忘花楼

 待望で染め抜かれた声が、志乃ののどを干上がらせる。張り付いてしまった言葉を剥がす間もなく、「おいで」と次の声がした。


「……ぇ、あ……」

「なあに? 遠くて聞こえないよぉ。ほら、おいで」


 箏をどかして、雷雅は無邪気に両腕を広げる。一拍置いて、志乃は固まった足を引き剥がすように踏み出したが、それ以上進めない。


「あ、と……すみ、ません。動かなく、て……ぅわっ!?」


 どうしよう、という一言に埋め尽くされた頭に、暗くなった視界と伽羅きゃらの香りが蓋をする。ふんわりとした感触と、布と髪が流れる音が、離れっぱなしだった心身をくっ付けて包み込む。


「ふふ、強張こわばってるねぇ。だぁいじょうぶ。志乃はとっても可愛いけどー、可愛さ余ってかじりついちゃう、なぁんてことしないよぉ」


 上から降ってくる声と、背に回されていた手が撫でてくる感覚が、張り詰めていた体内の糸を緩めていく。夜蝶街の面々に触れられるのと似ていて、けれど同じではないそれを、言い表せるような言葉が浮かばない。

 見上げると、再び黄金こがねの双眸と視線がぶつかった。ただでさえ緩んでいた雷雅の顔が、ますます緩んでいくのが目に見えて分かる。志乃の頭は鈍っていたが、細くなる雷雅の目は、半月が繊月せんげつになっていくのと似ていると考えてもいた。


「んー、目の色は俺と違うんだねぇ。でも、角はおんなじだしー、顔立ちも俺に似てるー」


 白磁はくじめいた細長い手指が、志乃の顔や髪を撫でさすっていく。簡単な言葉一つも出せず、どうしたものか困り切る志乃の耳に、「そこまでにしてやれ」と別の声が聞こえた。沢綿島さわたじまで戻った記憶にもあった声が。

 声の主は志乃から見て右手、壁に背を預けて座り込んでいた。長髪に耽美な顔立ちの雷雅とは正反対の、短髪に端厳とした顔立ち。大柄な体を行脚僧あんぎゃそうの装いで包み、額には一本の角をいただいている。


風晶ふうしょう、さん」

「ほう、私の名を憶えていたのか。意外だったな」


 ぽろりと名を零した志乃に対する声もまた、雷雅とは正反対の音色。揺らぐことのない、強さを秘めた低音をしていた。


「そぉ、風晶。俺の大事な友人だよー。ねぇ、志乃。俺の名前も呼んでー?」

「名など後でいくらでも呼べるだろう。今はとにかく説明をしてやるべきだ。いきなり一人になったのだから」

「あー、そうだねぇ。ごめんねぇ、志乃。俺の所に来てほしかったからー、君だけ離れるよう、ちょっとした術を仕掛けておいたんだぁ。直武たちのことはねぇ、忘花楼ぼうかろうに直接送ったんだよぉ」

「えっ!?」


 幽世に入ってから初めて大声を出してしまい、志乃は思わず口を押えたが、即座に外へ出ようと考えた。開け放たれていた窓へ駆け寄ろうとするが、雷雅に腹を抱え込まれて止められてしまう。次いで、「心配いらないよぉ」と雷雅の声が落とされた。


「利毒は直武たちに危害を加えられないんだぁ。そういう約束をしたからねぇ。この辺りの約束とかー、俺たちがどういう目的でー、どういう立場にいるのかってこと、これから説明してあげるー」


 雷雅は上座に戻らずその場に座り、巻き込んで座らせた志乃を胡坐あぐらの上に乗せる。撫で回すのは控えても、離れる気は毛頭ないらしい。志乃は抵抗するか、いや失礼かと戸惑ったことも災いして、完全に捕まってしまっていた。


「いやはや、溺愛なさっておられるのですねぇ、雷雅様」

「やっと会えたからねぇ。青鷺も座りなよー」

「ではこちら、拝借いたします」


 にこにこと一連の出来事を眺めていた青鷺も、脇に避けられていた座布団を引っ張って来て、雷雅の正面に座る。彼だけが座布団を用いているせいで、厚かましい客のような構図が出来上がってしまっていた。その後ろには雷吼丸が控えているものの、気配を消している。


