いつかの悲劇

 ※この部分には男性同士の性的接触をほのめかす描写や、人を選ぶ残酷描写があります。ご注意ください。


 ***


 地を震わせた落雷の直後。既に火の手が上がっていた青仁殿せいじんでん、その対角に位置していた白義殿はくぎでんから、由見よしみ晶之あきゆきは走っていた。入り乱れる人々が作り出した荒波を、同じく馳せ参じた近衛兵たちと共に乗り越えて。


 けれど。彼らの頭にあった、鎮火や人命救助といった使命は、到着とともに蒸発した。


 漆器のごとき天蓋へ伸びていく火炎、押し寄せる熱波と灼光しゃっこう、木と人肉が焼ける臭いに音、血塗れの地面に転がった、原形を留めていない人間の残骸。

 戦慄で肌が粟立つ間もない、凄惨極まる地獄の中に、すらりとした人影が――否。二本の角を生やした鬼の影が一つ。背後に炎の逆光を浴びながら、黄金こがねの双眸をこちらに向けている。


「わー、早かったねぇ」


 のんびりと聞こえた声が、知っているものだと気付くより早く。晶之は突如現れた黒縄に拘束され、膝を付けされられた。

 がくんと落ちた視界を、四方八方から吹き上がった血飛沫が染め上げる。鉄の臭いとほのかな生温かさ、臓物をこぼしながら、悲鳴も無く仲間たちが倒れていく。一人残され、呪術で編まれた縄にいましめられた男の前に、けがれで彩られた舞台が完成した。火の粉と血飛沫を花吹雪、血を吸った刀を扇と思わせる舞い手も。

 何故、と。晶之の頭に浮かぶのは、埋め尽くすのは疑問ばかり。何故、友がここにいるのか。何故、仲間たちが一瞬でしかばねと化したのか。何故、何故、何故、何故――。


「待ってたよ、晶之」


 遠い土地へ追放されたことなど嘘のように、平穏な日々と地続きのように。須榧すがや在雅ありまさが笑顔で立っていた。額に二本の角を生やし、眼窩がんかには黄金の瞳を嵌めて。


「うん、君には傷一つ付いてないみたいだねー、良かったー。すっごく嬉しくなっちゃったからー、もし勢いで君まで殺しちゃったらどうしよーって思ってたんだよー」


 空いている片手を胸にやり、心底ほっとしたと言わんばかりの言動を見せる在雅。酸鼻を極める渦中にいながら、いつも通りを貫いている姿は、血の池に咲く蓮のよう。彼もまた返り血を浴びていたのに、己が美の一部にしてしまっている。


「それにしても、俺が晶之を見下ろすのは新鮮だねぇ。君ってば、すっごく背が高いんだもん。あー、でも体格とか変えられるみたいだからー、君に合わせた背丈にすればいいかぁ」


 整った微笑しか浮かばなかった顔には、歓喜と恍惚を内包した艶笑えんしょうが咲いている。装飾でしかなかった在雅の笑みに、感情が通うようになればと願っていた晶之にとって、喜べるはずだった変化だった。こんなところで、こんな状況で、開花しなければの話だったが。


「な、ぜ……」


 ようやく、晶之の喉が震えた。轟音に潰されそうなかすれ声しか出なかったが、在雅には聞こえたようで、「あー、理由ねー」と笑っている。


「これはねぇ。力試し兼、ここまで協力してくれた相手へのお礼だよー。望みがあるか訊いたら、人間の恐慌とか死穢しえかてになるからー、くれって言われたんだよー。ねえ?」


 在雅の視線が、持ち上げた刀へ向けられた。彼がにこにこと見つめる中、刀から黒いもやが上がったかと思うと、付着していた血を吸い上げて蛇のような形をとる。


「そーお? じゃあ、これでお別れだねぇ。さようなら」


 晶之には何も聞こえなかったが、人ではない何かと話していたらしい。在雅が別れを告げると、黒い靄は天へと飛び立って消えた。刀は白刃はくじんを取り戻し、業火の光を浴びて、打たれた時の姿を思い出している。


「これが……こんなことが、お前の望みなのか」


 未だ疑問の海に揉まれながら、晶之は言葉を絞り出す。


「死穢を欲していたのは、お前ではないだろう。お前は何故、こんなことをした。僻地へきちへ追いやられたことを恨んでいるからか」


 戸惑いを殺して、敵意の睨視を向ける。が、在雅はきょとんと目を丸くして、次の瞬間には大笑で腹を抱えていた。


「ははは、はは、ふふ……そんなこと思いつきもしなかったよー。そっかー、君たちが考える動機は、逆恨みなんだねー。でも、それはおかしくなーい? 俺は罪人だったんだから、罰を受けるのは当然だよー」


