狐の箱庭
妖鳥たちが住み込んでいるのはもう片方、湯楼裏方たちの住居楼とのことだった。
「
「でも、演奏や舞を担う方々は、減ったら困るからって手厚く保護されているンです。お客が触れるのも禁じられてますし。そこはまあ、身内を盗られた身としては、ひとまず安心できる要素でしたね」
住居楼から湯楼に伸びる渡り廊下に、抑えた声が落ちていく。妖鳥たちが先行し、布面を被った芳親と紀定が続いていた。
現世の時間に合わせて開業するという、幽世および妖怪経営にしては珍しい体制の忘花楼は、昼過ぎの今は休憩中。しかし防犯のため、照明の提灯や灯篭には火が入っている。楼閣も渡り廊下も静まり返り、物音を立てているのは移動する四人と、警備や庭を整えるのが仕事な妖怪たちだけだ。
「ではまず、わしらの職場である湯楼をご案内いたしやす」
渡り廊下の終点、湯楼の入り口に辿り着くと、
「わしらの仕事は主に雑用でさァ。お客様が入る前に、あそこの道具置き場から各自道具を持ち出して掃除。お客様が入りやしたら、各自の持ち場に就くんですが、わしらはお手伝いが必要な場所に呼んでもらって手助けをしたり、別楼への連絡やお使いをしたり……とにかく走り回りやす」
「あと、基本は二人一組で動くように言われますンで、なるべくおれたちか、お互いと一緒に行動してください。業務外でも、誰かと一緒にいた方が良いですね。もう片方ほどではないですけど、やっぱり揉め事とかは起きるンで」
説明を受けつつ準備室から出、まず向かったのは玄関と大広間。中央には四人ほど入れそうな番頭台が鎮座し、
浴場は吹き抜けになっており、四方の壁や遥か上の天井を見れば、見事な天上界の絵図が見える。天候が悪くなければ開く絡繰り天井でもあり、幽世の巨大な月を望む露天風呂を楽しめるのだとか。
暖簾をくぐった先には通路が伸び、大勢が入れる風呂釜や、仕切られて個室のようになっている風呂場などが、四つとも同じように設けられている。風呂場は湯の効能で分けられ、通路や風呂釜の色合い、微かに漂う匂いが違っていた。
一階の浴場を見た後は、玄関から見て右手から続く階段を上り、上階の座敷へ向かう。一階と二階の間には一層分の差があり、二階から上の階層へ向かう階段よりも多い段数を上らなければならなかったが、客は上昇箱のような絡繰りを使ったり、自力で壁を登り短縮したりするという。
「座敷は涼んで休憩するための場所でさァ。この通り庭や別の楼閣、もっと高い所では、
廊下はどの階でも庭にせり出しており、座敷に向かうとなると、必然的に外気に触れるようになっていた。二階はまだ庭が近く、花や草木の香りがふんわり漂っている。
座敷はほとんど机と座布団くらいしか置かれていなかったが、その分自由に過ごせるようにもなっている。二階は大衆が自由に休むのだろう広大な座敷、三階と四階は人数ごとの個室が設けられており、五階は料亭や旅館を思わせる、立派な座敷が続く階となっていた。
「それでは二階へ戻りやして、渡り廊下で戯楼へ向かいやす。一階からも渡り廊下を使って、花楼へ行くことができやすよ」
「三棟の楼閣は、すべて繋がっているのですか」
「へえ。ちょうど三角になるよう建っておりやすので。ああ、そうそう。この三角で囲われた中庭は――今も見えてる庭でさァ――横切っちゃァなんねェって決まりがありやすんで、どうか気をつけなさって」
「……じゃあ、一気に、短縮、とか……できない、ね」
「そうなンですよ。でもまあ広いし、珍しい植物も植わってるしで、一番手入れが大変な庭らしいンで、仕方ないってみんな言ってます。それ以前に、上からじゃあ姿が丸見えになっちまいますから、裏方が通るわけにいかないンですよ」
布の下で不満そうに眉を寄せた芳親に、小鷺が諦めの苦笑を浮かべながら言った。
注意も済んだところで、四人は戯楼へと歩いていく。住居楼から続いていた廊下よりも幅が広く、行き来する者同士ですれ違えるほどで、装飾や彩色もなされている。
