舞台を望む
突如として来訪した慧嶽に与えられた二日を、忘花楼は緊迫の中で消費した。慧嶽を迎えるための準備を万全に整えて、当日を迎えた。
案内役として指名を受けた芳親は、「本日貸し切り」の札を掲げた正門の下、忘花楼の紋入り提灯を提げて立っている。出られない都合上、こんなにもぎりぎりの境界に近寄ることすらなかったため、正門から忘花楼周囲の様子を見るのも初めてだった。
花街といえば志乃の故郷である夜蝶街へも行ったが、あちらは物の怪が出現していたこともあって、光を封じ静まっていた。けれど今は、牡丹色の瞳が華燭を受けてチラチラ煌めいている。賑わいが湿った空気を通って、遠くも確かに肌へ伝わってくる。
そこへ――からん、と下駄の音が一つ。
忘花楼周囲にぐるりと巡らされた堀、正門前に架けられた橋に、人型の影が降り立った。月光を弾く白銀の、相変わらず酷く外へ跳ねた髪を靡かせて。
かん、こん、かん。軽やかに歩いてきた慧嶽は、一礼した芳親を愉快そうに覗き込むと、にたり破顔して
「きぃ、ひ、ははは。二日ぶりだの、境田の芳親よ。もう目は隠さなくなったか。良いぞ、良きものは見せておくべきだ」
「……もう、晒しました、ので」
逸らすどころか、白黒が逆の目を覗き込むようにして芳親は返す。
「……一つ、お訊きしたい、ことが……あります」
「うん? 何だ。この二日は雷雅の若造と人形たちのお陰で、われも気分が良かったのでな。叶えてほしいことがあれば、気まぐれに叶えるかもしれぬぞ?」
不気味が消えた屈託ない笑みで、慧嶽が胸を張る。似たようなことを白雨にも言われたと思い出しながら、しかし芳親が口にするのは願いの類ではない。
「僕の、話し方、について……。……あなたは、僕の事情を、知ってる、から……こうして、今も、急かす、ことなく……聞いて、くださってる、けど……」
途切れ途切れ、いつも通り言葉を紡ぎながら、芳親はふと思いを馳せる。
今まで、芳親を急かすことなく、話を聞いてくれる人や妖怪の何と多かったことか。妖怪側は大部分が、おそらく芳親が常世に関係していることを見抜いたか察していたのだろうが、それにしても、この聞きづらいだろう話し方をよく受け入れてくれたものだと。
「今日の、僕は、あなたを、もてなさないと、いけない。……ですから、声、を……常世の側に、変えて、接客、すべきか、どうか……決めて、いただき、たい」
芳親は現世での声、語り方で話すと決めてはいる。けれど指名で接客を任された以上、慣れた常世の話し方ですべきではと、あの後も何度か話をする機会があった白雨から助言として提示されていた。もちろん、現世の声で話したいという気持ちや理由を汲んだ上で。
じ、と牡丹色の目が見つめる先。銀髪に冠のような多数の角を生やした頭を傾けて、慧嶽は「ふうむ」と唸った。
「われとしてはどうでもいいのだが……そうさな。確かに今、なれの説明を聞いたにしても、長くなればなるほど不便になっていくのは明白。なれにも相応の負担が掛かろう?」
反対へ首を傾げて問う鬼に、芳親は正直に頷いた。
確実に疲労が溜まっていくというのは避けられない。今まではそれほど話す量が多くなかったというのもあるが、さすがに今日は抑える訳にもいかない。
「ならば常世の声で話すといい。現世での声を忘れそうになったら、そちらで話しても構わぬ」
『お気遣い感謝いたします。それでは、こちらの声で。伝わっておりますか』
許可された途端、たどたどしさが嘘のように消えた滑らかな口調と、耳触りに不思議な気配を残す声で芳親が話し出す。同時に、眼窩に嵌まった牡丹色の鮮やかさが強まったのを見て、慧嶽は再びにたりと口で弧を描いた。
「ああ……懐かしき音、懐かしき響きかな。なれの纏う気も懐かしい。常世の、遥か遠き神代の気配がする」
仄暗い夜の中で不気味に浮き上がる白い頭の鬼は、浸るように目を細める。けれどそれは束の間で、表情は期待に差し替えられた。
