篝火の下

 現世が夜を迎えると同時に、忘花楼ぼうかろうも動き出す。昼と見間違えるほど明るく照らし出され、騒がしくなっていく不夜城を、白雨は気だるげに見下ろしていた。白銀に真紅が混ざる頭の上では、綺麗な三角の耳が気まぐれに動き、風に乗ってくる音を拾っている。

 彼女がいるのは忘花楼の八階。忘花楼について聞かされ、白雨の部屋も作るからと言われた際に要求した、丸ごと彼女の住居として作られた階層。半分は冗談だったが、半分は本気だった要求を完璧に再現してみせた上に、望めば更なる改良もなされる至上の部屋だ。

 部屋は現在、彩鱗国いろこのくにの様式と、かつて祖が住んでいたという西の隣国の様式を組み合わせた意匠に落ち着いている。白雨は丸窓から離れて中央に置かれた牀榻しょうとうに寝そべり、あらわにしていた尾を器用に動かして、天蓋から下がっている鈴を鳴らした。


「はい、利毒はここに」

「相変わらず早いねぇ」


 牀榻の足元、音もなく忽然と現れた鬼を、妖狐は驚きもせず眺め微笑む。花魁を名乗っていながら、ただの一人も客を取っていない白雨は、利毒を話し相手に夜を明かしていた。


「本日はお呼びにならずとも、参上するつもりでおりましたよォ。こちらをお届けに上がらなければなりませんでしたから」


 するり、利毒が懐から取り出したのは、縦長に折りたたまれた紙。一目で手紙と分かるそれに、白銀の狐は少女のように顔を輝かせた。


「ああ、やっと来んしたね! 早う読ませておくれ」

「もちろん。ワタクシは席を外しましょうか」

「いや、構わねえよ。どこでもいいから座って」


 受け取った後、利毒には一瞥も向けずに言って、白雨は手紙を開く。ふわりと香が匂い立ち、流麗な字が見えた途端、雪景色に椿が咲くように、妖狐の頬も体も紅潮していく。


 千に届くかというほど昔、白雨は忘れられない恋をした。同種ではあれども同胞ではない狐たちに裏切られ、人間たちに封じられてもなお、忘れられない恋を。あのひとが振り返ってくれるなら、あのひとの心を手に入れられるなら構うものかと、喜んで常道を捨てた。

 利毒の計画に乗ったのも、この恋をもう一度実らせるため。今度こそ、あのひとが血を飲ませてまで傍に置いた唯一に成り代わるため。

 つづられた言葉を目で追いかけるだけで、耳の奥に妖麗な声が蘇る。何度も何度も読み返して、この字を書くため筆をった手や、情景を写し取ったのだろう双眸を思い起こす。薄れゆく香の名残惜しさに胸を締め付けられながら、いつか自分の元へやって来る男を脳裏に思い浮かべる。


 堪能し終えると、白雨は手紙を元通り畳んで、螺鈿細工の箱と棚にしまい込んだ。ほったらかしていた利毒はどうしたかと見てみれば、椅子に座って書籍片手に茶を飲んでいる。


「ん? 読み終わりましたか。お茶いります?」

「ありがと、貰いんす」


 慣れた対応に慣れた動きで茶を入れる利毒を眺めながら、白雨はゆらゆら九尾を揺らす。髪と同じ白銀で、毛先は紅く染まった自慢の尾。皆と違うからと忌む同族もいたが、軒並み負かして腹に収めてきたので、文句を言う奴はもういない。


「お待ちどおさまです。あっ、茶菓子もお出しいたしますねェ」


 牀榻の傍に机を置き、茶を淹れ、禿かむろ姿の使い魔に、どこからともなく菓子を持ってこさせる。「かいがいしいね」と白雨が笑えば、利毒もにっこり笑い返した。

 最初こそ、利毒を躁狂じみて胡散臭いと思っていた白雨だが、おしゃべりや人の世話が好きらしい姿を見せられるうち、ほだされてしまっていた。目的や趣味は悪辣だが、妖怪の視点から見れば嫌悪するほどでもなく、何より白雨が得意とする分野に被っているため、むしろ好ましい。