終点は変わらず両開きの扉で、一面に百合に似た細長い花が彫られ咲いていた。渡り廊下に出る扉だけは、どの楼閣も同じ意匠をしているのだという。
「戯楼はあんまり、お手伝いやお使いに行くことはありやせんねェ。大抵皆さま、遊んだ後に湯楼へお越しになりやすから」
言いながら、今度は小鷺が扉を開ける。四人はそのまま、客を招く広間に踏み入った。
入ったのは二階だが、一階から三階までは吹き抜けとなっており、一階中央を見下ろすと大きな舞台がある。周囲に見受けられる太い柱には、勇壮な獣たちが様々に描かれており、気圧されるような雰囲気が満ちていた。
「ご覧の通り、戯楼の一階から三階は闘技場。四階から七階までは、それぞれ遊戯ごとの階に分かれているんですが……休憩中でも遊んでる奴に出くわすかもしれねぇんで、このまま花楼に行きやす」
「それは……見逃されるのですか」
疑惑の他に、不真面目への嫌悪も混ざった声色で、完全に質問役となった紀定が問いかける。五井鷺は頭を掻きながら首肯した。
「忘花楼内の者は、外出を禁じられておりやすから。さすがにそれじゃ辛かろうと、休憩中でも戯楼は解放されているんでさァ。とはいえ、ガラの悪い連中の溜まり場になってる時もあるんで、なるべく近寄らねぇ方が身のためですよ」
「何度か、情報収集のためにも忍び込んでみたンですけど、おれたちじゃあ十分に引き出せなくて。中には腕っぷしが強い奴とかもいますから、強く出ることもできなかったンです。手出し無用の決まりがあるとはいえ、巡り巡って飴鷺姐さんに危険が及ぶかもっていうのもありましたし」
進みながら語る妖鳥たちの顔には、雲が掛かっていた。悔しいのはもちろん、怯えも混じった雲が。けれどそれを「分かりました」と、紀定の迷いなき声が晴らす。
「そういった場面での情報収集は、我々の方が慣れております。そうでしょう、芳親殿」
「うん。……紀定、お話、交渉、得意。……僕も、やれる」
面の下で、不敵な笑みを浮かべていると分かる声。聞いた妖鳥たちは一瞬顔を見合わせると、同じく笑みを浮かべて頷いた。
「では、また後日、ご案内させていただきやしょう。もし捕まっちまったら長いですから、今日は全体の案内を優先させてくだせェ」
申し出に異論は唱えられず、四人は戯楼を後にし、花楼へと歩いていく。先と同じく幅広だが、装飾や彩色は違う渡り廊下を伝って。
湯楼と戯楼を繋ぐ廊下は、
終点の扉一面には、変わらず百合に似た細長い花が刻まれている。開くと、かすかながら振り向かずにはいられないような花の香りが、鼻腔をくすぐり消えていった。
「ここが花楼でございやす。残り香でお察しになられるでしょうが、開店すればもっと濃く香が焚かれやして、そのまま酔ってしまわれる方もちらほらと。『下手な酒より酔わせる
「花楼の裏方が最初にやる仕事は、耐性をつけることって言われるくらいですし、他の楼から用事で来た裏方には、酔わないようにお守りが貸し出されるンですよ。なのでもし、花楼に来るってなったら、必ずお守りを貸し出してもらってください」
変わらず鷺達の解説をお供に、四人は入った二階の通路から階段へ向かい、一階へ下って行った。
花楼は九階建てで最も大きく、一階と二階が吹き抜けとなっており、床は敷物で赤一色に染め抜かれている。二階廊下の欄干や、降りてきた階段の手すりには満遍なく透かし彫りが施されているが、派手過ぎず
一階はかなり広い造りとなっており、二階から見下ろせていたのはほんの一角だった。今は誰もおらず、外が見えるだろう面も閉じられているが、模様を描く朱色の格子が
「ここは他の楼閣より明るいのですね」
ぐるりと周囲を見回して、紀定が指摘したのは照明の灯り。光源は専門職の妖怪が提供、維持しているというが、花楼の明るさは今まで通って来たどこよりも明るいようだった。
「それは主さん、ここは気をつけなきゃいけねぇことが、とうさんあるもの」
五井鷺の声を待っていた耳に入って来たのは、艶めいた女の声。それもすぐ傍から
「ふふふ。驚かせちゃいんした? ごめんなんしね」
ぞわぞわと背筋を撫でるような美声の主は、紀定と芳親の間に突如現れていた。赤の房が混じった