「では行くか、芳親よ。初めに見せるはどこぞ?」
『戯楼にございます。こちらへ』
恭しく頭を下げ、方向を示し歩き出す芳親。使用人らしからぬ優雅をふわり漂わす挙動に、愉快と笑みを綻ばせて、慧嶽は忘花楼へと踏み入った。
通常、戯楼は各階層でそれぞれもてなしが違い、接客は独立しているだとかバラけているという印象が強い。しかし五日に一度、三階まで吹き抜けの闘技場で行われる大賭博の際には、勤めている者すべてが結束する。今日はその日ではないが、戯楼における最大にして目玉の催しのため、慧嶽をもてなす項目として真っ先に組み込まれていた。
左右を花咲く生け垣に彩られた道を歩き、木彫りの獅子像二体が守る戯楼の入口に辿り着けば、既に待機していた働き手たちの姿も見えてくる。うち一人が、芳親と慧嶽の前へと進み出てきた。
「ようこそお越しくださいました、慧嶽様。戯楼を代表してご挨拶申し上げます」
淀みなく述べるのは、人のようにすらりと美しい立ち姿をした
「本日は戯楼で行われるうち最大の賭博、花形戦士たちによる試合を観戦していただきたく」
「ほう、良いな。戦いはあるだけで胸が躍る。ちなみに賭けはできるのか?」
「お望みとあらば、私含む働き手がお相手いたします」
「くぅ、ふ、ふふふ。ならば頼もう。賭けはあまり得意でないが、遊ぶなら好みだ。なれらも気にせず楽しむが良い」
邪気のない、ともすれば優しさすら感じられそうな微笑を見せる鬼に、蜥蜴は深々と頭を下げる。遊びを遊びと線引きをし、脅かしはしないと暗に約束する、寛大な慈悲への礼として。
楼内へ入ると、蜥蜴は観戦の席をいくつか提示した。そのうち慧嶽が選んだのは一階、舞台を間近真横から見られる場所。すぐさま上座の席が設けられたそこに、慧嶽は芳親と、賭けの相手をする働き手たちとを従えて向かい、腰を落ち着けた。
「きぃ、ひ、ははは。ああ……匂っておるわ、かぐわしい戦士の闘気が、観衆の期待が」
脇息に肘を置き、どかりと座る慧嶽は、荒っぽさがありつつも威厳を醸し出している。芳親と蜥蜴含む働き手たちは左右に分かれ、鬼の斜め後ろに控えた。王に付き従う臣下のように。
上座や舞台の周りには、普段は
賭けの票が集まってから間もなく、舞台上に運び込まれていた
「さあ、皆様。これより第一回戦が始まります! どうぞ、歓声を以て戦士をお迎えください!」
二階の欄干から、実況を担う妖鳥が声高に場を煽り、低く重い銅鑼の音が空気を震わせる。次々上がる歓喜の声が飛び交う中、舞台の左右から影が現れた。両者とも二本足で立っているが、片方は大きな獣の姿で、片方は小さな人型で棒状の武器を帯びている。
「本日の一戦目は、
翼を広げて妖鳥が謳えば、場内の熱がさらに上がっていく。演武の役者も拳と得物を構え、あとは一滴、開戦と雫を落とすのみ。
「それでは参りましょう! いざ――始めェい!!」
裏返る妖鳥の宣言を受け、銅鑼の音が響き渡る。かくして、天狗の祖たる鬼が微笑み観覧する中、三回にわたる戦いの幕が開かれた。
***
直武がどことも知れぬ座敷牢に閉じ込められてからも、一月が経とうとしている。しかし初日に告げられた通り、呪詛の進行具合を診られつつ、拘束と監禁以外に不自由を強いられなかった彼は今。
「――まァったく、奔放にも程があると思いませんかァ!? 軽々しく神霊を呼ぶなんて、雷雅殿はなァにを考えておいでなのです!」
ぐいっと酒を煽り、だんっと
「お前の邪魔はしていないんだろう。それなら、お前としては何も問題あるまい」
「そうですけどォ……ワタクシはたかだか数百年程度、研究三昧の学者生活を送っているだけの身。あのような範疇外は、近くにいられるだけで鳥肌やら悪寒やらが止まらなくなります」
ほら、と。利毒は暗い赤色をした袖を捲くって、実際に粟立った腕を見せつけてくるが、直武は何も言わず茶を
