前/求

来火の兆し

 現世が昼の最中を迎える裏側で、幽世の忘花楼ぼうかろうにはいとまの空気が満ちている。しかし戯楼ぎろうの上階には、ささやかな活気があった。閉鎖された空間で唯一許された娯楽、賭け事に興じる者たちが集っていた故に。


「では、勝負」


 今日は盆茣蓙ぼんござが敷かれ、丁半が盛況を見せている。進行役の言葉が緊張を演出し、ツボ振りがツボを開けば、向かい合った客たちが動き出す。ある者は歓喜に笑い、ある者は悲嘆に暮れていた。


「どっちだったんでしょ。わしは丁かと思いやしたが」

「当たっているようですよ。ゴゾロだそうです」


 顎に手を当てる五井鷺の隣から、当然のように読唇を使って紀定が答えた。二人は茣蓙に腰を落ち着けてではなく、壁に背を預けて賭博の様を眺めている。何度かあの場に座ったことはあれど、収穫が芳しくなくなってからは、壁際からの観戦が多くなっていた。

 紀定と五井鷺は休憩中、二日に一回の頻度で戯楼に足を運び、働き手たちから噂話をさりげなく聞いては情報を集めていた。が、成果はあまり良いと言えない。噂話は似たようなものかつ具体的なものがほとんど無く、深掘りしようにも皆、壁に耳あり障子に目ありと白雨はくうを恐れ忌避していたので。


「ふふん。わしの勘も捨てたもんじゃァありやせんね。芳さん紀さんの勘が良いんで、少し自信を無くしていたんでさァ」

「こちらはそれなりに鍛えておりますから。芳親殿のあれは勘というより、天性の何かと言った方が正しい気もしますが……」


 思い出して苦笑する紀定に、五井鷺もつられて苦い呆れ笑いを浮かべる。芳親と小鷺も、最初の頃は戯楼へやって来ていたのだが。芳親はあまりにも勝ち過ぎて出入り禁止を言い渡されてしまい、小鷺も彼のお目付け役として、戯楼での情報収集から外れていた。


「いやはや、とんでもなかったですもんねェ、芳さん。何やらせても大勝ち、イカサマなんてしねェどころかむしろ見破る。聴き出してきた情報より、持ってきた金の方が多かったなんて、もう笑うしかねェでさァ」

「ええ、その辺りは実行できていたので惜しむべきなのですが……やはりあの勝ち様では、賭博の意味が無くなってしまいますからね」


 裏舟吉うらふなよしは現世同様、金銭でのやり取りが築かれ広まっている。忘花楼の働き手たちにも金銭の流れがあり、暇つぶしの娯楽でも金銭を賭けていた者は少なからずいた。それが軒並み吸い取られていくのだから堪ったものではないのだ。芳親は「要らない」と全額返還していたものの、色々と砕かれるものがある、と。


「しかし、ここで集められる情報は、始めから頭打ちだったのでしょう。そう考えれば、早い段階から別方向に探りを入れて正解だったと言えます」

「ですねェ。どこでも白雨を恐れてんのは同じですし、わしらだってそうですし、時間が要りやすから」


 五井鷺と小鷺も、紀定と芳親がやって来る以前から情報収集はしていたが、慎重なぶん進みは遅い。やたら嗅ぎ回っている者がいると密告されるわけにも、そのせいで別の誰かに被害の矛先を向けさせるわけにもいかなかった。

 幸い、戯楼と住居楼は白雨の監視がさほど厳しくないこともあって、活動はしやすくなっている。あえて監視の緩い場所を作ることで、怪しいものをあぶり出す狙いも考慮しているため、やはり用心することは変わりないのだが。


「白雨に関しては、芳親殿が何かを察知していたこともありますし。気長に行くとしましょう」

「ははは、わしらの得意分野でさァ。青柳座あおやぎざの連中は、みんな釣りが得意ですから……あー、言っちまったらやりたくなってきやしたねェ、釣り。ここの庭は池あるんだし、そこでやらせて欲しいんですけどねェ」