「さぁて、それじゃあ、何から話そうかなぁ。ここはやっぱり目的かなぁ。たぶんだけどー、志乃も直武たちもー、俺の目的までは知らないでしょー?」

「は、い。協力してくださる、ということ、しか」


 横抱きにされたまま、志乃は雷雅を見上げる。この姿勢は良くないという気持ちはあれども、今はとにかく説明を聞くべきと判断して、大人しくすることにした。……半分くらいは諦めていたからでもあったが。


「俺はねぇ、利毒の研究と、成果に興味があるんだぁ。そもそも、俺は利毒にも協力してるんだけどー、利毒の研究が実っちゃうと、広大で甚大な被害が出ちゃうんだよねー。裏舟吉うらふなよしは確実に、とんでもないことになっちゃうような。あ、これ、青鷺との協力を結んだ理由でもあるよぉ」


 気にせず語り始めた雷雅に、青鷺がうんうんと大真面目な顔で頷く。


「で、さすがにそんな大きい被害が出ちゃうとー、色護衆しきごしゅうが阻止しに来ちゃうしー、後のことが色々面倒なんだぁ。そしたら、研究自体を止めないといけなくなっちゃうしー、興味があって協力してた俺としてもー、成果が見られなくなって困っちゃうんだよぉ」


 青鷺ほど大仰ではなく、笑みを保ったままではあるが、雷雅も表情豊かに語っていく。けれど、じっと志乃を見る目の奥には、底知れない何かがひそんでいるようだった。


「そこで、あらかじめ被害を予測してー、色護衆に監視と、被害を防ぐために協力しようって話を持ち掛けてたんだぁ。志乃たちが沢綿島にいた辺りからねぇ」

「そんなに前から、ですか」

「うん。でも、利毒の研究自体は、ずうっと前に始まってたんだよー。いたちの件で、被害が表にも出てきちゃったんだー。後で話すけどー、あれは必要なことだったからねぇ」


 何気ない様子で、どうでもよさそうに話す雷雅に、志乃は知らず拳を握りしめていた。ところが、気づくと力が抜けていく。

 どうして握っていたのだろうと、志乃は内心で首を傾げたのち、自嘲した。まさか、利毒を赦せないとでも思ったのだろうか。自分だって、平気な顔で誰かを傷つけてきたくせに。


「ふふふ。なに考えてたのー、志乃」

「へっ!? あ、いえ。お気になさらず」

「えー。まあ、言いたくないならいいやぁ。何より、説明の途中だもんねぇ」


 するり、結い上げられた志乃の髪をもてあそんで、雷雅は楽しそうに微笑んだ。


「利毒は研究がしたくてー、俺は成果を見たくてー。だけど人間に迷惑が掛かるから、色護衆に阻止されちゃうだろうなーってなってー。このままじゃぁみんな困っちゃう、って状態だったんだよぉ。だからー、みんなにとって良い結果になれるよう妥協してー、結果的に暗黙の了解だらけな協力関係ができたんだー」

「暗黙の了解、ですか」

「そ。利害が一致してるだけだからー、裏舟吉がめちゃくちゃにならない以外は好きにやり合おうねーっていう了解。とにかく、裏舟吉が無事ならいいんだよー」

「正確には、被害は忘花楼敷地内に留まるようにする、というのが目的ですがね」


 すかさず青鷺が訂正する。関わっている人間と妖怪の中で、青柳座の妖鳥たちにとっては、それが絶対に譲れないことなのだろう。


「ここまではいーい? 志乃」

「はい。各自の目的の中で、裏舟吉を守ることが共通しているが故に、その一点では協力しようということになった、ということで合っていますでしょうか」

「そうそう。よく理解できてるねぇ、偉いよー。緊張も解けてきたみたいだねぇ」


 嬉しくてたまらないといった笑顔と声で、雷雅が志乃の頭を撫でさすった。

 指摘された通り、いくらか緊張も和らいできた志乃は、心地よさに目を細めて思い出す。夜蝶街で自らを育ててくれた人たちからも、頭を撫でて貰った感覚を。途端、先程まで緊張していたことも馬鹿馬鹿しくなってしまった。難しく考えすぎていたのだと。