色々と協力が結ばれてはいるものの、今は所業の凶悪さで色護衆から敵視されている利毒だが、それにしたって馴れ馴れしい。だが妖怪連中、特に歳月を重ねて強さを増しているモノにはよくある傾向だ。人間に興味が無くとも、暇つぶしとしてちょっかい――人間からすれば、とてもそう呼べるものではない――をかけるくらいはする。
「まァ実際、慧嶽殿はワタクシに興味を示してはおられませんし、そのあたりは確かに問題ありません。あの方の興味を引きそうなものと言えば特使――志乃殿と芳親殿でしょう。報告書によれば、もう芳親殿とは接触した上、自ら案内役として指名したとか」
人間相手なら驚きはない旨の相槌を打つところだが、直武は無言を貫く。直武も慧嶽とは面識があった。というのも、あの神霊由来の鬼は色護衆の中枢十三家に必ず、ちょっかいという名のを喧嘩をしかけに来るので。
慧嶽は自然寄りの性質を持っているため、あるがままものを好む。強いものは強く、野を駆ける自由な獣であれと望んでいる。そんな鬼が興味を示すのなら、まだ面識のない妖雛二人だろうという推測は難くない。
「志乃殿にも接触はしておられるでしょうねェ。呼んだのは雷雅殿ですし。師弟関係にあったという風晶殿もおりますし」
傍らに控えさせた蜘蛛に酒を注がせながら、淡々と利毒は述べた。
風晶は雷雅の眷属でありながら、志乃のように雷を使わない。名にある通り風の妙術を使っているのは、天狗の祖でもある慧嶽に師事を受けたからだ。憎悪や殺意を向けている相手と同じ術など
「ンフフフですが愉快なのも事実。危機や畏怖が間近にあるからこその愉悦もありましょう。ワタクシも文句は言いつつ面白いとは思っております」
「じゃあ愚痴はもう終わりだな。失せろ」
「アァそんな! 酷い、何と酷い言い方!」
酒坏を床に置いて顔を覆う利毒を、直武は冷めた目で見やる。空気を読んだらしい蜘蛛もまた、わざとらしく肩を震わせる鬼の背をさすり、芝居に協力していた。
「アナタとの談笑も、もうじき終わるというのに……ンフフフそれはそれでワタクシの目的達成が近付いている目安なので昂ぶってきてしまいますが」
「私も楽しみだよ。戻ってきた杖でお前を叩きのめすのが」
「ァアアご無体な! アナタを閉じ込めたのは色護衆からの診察依頼も兼ねていたからでもありますのに!」
「知ったことか」
鼻で笑う直武に、利毒も歪んだ笑みを返す。敵意の送り合いはそれきりで、利毒はこれまでと同じく、満足すればと引き上げていった。
ここ最近の利毒は撤収が早く、無駄な芝居も減っている。自ら言っていたが、かの鬼の目的達成は間近で、そのために手を尽くしているのだろう。
「……結局、脱出不可だったか」
一人残された直武は、すっかり手足に馴染んだ枷を見下ろして呟いた。最大限の力を発揮すれば、かけられた術を解除し、座敷牢から出られたかもしれないが、今はできない。直武の最大限は、呪詛をかけた元凶たる物の怪を討つためにある。
だが、本気を出せないという欠点があっても、直武の実力は変わらない。利毒を介してではあるが、こちらの力を完全に封じ込めているあたり、雷雅の周到さは相当のものだと察せられる。それほどまでに得たい何かがあることも。
利毒の目的は最初から明確だった。では、雷雅は? あの鬼が本当に求めているものは、何だ?
今までにも同じ疑問が浮かんだことはある。しかしながら先読みが叶ったことは一度も無い。分かっているのは、雷雅は欲するものを必ず手に入れるという一点のみ。
それがどうした、と。直武は声に出すことなく、己が内側へ吐き捨てる。
かの鬼が先手を取って我が物とした盤上でも、もはや糸に操られるまま動く以外できなくても。思考を止めることはできない。打破を諦めてもいない。
故に、望むことは一つ。
「折れてでも、乗り越えなさい。そうでなければ、灯火なんて得られないのだから」
教え導くべき若人たちが、苦境を踏破すること。ただそれだけ。
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