 見落としを指摘するかのように、「もっと簡単なことだよー」と鬼は目を細める。嘲りは感じさせないものの、幼子を相手にするかのような素振りは、晶之を苛立たせた。


「面白いこと、興味を惹かれることは、現世にもまだたくさんあるけどー。中には禁忌扱いされてて、人間のままじゃ手が出せなかったりー、人間の寿命じゃ成果を見届けられなかったりするんだよねぇ。人間じゃなくなったとして、不便になることもないからー、それじゃあもう外れちゃおうって。幽世かくりよや物の怪、妖怪のことも知りたかったからねぇ」


 知識欲ゆえに、人の道を外れる。学問の追究者ならば誰もが危惧されるそれを、在雅は特に懸念されていた。もちろん、晶之も案じていた一人だった。ここではないどこかを見ていて、いつか消えてしまうのではないかと。


「それは別に、俺一人でやればいいことなんだけどねー? そこに君もいてくれたなら、君も俺と同じ鬼になったなら、きっと楽しいって思ったんだー。だから君を迎えに来たんだよー」

「……は?」


 だが、まさか自分を道連れにしようとしているなどとは、思いもしていなかった。

 呆気にとられる晶之をそのままに、もう道を踏み外した男は続ける。楽しそうに、嬉しそうに。


「君たちはさー、楽しいとか嬉しいとかー、そういう感情を俺に抱いてほしい、って願ってたでしょー? その望みも叶えられるんだよー。俺自身が抱いた望み、知りたいものを知って、気に入ったものと一緒にいるっていう望みを叶えることで」


 確かに晶之たちはそう願い、在雅は純粋で平凡な望みを抱いた。喜び祝うことなど到底できない形で。


「ねえ、自分の望みを持つって、とっても良いことなんだねー! あれもこれもやりたくって仕方ない! 何もかも輝いてる!」


 だというのに、友は。須榧在雅という人間は、そう言い放った瞬間が最も輝いていた。


「在雅」


 だから分かった。目の前にいるこれは、最初から人界の生命いのちではなかったのだと。


「私はもう、お前と共に過ごす気などない。私たちはもう、友ではない」


 だからこそ、ようやく手を離したのだが――気付くのも、見放すのも、あまりに遅すぎた。


「そっかー。でも、俺にとっては違うよー?」


 変わらない暢気な声のまま、在雅は拘束の術を強める。思わずうめいた晶之のしかめ面を、しゃがみ込んで覗き込む。


「まだ知らないものと、知ってどうでもよくなったものしかない世界で、君はずーっと、俺の友人だった。だからこれからも君は、俺の不変の所有物友人なんだよ」


 黄金の双眸と、牙が覗く赤い口、不気味に浮かぶ三つの弧月。首まで絞められていく苦痛に耐えながら、睨み続ける晶之だったが。唐突に拘束が緩められた途端、体が空気を取り込むべく動き出す。

 血が体内を巡っていくしびれ、上手く映らない視界に支配される中、何かがあごに触れた。その正体が分かる前に口が塞がれ、生温かいものが口内に鉄の味を塗りたくる。


「……さて、俺の血、ちゃーんと効いてくれるかなぁ?」


 不気味な三日月がまた見えた直後、異様な鼓動が一つ。脈打つたび、体内に高熱と激痛が生じて、晶之は絶叫を上げた。既に拘束は解かれていたため、体がのたうち回っている。


「わー、痛そうだね。大丈夫かなー。ま、心配しなくていいよー。どうなっても、俺がなおしてあげるもの」


 自分の叫びと激痛で埋め尽くされる中、何ら変わりない在雅の声は、するりと耳に入って染み渡った。癒やしのように聞こえるのが、はなはだ不快だった。


 このまま、耐えかねて壊れてしまえたら。そうなったらどれほど楽になるだろう。死してこいつの前からいなくなれれば、どれほど。

 思いはすれども、死ねなかった。家族が、妻子がいたから。壊れることもできなかった。順応してしまったから。

 このどちらをも、後悔することになる。そんな予感がしたけれど、晶之はそれ以上、何も考えられなくなった。




 次に目覚めたのは、幽世に造られた屋敷の一室。あの日のことを、晶之は記憶から消しているが、在雅がさらした裸体のことは憶えている。


「あー、そういえば。いろいろ傷があったんだったー」


 整った体の至る所に刻まれた、人為的な傷。誰とでも寝所を共にしたという、紛れもない証拠。


「これねー。付けた人は見ると喜んだんだけどー、それ以外の人は悲しそうだったんだよー。面白いよねぇ、同じ人間なのに、反応が全然違ってるの。そういうのを見るのは面白かったなー。もう要らないから消しちゃうけど」


