。何故、仲間たちが一瞬で
「待ってたよ、晶之」
遠い土地へ追放されたことなど嘘のように、平穏な日々と地続きのように。
「うん、君には傷一つ付いてないみたいだねー、良かったー。すっごく嬉しくなっちゃったからー、もし勢いで君まで殺しちゃったらどうしよーって思ってたんだよー」
空いている片手を胸にやり、心底ほっとしたと言わんばかりの言動を見せる在雅。酸鼻を極める渦中にいながら、いつも通りを貫いている姿は、血の池に咲く蓮のよう。彼もまた返り血を浴びていたのに、己が美の一部にしてしまっている。
「それにしても、俺が晶之を見下ろすのは新鮮だねぇ。君ってば、すっごく背が高いんだもん。あー、でも体格とか変えられるみたいだからー、君に合わせた背丈にすればいいかぁ」
整った微笑しか浮かばなかった顔には、歓喜と恍惚を内包した
「な、ぜ……」
ようやく、晶之の喉が震えた。轟音に潰されそうな
「これはねぇ。力試し兼、ここまで協力してくれた相手へのお礼だよー。望みがあるか訊いたら、人間の恐慌とか
在雅の視線が、持ち上げた刀へ向けられた。彼がにこにこと見つめる中、刀から黒い
「そーお? じゃあ、これでお別れだねぇ。さようなら」
晶之には何も聞こえなかったが、人ではない何かと話していたらしい。在雅が別れを告げると、黒い靄は天へと飛び立って消えた。刀は
「これが……こんなことが、お前の望みなのか」
未だ疑問の海に揉まれながら、晶之は言葉を絞り出す。
「死穢を欲していたのは、お前ではないだろう。お前は何故、こんなことをした。
戸惑いを殺して、敵意の睨視を向ける。が、在雅はきょとんと目を丸くして、次の瞬間には大笑で腹を抱えていた。
「ははは、はは、ふふ……そんなこと思いつきもしなかったよー。そっかー、君たちが考える動機は、逆恨みなんだねー。でも、それはおかしくなーい? 俺は罪人だったんだから、罰を受けるのは当然だよー」
見落としを指摘するかのように、「もっと簡単なことだよー」と鬼は目を細める。嘲りは感じさせないものの、幼子を相手にするかのような素振りは、晶之を苛立たせた。
「面白いこと、興味を惹かれることは、現世にもまだたくさんあるけどー。中には禁忌扱いされてて、人間のままじゃ手が出せなかったりー、人間の寿命じゃ成果を見届けられなかったりするんだよねぇ。人間じゃなくなったとして、不便になることもないからー、それじゃあもう外れちゃおうって。
知識欲ゆえに、人の道を外れる。学問の追究者ならば誰もが危惧されるそれを、在雅は特に懸念されていた。もちろん、晶之も案じていた一人だった。ここではないどこかを見ていて、いつか消えてしまうのではないかと。
「それは別に、俺一人でやればいいことなんだけどねー? そこに君もいてくれたなら、君も俺と同じ鬼になったなら、きっと楽しいって思ったんだー。だから君を迎えに来たんだよー」
「……は?」
だが、まさか自分を道連れにしようとしているなどとは、思いもしていなかった。
呆気にとられる晶之をそのままに、もう道を踏み外した男は続ける。楽しそうに、嬉しそうに。
「君たちはさー、楽しいとか嬉しいとかー、そういう感情を俺に抱いてほしい、って願ってたでしょー? その望みも叶えられるんだよー。俺自身が抱いた望み、知りたいものを知って、気に入ったものと一緒にいるっていう望みを叶えることで」
確かに晶之たちはそう願い、在雅は純粋で平凡な望みを抱いた。喜び祝うことなど到底できない形で。
「ねえ、自分の望みを持つって、とっても良いことなんだねー! あれもこれもやりたくって仕方ない! 何もかも輝いてる!」
だというのに、友は。須榧在雅という人間は、そう言い放った瞬間が最も輝いていた。
「在雅」
だから分かった。目の前にいるこれは、最初から人界の
「私はもう、お前と共に過ごす気などない。私たちはもう、友ではない」
だからこそ、ようやく手を離したのだが――気付くのも、見放すのも、あまりに遅すぎた。
「そっかー。でも、俺にとっては違うよー?」
変わらない暢気な声のまま、在雅は拘束の術を強める。思わず
「まだ知らないものと、知ってどうでもよくなったものしかない世界で、君はずーっと、俺の友人だった。だからこれからも君は、俺の不変の
黄金の双眸と、牙が覗く赤い口、不気味に浮かぶ三つの弧月。首まで絞められていく苦痛に耐えながら、睨み続ける晶之だったが。唐突に拘束が緩められた途端、体が空気を取り込むべく動き出す。
血が体内を巡っていく
「……さて、俺の血、ちゃーんと効いてくれるかなぁ?」
不気味な三日月がまた見えた直後、異様な鼓動が一つ。脈打つたび、体内に高熱と激痛が生じて、晶之は絶叫を上げた。既に拘束は解かれていたため、体がのたうち回っている。
「わー、痛そうだね。大丈夫かなー。ま、心配しなくていいよー。どうなっても、俺が
