毒牙

 片側から染みる硬く冷たい感触が、体中を巡っていく。酷い気怠けだるさと混ざり合い、重石となって億劫を生み出している。

 じわじわと気力を奪われる感覚を、危機の予兆と察知して、志乃は無理矢理に目を開けた。

 まず見えたのは板張りの床。次いで視線を前方へとすべらせると、岩壁を背に建つ堂らしき場所、点々と置かれた松明たいまつの姿が映る。どうやら屋外の舞台らしいが、体の自由が利かない上に、頭が朦朧もうろうとしているため、情報を上手く集められない。

 それ以上の行動はできず、ぼうっとしていると、堂らしき場所から人影が現れた。しゅるしゅると衣擦きぬずれを率いて歩み寄ってくる。


「お目覚めですか、花居志乃殿」


 人影が目の前で止まったかと思えば、男のようにも、女のようにも聞こえる声が落ちてきた。けれど、視界に映るのはすその長いはかまのみ。相手の顔は、重い頭の位置を変えて見上げることとなった。

 夜空と共に見えたのは、声と同じく性別が判じられない風貌の持ち主。妖艶な美人と評するに相応しい顔立ちだが、濃紫の髪と女物の小袖が覆う側頭そくとうから生えている角は、いびつじ曲がっている。


「こんにちは。こちらの挨拶で構いませんか? 構いませんね? ンフフ、見下ろしながらの自己紹介、失礼いたします。ワタクシ、利毒と申す者でございます」


 牙が覗く口から、腰の低い言葉が滔々とうとうと流れて落ちてくる。芝居がかっている話し方のせいで、かんに障る雑音と化してしまっているが、志乃はあまり気にならなかった。体が重いのと、他者の態度に左右される性格ではないのとで、苛立ちや不快などは沸き起こってこない。


「アア、志乃殿のお名前は把握しておりますから、名乗っていただかずとも結構です。ぁハハ、ワタクシ、志乃殿とぜひお話したく……ンフフ、失礼」


 口元をしきりに撫で、歯列を覗かせて荒めの息を吐いていた利毒だが、落ち着くためか深呼吸をし始めた。大仰でなく真剣に。どこか恍惚とした光が灯っていた梅紫うめむらさきの瞳も、次第に静まっていく。


「はあ、申し訳ありません。ワタクシ、志乃殿とお会いできるのが楽しみで……本当に、本当に楽しみで。お恥ずかしながら、たかぶりを抑えきれないのです。時折、冷静になる時間を頂くかもしれませんが、ご容赦くださいませ」


 ニタリと笑ってしゃがみ込み、志乃の体を助け起こす利毒。触れ方は丁寧で、不必要な接触はしなかった。……自制しているのかもしれないが。

 一方で志乃は、遠くなった感触や思考と、残る痺れをぼんやりと受け取っていた。もやを詰め込んだような頭は、回るかどうかも危うくなり始めている。


「志乃殿、お声は出せますか?」

「……。な、ん、と、か」


 口の動きを感じ取りづらかったものの、喉はきちんと震えて音を紡いだ。聞き心地の良い声ではなかったが、利毒は「重畳でございますね」と満足げに笑う。


「それにしても、ああ、何と雷雅殿に似ていらっしゃることか。我が根城へ手荒い訪問をなさった時のことを、思い出さずにはいられません」

「……雷雅、さん、を。ご存知、なの、です、か」

「もちろんですとも。そもそも、雷雅殿を存じ上げない妖怪はいないかと思いますし、それは人間も同じかと。何せ千年以上前からいらっしゃる御方ですので」


 にこにこ、楽しげに答えていた利毒は、不意に梅紫の目を鋭く細める。


「人間でも、色護衆しきごしゅうの方々なら知っていることですのに、志乃殿はご存じないのですねぇ。その様子では、もしや、辻川忠彦についてもご存じないのでしょうか?」


 朦朧としていた意識が、突如として鮮明になった。

 冷水を浴びせられたような心地になったどころか、寒気さえ覚えて、志乃は目を見開く。麻痺していながらも分かりやすい動きに、利毒は笑みを深めていく。


「ご存じないのですねぇ、志乃殿。あぁ、ですが当然かもしれません。とても告げられるようなものではありませんでしょう。育ての親が、二人とも人殺しであるなど。しかも、味方だった人間を」


 人殺し。


「――え?」


 中性的な声がなぞった言葉を受け入れるまで、間が空いた。ひとごろし。のろのろと意味が追い付いてくる。人殺し。味方だった人間を殺した。辻川が。育ての親が。味方を殺すなど、どうして。

 頭が疑問で埋まり、視線をさ迷わせつつも茫然ぼうぜんとしていた志乃は、気付かなかった。利毒の笑みがどんどん歪になり、声がどんどん弾んでいくことに。


「辻川忠彦の詳細は知りませんが、人殺しを、味方を殺したというのは確かですよ。色護衆に入る前にも、人間を何十人と殺したことがあると聞きましたねぇ」


 淡白な音色で紡がれた言葉が、さらに揺さぶりをかけてきた。

 どういうことだという狼狽もあれば、虚言かもしれないという疑惑もある。けれど今、志乃を占めているのは呆然で、あれこれと考えることもままならない。

 辻川は味方を殺している。辻川は人間を何十人と殺している。返り血を浴び、血だまりの中に立つ辻川の想像と、記憶の中にある辻川の姿が浮かび、混ざり合い、どちらも志乃に微笑んでくる。

 ――驚くようなことでもあったのか、志乃?