 それが、雪が解けるように消えていくのを見て。自分の目の前にいるのは化け物なのだと、改めて悟った。悟らなければ、最悪な屈辱など耐えられなかった。


「ただの処置だから、楽だったなー。お願いがあった時は、叶えてあげないといけないからさー、ちょっと大変だったんだよねー。でも、抱かれたい人も、抱きたい人も、一緒に寝たらみーんな幸せだって言ってくれたし、問題なかったと思うよー」


 もたらされる効果が幸福でも、侮辱でも、ただの作業に過ぎない。女のように髪を伸ばし、空虚を取り戻した鬼の笑顔を、晶之は睨んだ。化け物への嫌悪と、いつまで経っても見捨てられなかった自分への嫌悪で、笑うことを忘れた。


 隙あらば在雅を殺そうとしたため、晶之は上等な部屋を与えられつつも、かせを嵌められて長らく監禁されていた。食事も睡眠も不要になったため、在雅を殺すことだけが生きがいになった。彼の血によって鬼にさせられ、眷属けんぞくという関係で縛られた以上、親である在雅を傷つけられなくても。鬼と化してしまった自分に、帰る場所など無いと知っていても。

 暇を潰せるようにと、在雅が現世の情勢を仕入れては話しに来たため、青仁殿せいじんでん炎上後のこともある程度知っていた。被害は青仁殿のみに留まっていたものの、死傷者や、精神的な傷を負った者はあまりにも多かったらしい。

 在雅が事件を起こしたこともまた知られており、外敵の鬼として認定。雷雅という名を付けられ、討伐のための部隊が組織されているという。


 晶之は家族の安否を気にしていたが、絶対に言わなかった。口外しただけで、家族に実害が及ぶ可能性がある。雷雅が何を思い、何をするか分からなかったが故に、自分以外のことを不用意に持ち出せなかった。きっと、永遠に封じるのだろうと思っていた。


「ねえ、晶之。現世に帰りたいって思う?」

「いつだって思っているとも。お前の首を手土産に持ち帰れるのなら文句なしだが、不可能だからな。討伐隊に入って殺しに来てやるよ」


 けれど。こんな簡単な会話で、ささやかな努力は水泡に帰した。


「ね、晶之。考えたんだけどさー。君が現世に戻りたい一因は、大事なものを置いて来ちゃったからだよねー?」


 いつも通りにやって来たかと思えば、返り血を浴びた姿で。


「これが君の宝物でしょ。もうここにあるんだから、戻らなくたって大丈夫だよー」


 晶之の身内十数人の首を、桶にも入れずに持ってきた。


「見つからなかった子もいたけどー、ほとんど全員持ってきたよー。お土産、嬉しい?」


 ふざけるな、と怒号を上げた気がする。枷の鎖など引きちぎって、あの外道の首を絞め上げた気もする。どれもおぼろで、かすみがかった記憶だ。


「あははぁ。こっち側に馴染んできたねぇ」


 邪鬼の笑う声は、こんなにも鮮明に憶えているのに。


 暴れ狂い、取り押さえられても、いきどおりは収まらなかった。別の部屋――ただの牢屋として作られた部屋で、さらに頑丈な枷に繋がれても、怒声を上げて暴れ続けた。目的もなく狂うだけの獣のように。

 数日経っても鎮まることなく、やがて枷も壊れかけた頃。おりに差し入れられたものが、鬼に正気を取り戻させた。


「――ぁ?」


 久方ぶりに頭が凪いだ時、初めに見たのは血だまりがあった痕跡と、服だったのだろう無惨な布切れ。口内と鼻腔にも、血の痕跡が残っていて、思い出した。ここにあったものを全て平らげたこと。床に散らかったものも残さず拾い食べ、舐めたこと。

 そうしてから、気付いたのだ。よく見覚えのあるものが落ちていることに。


「あー、全部食べたんだねぇ、晶之。美味しかった?」


 いつもと何一つ変わらない、暢気な雷雅の声。時が経つにつれて、どんなに忘れたくなくても色あせていく記憶の中、絶対に鮮色を失わない声。


「きっと嬉しかったんじゃないかなぁ。この前は連れて来られなかったけどー、ずーっと晶之に会いたがってたしー、これからはずーっと、晶之と一緒に居られるんだもん」


 あははは、と。笑う魔物の声を聞きながら、晶之は手を伸ばす。布切れの中に残されたもの、自らが息子に贈った篠笛しのぶえを。


 何かが壊れる音がした。


 その後、自分が何をしたのか。風晶という名を付けられた鬼の記憶は、完全に消え失せている。ただ、あれほど荒れ狂った原因が、知らないうちに薬を投与したからと説明されたことは憶えている。

 ……それに対して思えることは、何一つ残らなくなったけれど。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る