「釣り堀の設置を進言してみては? 忘花楼の設備に関連することなら、かの妖狐はむしろ積極的に耳を傾けるでしょう」


 紀定の言葉は借り受けたものではなく、彼自身も確かめた事実。白雨は忘花楼を改善していく努力を怠らず、精を出している。そもそも彼女は高い向上心を持っているため、残忍さや方向性を抜きにすれば、群れの一つや二つ率いることもできただろう存在と目されていた。


「ああ、実は前に訊かれているんですよ、釣り堀に関しては。まさか潜入早々に声をかけられるたァ思わなかったんで、肝が冷えやした」

「なるほど。我々が初日に白雨から話しかけられても、お二人が冷静を保っておられたのは、そういう理由でしたか」

「それもありやす。……お話ししといた方が良かったですかね? ただ釣りのことを訊かれただけだったんで、話すまでもねェかと思ってたんですが」


 五井鷺自身、あまり重要と思っていなかった程度の会話だったのだろう。不安で顔を曇らせた彼に、紀定は首を横に振る。


「いえ、お気になさらず。ですが、白雨も釣り堀は考えていたのですね。なぜ実現しなかったのでしょう」

「さてねェ。わしも、実現できなくなったと軽く詫び入れられたっきりでさァ。いま思えば、もうちっと理由を聞き出しときゃァ良かったかもしれねェですね、申し訳ねェ」

「とんでもない。しかし気になる所ではありますね。忘花楼の造りに関係しているのかもしれませんし」


 呪詛の拡散を防ぐという共通の目的の他、鷺たちには仲間の救出、紀定と芳親には直武の捜索という目的がそれぞれある。お互い求めるものが違えば、情報の取捨選択が異なるのも仕方がない。

 忘花楼を建造したのは利毒で、二人をここに閉じ込めたのも、直武をどこかに閉じ込めている可能性が高いのも利毒だ。釣り堀を作れなかった理由が、利毒に反対されたなどであれば、直武を見つける手がかりが掴めるかもしれない。


「そちら方面の話も、色々聞き出してみる価値がありそうです。五井鷺殿、良ければ憶えておいていただけますか」

「もちろんでさァ。ああ、でも。もし白雨と近付く機会があれば、わしから訊くこともできるかもしれやせん。狙ってみやしょう」


 真摯な光を目に宿す五井鷺に、紀定は頭を下げる。忘花楼で共に過ごして早ひと月が経とうとしている今、鷺たちと紀定たちの間には、信頼が高く築かれていた。




 客も働き手もいなかろうが、防犯のために照明が絶えず光をもたらす渡り廊下。戯楼と花楼かろうを繋ぐそこから、暇人たちが賭博に明け暮れる楼閣を睨み上げる影が一つ。


「芳さーん、往生際が悪いですよー」


 布面越しでもぶすくれているとバレバレな青年を、先に行っていた小鷺が苦笑交じりで咎める。芳親はすぐ、ぷいっとそっぽを向くように視線を外して小鷺の方、花楼の方へと歩み寄った。


「……紀定と、五井鷺……あそこで、遊べて、ずるい」

「いや、お二人ともちゃんと仕事してますから。芳さんも頑張ってましたけど、その、強運が……ね?」


 思い出しの苦笑いを浮かべて、小鷺は芳親を促す。魔術で結果を思うままにしているのでは、と疑ってしまうほどの強運を見せつけた芳親は、戯楼立ち入り禁止を言い渡されていた。

 勝負という言葉を無意味にしてしまったために、働き手たちから恨みを買わないかと心配した鷺たちだったが。天衣無縫とも評せる言動から、むしろ気に入られていくのを目の当たりにして、肩の力を抜かされたものだった。ついでに、「心配いらなかったでしょう?」と死にそうな笑顔で言う紀定に、何度も深く頷いた。


「……まあ、仕方ない、けど。……うん。仕事、しよ」

「切り替え早くて何よりです」


 小鷺は芳親より背が低いが、何だか弟を相手にしている気分にされてしまう。呼び方も「何で五井鷺みたいじゃないの」と言われ、砕けた呼び方に変えられたことも含め、小鷺もなかなか振り回されほだされていた。

 二人が花楼に向かっているのは、貸本の確認作業を手伝うため。貸本屋の来訪日が迫っているので、そのお知らせをして回ったり、貸し出し状況の把握をしたりしなければならない。