「雷雅殿も人殺しをなさっておりますが、まあ、あの方は元より狂っていらっしゃいますし、執着もほとんどないと仰っておりましたし。興味深い、面白い、大事にしたいと言いながら、結局は壊してしまう方ですからねぇ……アアそういえば志乃殿は雷雅殿の血を飲んだと聞いておりますとなると、その一面が受け継がれているかもしれませんねえ」


 興奮がにじむ早口でまくし立てた後、「失礼」と利毒は再び深呼吸したが、口の端は下がらない。


「人殺しの血を受けているのなら、人殺しに育てられれば。当然、殺しを何とも思わなくなるはず。むしろ楽しみさえ覚えるのでは? ワタクシそこがとてもとても気になっておりまして。だからこそ志乃殿アナタに会いたかったのですお会いしに参ったのです」


 がくり、崩れ落ちるように、利毒は勢いよく志乃の前に手をついた。ギラギラと目を輝かせながら、獲物の顔を覗き込み。深呼吸の甲斐なく荒さを取り戻した息遣いで、獲物にささやく。


「ワタクシが、いたちの死骸で仕立て上げた蜘蛛を破壊すること、討伐の名目で鼬を殺すこと。楽しくてたまらなかったのではないですかぁ?」

「ッ!!」


 途端、志乃は強烈な悪寒に襲われ、鈍くも跳ね起きた。同時に頭突きを繰り出そうとするが、麻痺が残る動きは容易にかわされる。勢いのまま前へ倒れかけた体は、利毒に受け止められた。


「危ないですよォ志乃殿。蜘蛛の糸で縛っておりますから、手もつけない状態ですのに」


 白々しい言葉や芝居がかった動作は、志乃の気に掛からない。それどころではなかった。

 鼻の奥に濃厚な血の臭いが蘇り、脳裏に斬り捨てられていく鼬の姿がちらつく。吐息が荒くなっていくのは愉悦の証左のようで、思い出せば今でも笑ってしまえそうで。振り払おうと頭を振れば振るほど、纏わりついてくるような感覚に襲われる。

 違う、楽しいことではない。違う、笑い事ではない。違う、違う、違う!


『何が違うの?』


 不意に、鈴のような声が転がってきて、志乃は顔を上げた。いつの間にか利毒の姿が無くなり、目の前に小さな少女が立っている。


『ねえ、何が違うの?』


 冷たく志乃を睥睨へいげいする少女の隣に、どこからともなく青年が現れる。二人は同じ赤茶色の髪と瞳を持ち、丸く太い、狸の尻尾を携えていた。

 違う、と。また志乃の胸中で声がする。あの二人がここにいるはずがない。ああ、でも、それなら。いま見えているのは誰だ?


『何も違わないだろう、志乃殿』『何も違わないわ、志乃』


 青年と少女が交互に言う。奇妙な響きが頭を揺らす。疑い考える暇など、与えはしないと。


『だって貴女は笑っていた』『私のことを笑っていた』『鼬のことも笑っていた』『戦うことが楽しくて笑っていた』『殺すことが楽しくて笑っていた』

「違い、ます……ちが、い、ます……」


 必死にのどを震わせて、言葉を吐き出す。気持ちでは叫んでいるのに、出てくるのはかすれて弱々しい声ばかり。


「……史継、さん……史緒、さん」

「はい? ああ、沢綿島の狸の名前ですか」


 はっきりと、すぐそばで聞こえた利毒の声に、志乃は警戒を引き上げる。今度は体当たりをと、声の方向へ動こうとするが、首を掴まれて押し倒された。背中に痛みが走るとともに、再び冷床が体温を奪っていく。


「申し訳ありません、痛かったでしょう。ですがこれ以上、体に苦痛は与えませんのでご安心を。首も絞めません」


 酔いそうなほど濃密な、花の香りを伴った濃紫の長髪が、垂れ衣のように落ちてくる。陰を溶かした梅紫の瞳が、青白い志乃の瞳を覗き込んでいた。


「して、先ほどの史継様、史緒様とは、沢綿島の狸の方でございますか? なるほどなるほど。そのお二人に対して後ろめたいことがあるのでしょうか? もしかしてアナタが殺したとか」

「ち、がい、ます!」


 思わず志乃は叫んでいた。しかし否定するかのように、驚くほど鮮明な想像が浮かぶ。足元に転がった双岩兄妹の死体、こちらを睨み上げる命なき目。あり得ないはずの光景が、焼印となって押し付けられる。


「ですが、ンフフそのご様子ですと後ろめたいことがあるのは確かなのでしょうエェ分かりますとも。何があったのですか? 非はアナタにおありで? 仲違いして絶交などしたのでしょうかァッフフ」

