薄闇の中

 団史郎の屋敷は、相澄あいずみの人々が住んでいる区画からは少し離れた、山麓さんろく付近の高台にある。二人は村へ下ったのち、海の方へ歩いて行った。中規模な村内の、辺鄙へんぴな場所を進んでいるため、すれ違う人間はおろか妖怪もいない。


「夜明けはもうじきだけれど、まだ幽世の住人が残っているかもしれないから、気を付けてね」

「はい。油断大敵、気を抜いている時に悪質な悪戯いたずらを仕掛けられることが、日常では一番実害がありますからねぇ」


 のほほんとした態度を貫いているように見えて、その実彼女に隙は無く、直武も同様である。いかなるものが相手でも、無警戒の時に足元をすくわれれば被害は等しい。


「この島は代々の団史郎が見張っているから、そういうことをする妖怪はいないだろうけど、今は少し事情が違うからね」


 続く言葉は無く、「事情」については触れられなかったが、志乃はしっかり分かっていた。史継と史緒のことだと。

 襲撃されてからずっと、史緒は昏睡こんすい状態におちいっている。医学の心得がある狸からは、目を覚ますにはまだ数日かかり、意識を取り戻しても、体には麻痺が残り続けると診断されていた。騒動以降に彼女と会っていない妖雛二人は、治療に協力していた直武から、このことを聞かされた。

 さらに二人は、史継とも顔を合わせていない。彼が傷心を抱えているということと、察しはすれども共感は出来ない欠点を二人が自覚していること。理由は異なるが、回避という行動は重なったがゆえの結果である。

 互いに避け合う前、志乃は史継から、最後の言葉を贈られていた。


『……すまない、志乃殿。そっちに悪意が無いことは、重々承知しているんだが……どうしても、穏やかじゃいられないんだ』


 無理矢理作った笑顔を浮かべ、震えを抑えた声で、何とか丸く作られて差し出された拒絶の意。傷つく箇所のない空っぽな相手にも、史継は鋭利な言葉を投げ込まなかった。……投げ込もうにも、そうするだけの激情や体力が、残っていなかっただけなのかもしれないが。

 もし、史継が気を遣っていたのなら。そんな必要は無いのにと、志乃は首を傾げてしまう。苛烈かれつ罵倒ばとうや殺意を向けられても、それは投げられて当然のものだし、傷つくこともない。自分は妖雛なのだから。情に満ち溢れた人間や、獣ではないのだから。


「さて、浜に着いたね。……志乃君?」

「え、あぁ、はい」


 いつの間にか、ささやかな家々が点在する道は終わり、前方に松の並木が広がっていた。木々の間から流れ込んできた波の音と潮の香りが、強く五感に叩きつけられる。


「虫に刺されたのかい。が出るには早すぎるけれど」

「へっ?」


 何故そんなことを、と訊こうとして、志乃は片手を首に当てていたことに気付いた。自身に触れていたのに、気付くのがあまりに遅くて、そのことにまた驚く。


「えーっと、その、虫に刺されたわけではないです。夢のことを思い出しまして」

「夢?」

「はい。久々に見ましたが、その夢を見ると早起きしてしまうのです。殺されかけるので」

「なるほど、そういうことか」


 先に直武が並木を通り抜け、浜に足を踏み入れる。合点がいったような返しは直武らしくなく、志乃が不思議そうな顔をしつつも続くと、彼は浜の中腹で足を止めて振り返った。


「私も見るよ、殺されかける夢は」


 穏やかな声音で紡がれた返答に、少女の目が見開かれる。直武は薄闇の中から、彼女に微笑を向けていた。――悲哀や寂寥せきりょう、困惑。様々な苦味が混ざった、もろく崩れてしまいそうな微笑を。

 どうしてか、それは冷たいもののように見えた。氷塊が持つような強い冷たさではなく、枯れた草花に降った霜のような、駆け寄らずにはいられなくなるような、はかない冷たさを持った不思議な表情に。

 しかし志乃はそう感じただけで、走ることはせず、歩いて隣に追いついた。入れ替わりに、直武の視線が海へと向く。左側、東の空には朝日の気配があるが、未だその姿は見えない。