「ここが明るいのはね。外から悪い方が入ってくるかもしれねえし、内から逃げ出すこがいるかもしれねえから。……ま、内から逃げようとする子は、腹の中に収めちまいますけど」
にこり、紀定に微笑むのは、
紀定はもちろん、芳親も警戒を高めていたが、同時に高揚も抑えていた。気配を消していたことからも窺えるが、この女怪は強い。志乃がいたなら、女怪の強さも血潮の騒ぎも、分かってくれたに違いない。
――けれど、何か。
「これは、
疑問を抱きかけた芳親の意識は、女から五井鷺の方へ持っていかれた。
硬くなった空気の中、五井鷺が挨拶とともに一礼し、小鷺も深く頭を下げた。紀定と芳親も、内心とは裏腹にすぐ
「いいえ。こちらこそお邪魔しんした。新顔の案内、ご苦労さま」
対して、白雨と呼ばれた狐顔の女は。軽やかな笑みと声を返したのち、現れた時と同じく唐突に、気配も姿も消して去って行った。
「……今のは」
「花楼の女主人、
重々しい口調が、紀定の問いを覆い隠す。五井鷺は語りながら手も動かしていた。――詳細は外で、と。
「……道理で、ただならぬ気配がしたはずです。代わりに謝罪をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえいえ。それじゃあ、花楼で案内できる場所も回ってしまいやしたし、住居楼までゆっくり戻りやしょう」
話を合わせた紀定に、五井鷺はかろうじて分かるお辞儀を返した。
四人は何事も無かったかのように、最後の渡り廊下を通って湯楼に戻り、住居楼へと戻る。妖鳥たちが口を開いたのは、また一部屋に四人集まってからだった。
「耳も尻尾も隠していやしたが。あれこそ、
行灯に火を点けながら、五井鷺が用心深い小声で切り出す。「道理で、ただならぬ気配がしたはずです」と、紀定は花楼でも言ったことを繰り返す。
「白雨にも驚きましたけど、お二人の動きにも驚きましたよ、おれは。やっぱり有事の際には動けるよう、体が覚えてるンですね」
「それが我々の役目ですから。ところで、なぜ白雨は姿を現したのでしょう。単に、我々の気配が覚えのないもので、見に来ただけだったのでしょうか」
「おそらくは。白雨は自ら見回りをやっているんですよ。花楼は自分の縄張りで、花楼の中にあるものは全て自分の物だと思ってっから、欠けることが許せねェと」
「腹の中に収めるってのも、脅しじゃないンですよ」
五井鷺と同じく、表情を険しくした小鷺が口を開く。が、彼の顔には一抹の怯えも混ざっていた。
「花楼でも、現世の遊郭みたいに逃げ出す遊女だとか、裏方とかがいたンですが、みんな白雨に食われてしまったって。他にも、美しい顔をしていたり、珍しい髪や目の色を持っていたりする方を食うらしくて。紀さんは綺麗な顔立ちだし、芳さんは目が珍しい色をしてますから、どうか気を付けてください」
顔を色濃い心配で塗り潰す小鷺に、謙遜を返そうとした紀定だったが、小さな気づきが押し留める。隣がずっと黙り込んでいるという気付きが。見てみれば、芳親は
「芳親殿、気になることでもあったのですか」
「……うーん……白雨に、何か……、変な、所、あった……かも、しれない、けど……よく、分からなかっ、た」
難しそうに寄せられていた眉が、困った八の字に変わる。すっきりしない顔の芳親だったが、紀定が「気に留めておきましょう」と言えば、満足そうに何度も頷いた。
「直感ってェのは、馬鹿にできやせんからね。わしらも注意いたしやしょう。……改めやして、紀さん、芳さん。小鷺共々、しばらくの間お世話になりやす」
「こちらこそ。改めて、よろしくお願いいたします」
互いにお辞儀をし合い、入り組んだ協力関係に名を連ねる新たな四人――否、最後に埋まった一かけら。
舞台は整い、役者も揃ったと。住居楼へ戻る四人を見送り、自らも巣に戻った鬼が胸を高鳴らせていたことを、四人は知る由もない。
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