自分の叫びと激痛で埋め尽くされる中、何ら変わりない在雅の声は、するりと耳に入って染み渡った。癒やしのように聞こえるのが、
このまま、耐えかねて壊れてしまえたら。そうなったらどれほど楽になるだろう。死してこいつの前からいなくなれれば、どれほど。
思いはすれども、死ねなかった。家族が、妻子がいたから。壊れることもできなかった。順応してしまったから。
このどちらをも、後悔することになる。そんな予感がしたけれど、晶之はそれ以上、何も考えられなくなった。
次に目覚めたのは、幽世に造られた屋敷の一室。あの日のことを、晶之は記憶から消しているが、在雅が
「あー、そういえば。いろいろ傷があったんだったー」
整った体の至る所に刻まれた、人為的な傷。誰とでも寝所を共にしたという、紛れもない証拠。
「これねー。付けた人は見ると喜んだんだけどー、それ以外の人は悲しそうだったんだよー。面白いよねぇ、同じ人間なのに、反応が全然違ってるの。そういうのを見るのは面白かったなー。もう要らないから消しちゃうけど」
それが、雪が解けるように消えていくのを見て。自分の目の前にいるのは化け物なのだと、改めて悟った。悟らなければ、最悪な屈辱など耐えられなかった。
「ただの処置だから、楽だったなー。お願いがあった時は、叶えてあげないといけないからさー、ちょっと大変だったんだよねー。でも、抱かれたい人も、抱きたい人も、一緒に寝たらみーんな幸せだって言ってくれたし、問題なかったと思うよー」
もたらされる効果が幸福でも、侮辱でも、ただの作業に過ぎない。女のように髪を伸ばし、空虚を取り戻した鬼の笑顔を、晶之は睨んだ。化け物への嫌悪と、いつまで経っても見捨てられなかった自分への嫌悪で、笑うことを忘れた。
隙あらば在雅を殺そうとしたため、晶之は上等な部屋を与えられつつも、
暇を潰せるようにと、在雅が現世の情勢を仕入れては話しに来たため、
在雅が事件を起こしたこともまた知られており、外敵の鬼として認定。雷雅という名を付けられ、討伐のための部隊が組織されているという。
晶之は家族の安否を気にしていたが、絶対に言わなかった。口外しただけで、家族に実害が及ぶ可能性がある。雷雅が何を思い、何をするか分からなかったが故に、自分以外のことを不用意に持ち出せなかった。きっと、永遠に封じるのだろうと思っていた。
「ねえ、晶之。現世に帰りたいって思う?」
「いつだって思っているとも。お前の首を手土産に持ち帰れるのなら文句なしだが、不可能だからな。討伐隊に入って殺しに来てやるよ」
けれど。こんな簡単な会話で、ささやかな努力は水泡に帰した。
「ね、晶之。考えたんだけどさー。君が現世に戻りたい一因は、大事なものを置いて来ちゃったからだよねー?」
いつも通りにやって来たかと思えば、返り血を浴びた姿で。
「これが君の宝物でしょ。もうここにあるんだから、戻らなくたって大丈夫だよー」
晶之の身内十数人の首を、桶にも入れずに持ってきた。
「見つからなかった子もいたけどー、ほとんど全員持ってきたよー。お土産、嬉しい?」
ふざけるな、と怒号を上げた気がする。枷の鎖など引きちぎって、あの外道の首を絞め上げた気もする。どれも
「あははぁ。こっち側に馴染んできたねぇ」
邪鬼の笑う声は、こんなにも鮮明に憶えているのに。
暴れ狂い、取り押さえられても、
数日経っても鎮まることなく、やがて枷も壊れかけた頃。
「――ぁ?」
久方ぶりに頭が凪いだ時、初めに見たのは血だまりがあった痕跡と、服だったのだろう無惨な布切れ。口内と鼻腔にも、血の痕跡が残っていて、思い出した。ここにあったものを全て平らげたこと。床に散らかったものも残さず拾い食べ、舐めたこと。
そうしてから、気付いたのだ。よく見覚えのあるものが落ちていることに。
「あー、全部食べたんだねぇ、晶之。美味しかった?」
いつもと何一つ変わらない、暢気な雷雅の声。時が経つにつれて、どんなに忘れたくなくても色あせていく記憶の中、絶対に鮮色を失わない声。
「きっと嬉しかったんじゃないかなぁ。この前は連れて来られなかったけどー、ずーっと晶之に会いたがってたしー、これからはずーっと、晶之と一緒に居られるんだもん」
あははは、と。笑う魔物の声を聞きながら、晶之は手を伸ばす。布切れの中に残されたもの、自らが息子に贈った
何かが壊れる音がした。
その後、自分が何をしたのか。風晶という名を付けられた鬼の記憶は、完全に消え失せている。ただ、あれほど荒れ狂った原因が、知らないうちに薬を投与したからと説明されたことは憶えている。
……それに対して思えることは、何一つ残らなくなったけれど。
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