 百合に似た細長い花の模様が彫られた扉を開き、花香る楼閣へと入る。一階には、既に集まった働き手たちの姿があった。小鷺と芳親が合流した後、他にも手伝いを頼まれていた働き手たち数人が集い、段取りの確認が始められる。


「――では、花楼以外に従事している者はこちらへ。お守りを貸し出します」


 誰がどこまでの部屋と遊女を担うか決まったところで、段取りの進行役とは別の働き手が手を上げる。まばらにそちらへ集まる働き手たちに混じり、小鷺も動き出そうとして、止まった。


「芳さん?」


 何故か芳親が、入り口の方をじっと見ている。表情は窺えないが、雰囲気には張り詰めているように感じられる。


「どうしたンですか、芳さん。お守りを」


 借りないと。言いながら踏み出して、それ以上動けなくなった。

 え、と声も出せず、小鷺はがくりと膝をつく。ずしりと重みを増した空気が、そこに混じる威圧と畏怖が、こちらに膝を折らせる。周囲を見渡せば、他の働き手たちも同様に、引きつった顔で膝をついていた。


 何か――来る。強大な何か、底知れぬ何か。抗おうという気概すら起こさせない、何か。


 どうして立っていられる? どうしてこんなものを真正面から受け止められる? 信じられないと小鷺が見つめる先、芳親は背筋を伸ばして、気配が来る方を見つめている。

 不意に、芳親の近くで白銀の影が咲いた。白雨だ。彼女もまた険しい顔で、入り口の方を睨んでいる。


「何でありんす、これは。何が起こってやす」


 唯一立っている芳親すら目に入らない様子で、白雨は唸る。まさに威嚇する狐の顔で。自分より強大な相手を前にしても、縄張りに入ることは許さない獣の顔で。

 果たして、気配の持ち主は足音から先に現れた。かん、こん、かん、こん。重苦しい空間に、軽やかな下駄の音が転がり込む。やがて人影が浮かび上がり、楼閣に満ちる灯りが、姿かたちを明らかにした。

 あったのは、鬼の姿。外跳ねが酷く蓬髪ほうはつとすら呼べそうな銀髪に、かんむりの如く生えた数多の角。緑が混じる昏い色合いの、古風異国風が入り混じる装束。その中に帯紐の毒々しい赤と、梵天の純白が映えている。血の気を感じられない白磁の肌が作る顔には、黒と白が逆になった双眸が嵌まっている。

 現れた鬼が、何者か。分かっている者も、分かっていない者もいた。しかし、この場と皆の自由を一瞬で足元に置き、悠然と君臨する姿から即座に理解できることが一つ。――これの前では、自分たちは路傍の石でしかない。


「……きぃ、ひ、ははは。よもや、狐以外に立っているものがいようとは」


 軋むような笑い声を零すのは、のこぎりの歯が並ぶ口。おぞましいほどの長爪を備えた手が、すっと芳親を指した。


「そこの。面を取れ」


 有無を言わせない声音に、小鷺の方が背筋に氷を詰められた気分を味わう。おそらくこの場の皆が味わっているだろうが、小鷺のそれは他より上回っていた。

 ここには白雨がいる。白雨は見目の良いもの、珍しい部位を備えたものに狙いを定める。だからこそ芳親は顔を隠しているのだ。彼の目が珍しい色をしていると知られれば、今後の調査に支障が出るかもしれない。

 小鷺はすがるような視線を送ったが。芳親は何の躊躇もなく面を取った。鬼が示して初めて芳親を認知しただろう白雨の目にも、彼の目は見られていた。


「ほう、ほう。くぅ、ふ、ふふふ。星永の次は常世帰りの小童と来たか。ならば立っておるのも納得よの」


 瞬きの間に、鬼は芳親の目と鼻の先に現れる。爪を引っ込めた手がするり、芳親の顔を上へと滑って、前髪を持ち上げた。


「ああ、なるほど。さらしていては不便であろうな。しかし……その様子では、なれは現世で生きること自体、苦行であろう。体を慣らすことも、人を真似て会話をすることも、何十年と月日を要するはず。常世と現世は違いすぎるからな。なれは馴染みが早めのようだが」