「手紙にはなんと書いてあったので?」

「最近は狩りをしているって。どこからでも貴方のいる場所が見えるから、思い出さずにはいられないって」

「ほほぉ、では手土産に猪でも頼みます?」

「土産なんていらねえよ。来てくれさえすればいいにんした」


 恋焦がれるあまり生娘のような言動をしてしまっても、利毒はあざけらない。愛想笑いを浮かべてはいるが、それはこの鬼の仮面だ。仮面にも、下に隠している真意にも嘲りを感じないから、白雨は毒鬼を嫌っていない。といっても、同じ利益を山分けしようと協力しているだけの仕事仲間に過ぎないのだから、正確には好きでも嫌いでもないのだが。


「そうだ。主さんが入れた新顔を見てきんした」

「おやおや、それはそれは。どうでした?」

「どうもなにも、顔を隠していたから分からのうござりんしたよ。主さんがわざわざ連れて来た理由も」

「ンフフフ、ここでアナタをとがめるものなど何も無いのですから、面くらい暴いてしまえばよろしかったのに。アナタ好みの美しい顔を見られたかもしれませんよ?」


 ニヤニヤ笑いながら、茶菓子の饅頭を口に放り込む利毒を尻目に、白雨は枕元から傍らへ煙管盆を移動させる。茶菓子が消えるまで吸うつもりはなく、今は利毒との会話に心を傾けているため、ただ動かしただけだが。


「それは野暮ってもんだろう。それに、もし暴いた顔が好みでありんしたら、手に入れとうてたまらなくなりんす。そしたら、あの子らを使って何かをしたいだろう主さんに、迷惑をかけちまうかもしれねえでありんしょう?」


 白雨もまた饅頭を手に取って微笑むと、利毒は梅紫の目をこぼれんばかりに見開いて、わなわなと震え出した。そのまま袖で顔を覆ったかと思うと、嗚咽の真似らしい声を漏らす。


「うっ、うぅっ……ああアァまさかワタクシに気を遣っていただけていたとは……気が付かず申し訳ありません」

「アハハ、こんなに我儘わがままを許してもらってる手前、主さんに愛想を尽かされちゃたまりませんから」


 裏切られた時、何をされるか分かったものではないのだから。

 白雨が解き放たれたのは、利毒が望む量と質の呪詛を繰り出せるが故。それは既に狐と不仲ではないいたちを利用し、元々不仲の狸にけしかけて叶えてあるし、忘花楼の経営に加担することでも叶えている。後は見返りを貰うだけだが、用済みだからと寝首をかかれてはたまらない。


「ンフフフそう心配なさらずとも。アナタには最後まで付き合っていただければと思っておりますよォ。アナタの願いが叶うまで、忘花楼は壊せませんし……何より観客は多い方が嬉しいでしょう」


 先ほどの芝居から一転、いつも通りニタニタ笑う顔も態度も、信じられるとは言えない。けれど、明らかに腹の中が黒い鬼のはかりごとに乗った時点で、自分の身は自分で守るとも決めている。


「そうでありんすね。主さんの蠱毒がどうなるかは、あちきも興味がありんす。どうか盛大に咲き誇らせてくださいまし」

「もちろんですともフフフフいけません楽しくなってしまいますねェッハハハァいけませんいけません。アナタの想い人について話しましょうじゃありませんか。あの方についてお話しした方が、場も華やぐというものです」

「二人しかござりんせんのに大袈裟だこと。でもそうでありんすねえ、あの方の話をすると、空気が華やぐのは間違ってねえ」


 異国の燈會ランタンと彩鱗国の灯篭に入れた暖色、自らの狐火で照らす部屋の中。その話をする時だけ、妖狐は嘘偽りのない笑みを浮かべる。ただただ好きな男を想って。


「それじゃ、今夜も聞いてもらうとしんしょうか。雷雅様を想うあちきの心を」


 ……けれど、純粋に恋をする女は知らない。

 千年経とうと想い続けたそのひとが、自身の血を飲ませてまで傍に縛り付けようとしている者は、一人限りではなくなったことを。それが自分ではない、他の女であることも。

 そして、かの鬼が何を見て、何を考えているのかも。

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