枯葉語り

 裏舟吉に入ってから早くも二週間、皐月も下旬に差し掛かろうとしている頃。志乃は変わらず雷雅たちと共にいた……というか囚われてしまっていた。

 龍爪亭りゅうそうていに閉じ込められた、というわけではない。街歩きに連れて行かれたり、再び青柳座が貸し出してくれた屋形船での舟遊びに連れて行かれたり、果ては近郊の山へ狩りに連れて行かれたり。とにかくご機嫌な雷雅の傍に置かれっぱなし。今日は外出こそしていないが、広い座敷で行われる宴会に巻き込まれた。


「はー……」


 一人にしてほしいと座敷から抜け出して、志乃は寝泊まり用の部屋に避難していた。一部屋隔てた先からは、くぐもっていながらも、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎが絶えず聞こえてくる。明かりを点けず、逃げるように窓を開けて顔を出せば、下界の狂騒が遠く聞こえてくる。


「……。いらっしゃいますか、雷吼丸らいこうまるさん」

「ここに」


 ものぐさ気味に問えば、後ろからすぐ答える声。志乃は振り返ることなく、燦然さんぜんたる威容を伝えてくる忘花楼ぼうかろうを眺めていた。

 当然、何もしないでいるなんてことはなく、隙を見ては忘花楼へ行こうと試みていたのだが。ことごとく雷吼丸に阻止され、雷雅からも阻止されて連敗していた。一週間前には現世の舟吉町に兼久隊が入ったこと、しかし鬼たちが張った結界のせいで、幽世には入れずにいることを聞かされたため、さすがの志乃も焦燥に駆られている。


「雷雅様が利毒の研究成果を見ることを目的としていらっしゃる以上、色護衆しきごしゅうに邪魔されるわけにはいかないのです。そのためには貴女がたの行動を制限しなければならないと、どうかご理解くださいませ」

「それはもちろん理解していますよ。ですが話を聞くだけでなく、目で確かめることも大事だと教わっております。旦那たちがご無事かどうか、俺が一目見て確かめるのは簡単なことでしょう。それなのに許可できないということは、何か不都合なことを隠しているが故なのでは?」


 やっと振り返った先には、瞬き以外の微動を見せない、人形めいた青年が立っている。沈黙はすなわち肯定。二週間前に話してもらったこと以外にも、雷雅は何か隠しているのだろう。


「……話していただけないのなら、それも結構ですが」


 言うたび、察するたび、胸の内に濃霧が広がっていく。自分で動くこともままならず、雷雅の目的や言動も不明瞭。不自由を強いられることがほとんど無く、あっても無自覚だった志乃は、不満をどう晴らせばいいのか分からない。

 ――頭を撫でてくれる手の感覚や、こちらを見る目には、夜蝶街やちょうがいの人々と同じものがあるのに。


「起きているか、花居の」


 うつむいていた志乃の頭は、不意に入って来た声で上がる。咄嗟に「はい」と答えたため、訪ね人はすぐ現れた。

 雷吼丸が部屋の奥、影の中へ溶けるように下がるのと同時に、入って来たのは行脚僧の装いをした大柄な鬼。風晶は明かりをつけていないことに触れず、また座ることもせず、じっと志乃を見下ろす。


「散歩に行こう」

「へ?」


 にこりともしない顔から発せられた長閑のどかな誘いに、思わず固まる志乃。「散歩に行こうと言っている」と、荘厳な古木のごとき出で立ちの鬼は、律義に繰り返した。


「雷雅に振り回されてうんざりしているだろう。解放してやることはできないが、息抜きには付き合ってやれる。奴にも、お前を借りると報告済みだ」


 雰囲気や口調は強みを帯びているが、相手に何かを強いる圧は無い。志乃が戸惑い気味に頷いても、風晶は笑み一つ見せなかったが、威圧の無い空気もまた変わらなかった。


 気を遣ってか、風晶は宴会場と化した広間を通らず、目立たない戸口から廊下へ出る。龍爪亭は他の建物と比べても天井が高い部類だが、風晶は背が高い上に体格が良いため、歩くだけでも狭そうだった。何となく微妙な距離を空けてついて行く志乃が、体をぶつけないかとハラハラしてしまうくらいに。

 幸い風晶はどこにも体をぶつけず、龍爪亭から出た後は、建物の前を流れる川に沿って歩いていく。今は荒事が面倒事へ繋がってしまうため、志乃は間に空けていた距離を詰め、風晶の真後ろに隠れるようにして歩いていた。


 街は相変わらず、剣呑が混ざった賑わいで満ちている。群衆から頭一つ抜け出ている風晶は非常に目立ち、遠くからでも客引きの声が掛けられるほどだったが、前から視線を逸らさない。しばらく進み、いくらか賑わいが収まったところで、巨漢の鬼はようやっと顔を横に向けた。