「……差し支えなければ、君の見た夢がどういうものか、教えてくれないかな」


 控えめな波の音に耳を澄ませ、青い闇が広がる海原と空を眺めること少し。直武が厳かさを混ぜた声音で静かに問いかけた。「承知いたしましたぁ」と快諾する声は、その重さに不釣り合いなほど、相変わらず暢気だったが。

 悪夢の内容と、元になった記憶の話。笑い話ではないそれが、時に間延びする口調で語られていく。――受けた呪詛の影響で怨霊と化してしまった魂を、最も手荒い方法で祓ったこと。それを責められ、同い年と思われる別の遊女に殺されかけたこと。


「俺の胸倉を掴んだ時の史継さんの顔は、その遊女の方に似ていらっしゃいました。史継さんの気持ちも、遊女の方の気持ちも、俺は名称と字を知っているだけで、伴う痛みはまるで分かりません。ですので、同じ場所に立って、真正面から向き合うことすらできないのですが」


 不意に、飛んでいるようだった声が沈み込み、志乃にしては珍しい静かな口調になる。直武と同じく、闇から浮かんでこない水平線を見ていた横顔も、いつの間にか不気味なほど凪いでいた。


「仮に、俺を育ててくださった方々が、同じように亡くなったらと想像してみても、分からない痛みです。いなくなってしまう時の到来が、早いか遅いか。違いはそれだけで、結末は何も変わりませんから」


 形のない鈍器のような、事実を述べただけの声。人に振るえば傷心を叩き潰してしまいかねない音色のつい。それを難なく振るって見せた少女の顔は、しかし。


「随分と、さびしそうな顔で言うんだね」


 直武には、そんな風に見えていた。――遠くの木陰から人の輪を眺めているような、さびしそうな顔に。

 予想外の言葉を掛けられ、志乃は弾かれたように直武を見る。直武が携えた提灯に、下から照らされた双眸が、まん丸く見開かれていた。


「さびしそう、ですか」

「私にはそう見えるよ。もっとも、私が勝手に感じているだけで、君の心情とは全く違うかもしれないけれどね」

「……いえ」


 自分は、人間と同じではない。長らく一緒に過ごした人々を好きで、その傍にいられて嬉しいという思いは、そういう動作を真似ているだけ。壊し傷つけることで知った、妖怪としての喜びを仕立て直して、人間に擬態しているだけ。

 だからこそ。壊され、傷つけられることが、悲しいことだと認知したことがないゆえに。そもそも、悲哀なんてものを知らないがゆえに。痛みもいたみも、理解することはできない。


「『さびしい』も、分からない時の方が多いので、違うとは言い切れないかと。心の痛みが分からないことも、死を悼むことができないことも……それが、普通の人と妖雛おれの違いだということも、さびしいと思っていたのかもしれません」


 そういうことを思い考えると、何だか胸が冷えていくようだった。あの冷えが、自分にとっての「さびしい」なのかもしれない。


「……俺には、壊し傷つけるくらいしか、能がないと思っていたのですが。案外、そうでもないのでしょうか。痛みだとか、悲しみだとか、そういったものを理解できるようになるのでしょうか」


 自分の口から発せられている言葉なのに、どこまでも空疎な響きがする。自分の内側を手探っているはずなのに、漠然と、空の彼方に手を伸ばしているような気がする。


「……史継さんが思っていることも、理解できるように、なるのでしょうか」


 そんな、絵に描いたような理想を、自分にも叶えられるのだろうか。

 空虚の上に、愛想笑いで蓋をする。すっかり馴染んだ体裁を、整える手間もなく浮かべて、妖雛の少女は問いかけた。既に灯火を持ち、行くべき道を示してくれた人へ。


「君がそうしたいと望み、叶えるために歩くのなら。人間とは、変わりながら前進するものだからね」


 再び贈られた言葉は、夢物語を形作る一節のようで。けれども確かな重みと、温もりと、光があるようだった。どんなにおぼろで、かすかでも、確かに志乃の心側うらがわへ留まった。