 しげしげと芳親を眺めながら、幼子のように鬼は言う。面を取った芳親は、無表情でそれと対峙している。


「ん? ……きぃ、ひ、ははは、ははははは! 何だ、そういうことか! はははは、星永の晴成もそうだが、なれも女にくれてやったか! !」


 そう、けたたましく笑う声を聞くまでは。

 ぴくり、と眉が動き、わずかな歪みが表れる。それが至近距離にいた鬼に分からないはずもなく、「何だ、気に障ったか?」と首を傾げていた。


「ああ、ああ。晴成は大馬鹿な星だったが。なれは人真似をする人形だな。きぃ、ひ、ははは。なれのことは知っておるぞ、利毒の小童がここで遊ぶらしいからの」


 芳親から視線を外し、鬼はやっと、楼閣の主を視界に入れた。


「狐、そう敵意を向けるな。たぎって殺したくなる。われは雷雅の若造から、この遊び場について聞かされた故、どういうものかと見に来ただけのこと」

「……では、何故そうも神威しんいを放っておられる。音に聞く天狗の祖、慧嶽けいがくの名を与えられた荒御魂あらみたまよ」


 花魁の言葉を忘れ、時を重ねてきた古き妖の姿で、白雨は鬼と向かい合う。冷厳とたたずむ妖狐にも、鬼は愉快そうに笑っている。


「きぃ、ひ、ははは。無礼な獣だの。だが、それでこその獣よ。われはわれに立ち向かう命が好きでたまらぬ。この威圧もそれ故だ。この力に潰されてもなお、われを睨むものがあれば、胸が躍る。うっかり殺したくなるくらいに」


 ざわり、鬼の肌が赤く染まる。手先足先は黒く変わる。が、それは驚くほど素早く引いて、不気味なほどの白肌に戻った。


「ま、無礼はこちらも、だ。これではなれの庭が上手く動かぬ。見ても意味があるまい。故に日を改めて再訪しよう。その時われをもてなしてみせよ。良きもてなしがあれば、雷雅の若造にも伝えてやろうぞ」


 白雨が分かりやすく、厳かな表情が崩すのを見て、慧嶽は嘲るような笑みを浮かべた。が、その顔は芳親の方へ再び向いた瞬間、子どものような無邪気を宿す。


「なれは案内役を務めよ。そもそも、われを前に平静を保てる者など、なれか狐くらいしかおるまい。狐は身支度があろう、故になれが務めよ。ああ、名もいま教えよ。名字は構わぬ」

「芳親」


 即答に、またも鬼は笑みを深めた。が、「一つ、言わせて」と。芳親が言葉を続けた途端、きょとんと呆気にとられた顔を見せる。


「晴成、は。……僕の、友人は。馬鹿じゃ、ない。……嘲らないで」


 ぱちぱち、黒白さかさまの目が瞬いた。直後、けたたましい笑い声が、吹き抜けの空間に響き渡る。慧嶽は腹を抱え、体を折って大笑していた。


「けははははは! きぃ、ひ、ははははは! ああ、ああ、あれのことを嘲笑ってはおらぬよ。むしろ気に入っている。あれは気持ちのいい者だ、人でもあやかしでも、あの星を好ましいと思うだろうよ」

「なら、良い」


 ふふん、とでも言いそうな声で言う芳親を、慧嶽以外の全員が信じられない面持ちで見ていた。相手は途方もない力の持ち主だというのに、神に近いくらいの存在なのに。畏怖というものが無いのかと。命知らずなのかと。


「かぁ、ひ、ははは。いやはや腹が痛いわ。最後にとんだ土産みやげを寄越してくれたものよ。ではな、狐に芳親。二日後にまた来る」


 一方的に告げて、慧嶽は音もなく姿を消した。同時に、圧し掛かるような空気が消え、働き手たちも自由になる。けれど、誰もすぐには動けなかった。放心したまま、その場に座り込んでいた。

 ある者はただ呆け、ある者は慧嶽の恐ろしさを思い出して震え、ある者は壊れたように引きつった笑いを零す中。仕事を放棄した頭の回復を待つ小鷺の傍に、芳親がしゃがみ込む。


「小鷺、大丈夫?」


 面を付け直すことも無く、平然と訊いてくる顔に、小鷺は何も言えなかった。何とか笑ってみせるしか、なかった。

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