 視線の先にあったのは広めの橋。しかし風晶は橋の袂から川原へ下り、志乃も続く。華燭かしょくの彩りが届かない橋下は真っ暗だったが、ぼうと青白い怪火がひとりでに灯った。

 冷色の怪火が現れたのは、橋下に隠れていた小舟の舳先へさき。風晶は躊躇ちゅうちょなく舟に乗り込み、手慣れた様子で準備を整えていく。ついぽかんとしていた志乃は、何か手伝えないかと慌てて風晶の傍に駆け寄ったが、「乗って待っていろ」と断られた。


「これもさぎたちが所有している舟だ。邪魔されず話せる場が欲しかったので貸してもらった」


 そう時間をかけず準備を終え、風晶もまた座り込む。何となく縮こまるようにして座り込んだ志乃と違い、両手にはかいを握っていたが。


「さて。舟が沈まずにいてくれればいいのだが」

「えっ」

「冗談だ。もし沈みそうになったら、抱えて岸に跳んでやる」


 にこりともせず真正面から言われ、引きつった愛想笑いを浮かべた志乃だったが、ふと思い出した。中谷もたまに、無表情でそんなことを言っていたと。

 懐かしい顔が浮かんだ途端、緊張が解けて自然な笑みが零れる。志乃が自覚するより先に、風晶は舟を漕ぎ出していた。

 怪火は舳先で音も熱も無く燃え続けていたが、橋下から出ると存在感が薄くなる。風晶の背に阻まれて、志乃には見えていなかったが、青白く変わった目は街並みへと向いている。


「それにしても、随分おとなしくしていたな、花居の」


 やや遠くなった喧騒を、漕ぐ音で時々かき混ぜながら、風晶が口を開く。気を緩めていた志乃は、改めて前へと向き直った。


「一度も振り返らずにいたから、隙を見て逃げ出すだろうと思っていたが。それとも逆に警戒したか?」

「あー、ええと……風晶さんとは、お話ししていないなと思いまして。今だけでなく、昔も。俺が憶えていないだけかもしれませんが」

「いや、合っている。お前には雷雅がずっとついていたし、私もお前に話しかけなかった。お前自身も妖雛ようすうの例に漏れず、何かに強く興味を示すことも無かったからな」


 何気なく言われて、そういえばと志乃は思い出した。妖雛はそういうモノだったと。夜蝶街から出たばかりの頃、自分でも思っていた。けれど今は。


「俺は、何も知らないままではいられなくなりました」


 知らなければならない。理解しなければならない。自分は何を分かっていないのか。何をするべきなのか。どうやって人の側へ向かい、人に歩み寄らなければならないのか。

 ――本当に居るべき場所は、どこなのか。


「自力で行くことを覚えたか」


 いつの間にか、風晶は漕ぐ手を止めている。それでも舟は緩やかに、ゆっくりと流れていく。


「単刀直入に言おう。こちら側へ来るな、花居志乃」


 川の上でも街の音は絶えず聞こえてきている。雑音だらけの世界の中で、その拒絶ははっきりと聞こえた。


「お前は雷雅に、育ててくれた人間たちに感じたものと同じ親しみを抱いているな」

「……はい」


 嘘など容易に跳ね退けそうな暗い鉄色くろがねいろの凝視に、志乃は気圧されることなく、しっかりと答える。自覚しているからこそ、ずっと胸裏が曇っているのだから。


「ならば憶えておけ。お前が懐いているものと、雷雅が懐いているものは別物だと。奴は人間の情など解さない化け物だ。昔から……人間だった時からな」


 初めて、風晶の顔にわずかな歪みが表れた。ほんの一滴程度なのに、あまりにも濃く複雑な色で。


「奴と私は幼馴染でな。同じ学び舎に通い、職は違えども宮中で仕事をしていた、いわゆる同期でもあった。私は守衛を担う武官として、奴は学問を追究し役立てる学者として。雷雅が人間だった頃の名は須榧すがや在雅ありまさというんだが、聞いたことはあるか?」

「え……、えぇ!? 須榧在雅って、あの」


 狼狽えた動きのせいで、小舟もまた揺れる。だが、志乃が驚くのも無理はない。

 須榧在雅は約千年前に実在した人間であり、小説や芝居の脚本、詩歌や絵画の題材として取り上げられてきた偉人。ほんの少しでも学、いや娯楽に触れてさえいれば、誰もが知っているほどの存在である。


「で、ですが、須榧在雅は」

「〈苑雲えんうん災雷さいらい〉で討伐されたことになっている、だろう。あんな所業をしでかしたモノが、今も生きているとあっては脅威だから、御伽噺おとぎばなしとして片付けられているのだ。昔はともかく現在、雷雅がそうだと知っているのは色護衆くらいだろうな。して、須榧在雅について知っているのなら、説明をいくらか省けるが」