「じゃあ次はー、利毒の目的とかー、研究のことを話そっかぁ」


 撫でる手を止めつつ、けれど志乃の頭からは離れず、するすると髪に手櫛を通しながら。雷雅は語りを再開した。




 ――同時刻。


「雷雅様の目的と協力関係、ご理解いただけましたかね」


 芳親と紀定もまた、同様の説明を受けていた。先に忘花楼へ潜入していた、青柳座の一員たる妖鳥二名から。

 四人がいるのは忘花楼の裏方を担う者たちが住まう、小さな楼閣のうち一つ。妖鳥二名にあてがわれた部屋である。二人部屋ゆえに、四人で一つの行灯あんどんを囲って座ると、だいぶ手狭になっていた。


「ええ。とにかく各陣営は、裏舟吉に被害がもたらされないよう尽力するということですね」

「へえ。それでは次に、利毒の研究について、わしらが分かっている範囲じゃありやすが、説明させていただきやす」


 説明を担う猫背な青年が続ける。撫でつけた濃藍の髪に、赤い瞳を持つ彼は、青柳亭あおやぎてい五井鷺ごいさぎと名乗っていた。


「利毒の研究は、数多の呪詛を一か所に集め、より強大な呪を形成し、武器としての使用を試みるものだそうで。そのために、この忘花楼を造り上げて、色んな恨み辛みだとかを集めてるらしいんでさァ。それだけでもおっかねェですが、どこに集めているかは分からねェのもおっかねェ」

「……でも、忍び込んだんだ、ね。……忘花楼、に、入ったら……出られなく、なる、のに」


 黙って聞いていた芳親が、五井鷺とその隣に座るもう一人を見つめて問いかけた。

 突如、忘花楼の小さな楼閣へ送られていた二人が最初に聞かされた説明は、ここから出られないということ。二人は労働力としてここへやって来たことにされており、故に「忘花楼の裏方は外出禁止」という決まりが適用され、閉じ込められてしまっていた。

 何も分からないまま連れてこられた、というか飛ばされた二人とは違い、妖鳥たちは自らここにいる。「当然ですよ」と先に答えたのは、五井鷺より小柄な影の持ち主、小鷺こさぎという名の少年だった。


「おれたちは身内を……飴鷺あまさぎ姐さんを盗られてンですから。姐さんに何かあっちゃあ、たまりません」


 生成色きなりいろの髪と目をした少年は、利発そうな顔をキリリと引き締め、背筋を伸ばして言い切った。「こいつの言う通りで」と、あまり上手くない笑顔を浮かべた五井鷺も口を開く。


「わしらはみんな、一人っきりで過ごしてやしたが、青鷺の旦那に居場所を貰って家族になりやした。看板芸妓を奪われたとか、何をされるか分からねェってのもありやすが、それ以前に家族を奪われちゃあ、黙っていられねェってわけです」

「そう」


 芳親の返答は短いが、声色と微笑んだ顔には、満足の色が表れている。薄暗い中でも、妖鳥たちには伝わったようで、ほんの少し空気が和らいでいた。


「……僕たち、も……師匠の、こと、早く見つけなきゃ、ね」

「もちろんですとも」


 笑んだまま言う芳親に、紀定は険しい顔で頷き返した。

 志乃とはぐれた芳親と紀定は、直武とも離れ離れになっていた。前者は雷雅の元にいて、無事も伝えられているが、後者は妖鳥たちも見つけられていない。

「や、申し訳ねェ」と、鷺たちは顔を曇らせた。


「少しは探しモンが得意になったかと思いやしたが……現世にいる連中からも、直武様は残っておられない、確実に幽世へお入りになったと聞きやしたんで、忘花楼にいると思うんですがねェ」