「それ、も、違い、ますッ……史継、さん、は、俺、を……しん、じて、くださ、った……っ」


 言ってから、噛み締める。そう、史継は信じたのだ、自分を。志乃を育ててくれた、夜蝶街の人々と同じように。志乃に道を示してくれた、直武と同じように。

 浮かんだ有り得ざる光景もろとも、毒の鬼を睨みつける。


「だか、ら。俺、は、変わ、ら、なけ、れば……麗部の、旦那、の、元、で」


 期待してくれたひと、信じてくれたひとに応えるために。その信心を、裏切らないために。

 利毒の醜い笑顔が、ふっと消える。表情が抜け落ち、何も無くなった利毒の顔は、しばらく志乃を眺めていたかと思うと。


「――ぁ、ああ」


 ひくり、口の端が動く。小刻みなその動きは、段々と顔や肩へ伝って行き。


「ああ、ぁああ、は。はは……ぁァアアアッハハハハハァッ!!」


 外れた調子の狂笑をとどろかせた。

 喉を掴む手から伝わる震えと、次いで発せられる笑声と。残響がいくつも重なって、激流と渦潮うずしおを生み出していく。志乃を呑み込み翻弄ほんろうせんと、勢いを増していく。


「信じる! 信じる信じた信じて信じられた信じてもらったですってぇ!? ァああッ、はっ、ハハハハハアァァ! ねぇ、志乃殿。ッ、ゥク、クク、アハハァ、志乃殿ぉ! ねぇ――まさか、それでゆるされたとでも? 人の世に馴染めたとでも、思っておいでなのですかァ?」


 ひたり、と。あらゆる混雑をすり抜けた氷刃ひょうじんが、寸分たがわず突き付けられた。利毒の手の代わりに、喉へ。


「ねぇ、志乃殿。どうして赦されていると思ったのですか? どうして人に馴染めたなんて思っておられるのですか? あぁ、ァアア、そんなわけありませんでしょう! 史継殿は信じてくれた赦してくれた。本当に? 表面上はいくらだって信じると! 赦せると! 抜かせるじゃァありませんかぁ!」


 刃は喉から胸へと、切っ先を移していく。やめて、と浮かんだ言葉が、さらに志乃をかき乱した。戦いの場において、一度として浮かんだことのない言葉が溢れてくる。


「内面はどうなのです。重要なのはただそこ一点でございましょう。その他に何があるというのですか証明できるのですか胸を張って宣言できますかァ? 妖雛たるアナタが、人殺しの血を飲み人殺しに育てられたアナタが、人の心をしっかり把握しているなどと! 信じるに値するほど健全などと! アァッハハハァそんな、そんなこと、荒唐無稽こうとうむけいにも程がある!!」


 やめて。利毒の声が追い立ててくる。やめて。どうすれば。やめて。うるさい。やめて。うるさいやめてうるさいやめてやめてやめて――!


「アナタが本当に信じてもらえているか、なんて。赦されているか、なんて。その史継殿とやら以外には、誰一人として分かるものではございません。そして、アナタは信じられるに値する器の持ち主でもなければ、所業を赦されてもいない」


 急に熱を失った声が、冷徹に響く。散々かき乱され、もみくちゃにされた志乃に、平然と追撃を叩きこむ。


「信じるに足る器を持ちえないのは、そして赦されないのは、簡単なことですよォ志乃殿。アナタが、情を解することなどできない化物だから。たったそれだけなのです」


 ずぶり。

 心臓に、氷が刺さり入り込んだ。恐ろしいほど強く激しい鼓動に合わせた脈が、氷片を乗せた血を巡らせて、体を凍らせていく。

 すべて、どこかで考えていたことだった。漠然としていたけれど、感じていたことだった。自分は本当に、他者を思いやれるようになるのか? ここをどうにかしなければ、何のために力をふるい、何を生きていくための道標にするか、探すこともできないというのに。

 睨視に乗せる覇気も失い、志乃はただ、虚空に視線を漂わせていた。胸倉を掴まれ、持ち上げられても抵抗しない。


「いい加減、分かりましょう、志乃殿。アナタはこちら側、ワタクシたちと同じ。殺戮の愉悦と快楽に酔いしれ、命を軽んじる化け物。麗部直武の言葉で変われるほど、アナタの性は浅くない」


 ふ、と微笑したかと思うと、利毒は混乱の末に凍り付いた獲物を抱きしめた。花の香りでふわりと包み込んで。


「ですから、赦されなくてもいい方へ行けばよろしい。ワタクシたちは外道が常。誰からの働きかけも効かぬ外れ者。こちらに堕ちれば、ええ……悩むことなど、何も無いのです」


 耳元で囁かれる言葉は、志乃にとって甘くも苦くもない。だが、振り払う全てをすり抜けて、耳の奥へとこびりつく。

 反応が無いのを見て、利毒は拘束を解いた。志乃の腕はだらりと下がるばかりで、体の支えにならない。代わりに支えてやりながら――彼女の背に張り付く蜘蛛を、そっと撫でた。

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