「いえ、聞かせてください」


 返答は迷いのない即答。復習しておきたいという気持ちもあったが、雷雅という鬼を知らなければならない以上、自分より雷雅を知っている存在が見た姿を知っておくべきと考えたために。

 思考が伝わったかは不明だが、風晶は目を伏せたのち、「では話そう」と口を開いた。


「須榧在雅は天才だった。学問と呼べるもの全てに精通し、芸事と呼べるもの全てに秀で、容貌は言わずもがな。奴に出来ないことはないとさえ言われたが、常人の営みだけは、どうしてもできていなかった。

 先にも言ったが、奴には人間の情が分からなかった。理解していても実感できていない。だが、奴の態度は普通の人間と大差なかったために、よほど懇意にならなければそうと分からなかった。分かってしまっても、私を含め全員が目を逸らしていたし、中には妄信ゆえに見えていなかった者もいた」

「妄信……ですか」


 測りかねた志乃が繰り返して間もなく、流れに任せて進んでいた舟が橋下に差し掛かる。怪火の寒色を背に、風晶の首肯が見えた。


「在雅は、ありとあらゆる願いや望みに応えていたのだ。かつて私は、お前自身がしたいことはないのかと訊いたことがあったが、『自分が何も望まなくても、誰かが望んでくれるから、それを叶えていればいい』と。才能や美貌に恵まれた代わりに、自分というものが何一つとして無い。私にはそれが、とても危うく見えた」


 語る声は大きくなかったが、少なからず反響している。


「誰かの願いで削られていく以前に、奴には元から危ういところがあった。ここではないどこかを見ていて、いつか消えてしまうのではと思わせるような。……人の道を外れそうだとも。そして事実、奴は人ではないモノと交流し、脅威になり始めた」


 曰く、誰もいないところで、陰に向かって話しかけている。

 曰く、見つめただけで人心をとろかし、意のままに操る。

 曰く、女でも男でも、誰とでも寝所を共にし、数多の情報を手中に収めている。

 曰く、知識欲が高じて、禁術にまで手を出している。


「自分でも感じて分かっていながら、私はまだ愚かだった。在雅は誤解されている、嫉妬されている、怖がられてしまっている。だから根も葉もない噂が立つのだと思い込んでいた。自分は信じてやらなければ、味方でいてやらなければと、使命じみたものを抱いていた。噂が全て本当だと明らかになった後も」


 橋を通り過ぎ、先に風晶の顔が明らかになる。歪みはさらに大きく、垣間見える色は入り乱れた顔が。


「当時は容易く交流してはならなかったモノたちとの接触、禁術の調査及び実践、まつりごとの要人や高位貴族からの不正な情報取得。おまけに、もはや宗教と言うべき人気まで得ている。早急に処分すべきという声も上がったが、在雅の才能があまりにも惜しく、何とかして更生させようという方向になってしまった。在雅は洛都らくとからはるか西の地へ追放され、朱泉府しゅせんふ筑幸郡ちくこうぐんに幽閉、人格更生に努めるはずだった」


 判断が間違ったものだとはばらない語りに、聞き手からの問いかけは無い。間違っていたことなど、もはや常識となったのだから。


「だが、追放から一年足らず。在雅は人ではないモノとなって、宮中へ戻ってきた。そうしてもたらされたのが、〈苑雲の災雷〉だ」


 ■


 須榧すがや在雅ありまさおよび、苑雲えんうん四年に起こった落雷事件を題材にした芝居「落雷開花らくらいかいか」は、終盤に最もおぞましく、最も美しい場面がある。この場面があるからこそ、須榧在雅は数多の芸術で取り上げられてきたのだと証明する場面が。


 西の地へと追放された在雅は、鬼となって戻ってきた。暗黒の雷雲に乗って戻ってきた。落雷と共に内裏だいり青仁殿せいじんでんへ降り立ち、その場にいた人間を皆殺しにして、血の海を作り上げた。

 惨状の渦中にいながら、美しさを損なうどころか、見る者の言葉も心も奪い取る絶美を誇った鬼。国すら傾けんと危惧された彼は、駆け付けた近衛兵たちとの死戦に臨み、討ち果たされる。


 けれどそれは作り話。建造物が燃え落ちていく轟音も、焼けた人肉の臭いも、現れた血の池の鮮やかさも、逃げ怯える人々の叫喚も、瞬いただけで現れる凄惨も、何一つ通っていない美談。


「待ってたよ、晶之あきゆき


 自分を出迎えた一言で、全てを思い出せる風晶にとって、最も忌むべき御伽噺だ。

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