「いえ、お気になさらず。元々、我々も長期滞在を命じられておりましたから、探す期間も十分にあります。お互い、取り戻せるように努めましょう」

「へえ、お互いに。で、その長期滞在任務なんですがね」


 五井鷺に合わせて、小鷺が脇に畳んでいた着物を二人に差し出す。妖鳥たちが着ているものと同じ、洒落柿色しゃれがきいろ作務衣さむえを。


「わしらと一緒に働いていただくということで。仲良くやりやしょうや」

「ええ。こちらこそ」


 すまし顔で答えた紀定だが、じろりと隣に視線を向ける。その先では芳親が、好奇に満ちた顔で作務衣を見つめていた。


「芳親殿。裏方の仕事、ちゃんとできますね?」

「うん、できる」


 わくわくが抑えきれない顔で即答され、紀定は眉間にしわを寄せる。仕事はこなすだろうが、絶対何か問題を起こすに違いないと。当の芳親は危惧されていることなど知らず、すぐ作務衣に向き直り、手に取って広げていた。


「大丈夫ですよ、紀定さん。おれでもちゃンと働けてますし、ご指導できると思います」

「へえ。忘花楼は広い分、裏方もたくさんいますんで。ですが、お二人はちぃと工夫しねぇとですねェ。紀さんは人間ですし、芳さんは目が特別なようですし。何より、妓楼の女主人に目をつけられちゃあ、ひとたまりもありやせん」

「女主人?」


 既に着替え始めている芳親を尻目に、まだ作務衣を手に取ったばかりの紀定が訊き返す。五井鷺も小鷺も、再び表情が翳っていた。


「詳しくは案内の時にお話ししようと思ってたんですがね。忘花楼の妓楼は、利毒の協力者である女怪……女狐が支配しているんでさァ。自分が欲しいものだとか、美しさを保つのに必要なものは手段を問わず強奪する、極悪非道で仲間からも疎まれた妖狐が。今まで封印されてたのを、利毒が連れて来やがったんです」

「ああ、はい。その妖狐にまつわる逸話と事情は存じています。色護衆内でも、要警戒対象だと」

「……僕、そんな話、知らない」


 着替え終えて座り直した芳親が首を傾げる。どうして教えてくれなかったんだ、とでも言いたげな顔に、紀定は呆れと苛立ちの視線を向けた。


留井原とめいはら郡での道中、直武様がお話ししてくださったでしょう。兼久隊が戸地下とちしもへ向かうよう命じられた理由として」

「……そうだっけ」

「そうです。宿場町での食事しか憶えていないのですか、貴方は」

「うん」


 正直に頷いた芳親だったが、にっこり微笑まれた瞬間、自らの過ちを察した。弁解の余地を求める間も与えられず、ゴンッと鈍い音で黙らされる。


「……痛い……」

「しばらく反省していなさい」

「ははは、仲が良いんですねェ。どれ、わしらも準備しねェとな。小鷺、手伝ってくれ」

「はいよ」


 着替える紀定と、頭を押さえてうずくまる芳親に背を向けて、五井鷺は文机ふづくえを引っ張り出す。小鷺はすずりと筆、そして布を取り出して、机上に並べていた。


「あ……五井鷺、ちょっと」

「へえ、どういたしやした?」


 片手は頭に乗せたまま、何事も無かったような顔をして、芳親が机上を覗き込む。


「面布、作るんだ、よね?」

「そのつもりですが。ああ、たすきでも一応できやすよ。わしらがしてるやつがそうです」


 確かに、五井鷺も小鷺も、揃いの襷を着けている。前者は後ろ髪に適当に括り付け、後者は鉢巻きのようにして額に巻いている、という違いがあったが。


「ううん。面布のが、いい。……描いて、もらわないと……駄目な、模様、ある」

「やや、そりゃあ失礼いたしやした。けど、それでしたら、芳さんが描いた方がよろしかったりするんでは? わしは身内を守るくらいの術くらいしか使えねェですが……」


 自信がなさそうな声に、芳親は首を横に振る。表情から思考は窺えないが、じっと相手に注ぐ視線には、揺るぎない何かが混じっていた。


「むしろ、そっちのが、良い、し……馴染む」

「へえ、わしにはとんと分かりやせんが……ここは仰る通りにいたしやしょう」


 真面目な顔で頷く五井鷺に礼を言って、芳親は別の布に紋様を描いて渡す。さほど難しいわけでも、珍しくもない紋様だったため、妖鳥たちは首を傾げたが。芳親は反応を面白がっているかのように、にっこりと笑うだけだった。

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