「……史継さんの気持ちを理解できたなら。あやまちも理解できて、謝ることも、できるでしょうか」


 言葉にてられてか、ひとりでに言葉がこぼれていく。それが今、自分が望んでいることらしいと、志乃はぼんやり把握した。「そうかもしれないね」と答える直武の眼差しは、ただ穏やかだった。


「この手のことは、謝罪だけでどうにかなるほど甘くないけれど、誠実な謝罪を重んじるのは変わらない。こういう時の謝罪は、ゆるしてもらうためにするものじゃなく、自分の罪過を認め、省み、背負っていくと相手に誓うことだから」


 聞き心地の良い経年の声が、波音に負けることなくはっきり聞こえてくる。調和の取れた演奏の中、笛の音が一際よく聞こえてくるように。


「旦那も、あるのですか。そういう謝罪をしたことが」

「あるよ。私は美しい人間でも、完璧な人間でもないし、その人物像からは、とても遠いから」


 志乃が返そうとした「ご謙遜けんそんを」が、のどの奥で消えていく。わずかに反らされた直武の顔が、今までにないほど陰鬱いんうつとした色をしていたので。


「……私が見る夢の話もしようか。私の場合は困ったことに、殺されかける夢は二種類ある」


 直武らしからぬ表情が浮かんでいたのは束の間。志乃へ戻された眼差しと声色に、いつもの穏やかさが戻る。けれども、覆い切れていない箇所からは、脆い面が覗いているようだった。


「一つは、私に呪詛をかけた物の怪が見せてくる夢だ。数日おきに見るから、こちらにはもう慣れてしまっているけれど、うなされるのは変わらなくてね。加えて、呪詛が体をむしばんでくるから寝不足になるし、寝坊してしまうこともある。夜蝶街を出立する日も、そうだったんだよ」


 思い当たる節が、志乃の脳裏にすぐに浮かんでくる。宿屋の前で芳親と話していたところに慌てて、それでも店主の老婆に挨拶を忘れずにやって来た直武の姿が。


「そういう事情がおありでしたら、仰ってくださればよろしかったのに」

「魘されるのは強力な術を使った日以降に限られるし、いつ見るかも不規則で分からないから、苦しめられることはあまりないんだよ。夜蝶街の時は、君と芳親の喧嘩を止めるために使ったから見ただけで」

「……俺の過失ではありませんか、それ?」


 途端に不安を覚えつつ、首を傾げて問う志乃だが、「あれは昂りすぎちゃった芳親の過失だよ」と即答されてしまった。直武は何てことなさそうに笑んだまま、続きを話し出す。


「もう一つは、私の思い込みで作られた悪夢。昨日今日と見ていたのはこっちだった。何十年も前に亡くなった兄と姉が、私を殺しに来る夢なんだけどね」

「……旦那には、兄君と姉君がいらっしゃったのですかぁ」


 妙なところに反応し、のんびりと瞠目して瞬く志乃。もっと驚愕すべきところがあるはずなのだが、直武はそういう斜め上の反応も予測済みで、全く微笑を崩さない。


「しかし、なにゆえ殺されかけるような夢を? 旦那がお身内から恨まれるようなことはなさそうですし、旦那の兄君と姉君であれば、そんなことをなさるような方々とは思えません」

「そんなことをする人たちじゃないのは確かだよ。それなのに殺されかける夢を見るのは、私の勝手な思い込みか、あるいは呪詛をかけてきた物の怪が故意に見せているのかのどちらかだ。二人を殺した仇でもある物の怪だから、無関係というわけではないし」


 聞き流しがたくもあり、反応しがたくもあることを、直武は滑らかに語ってしまう。が、志乃も志乃で「なるほど」と、軽すぎる相槌をさらりと打っていた。

 会話はそこで一度終わり、寄せては返す波の音が、沈黙を洗い流していく。周囲はすっかり明るくなっており、未明の時は終わりつつあった。


「さて。もうすぐ日が昇ってくることだし、それを見てから戻ろうか。遅くなると、紀定を怒らせてしまうかもしれないけど」

「う……中谷の兄貴より恐ろしくはないですが、紀定さんの説教も嫌です」

「冗談だよ。あの子も把握しているからね、私の夢のこととか、朝方に散歩をすることとか」


 徐々に現れ始めた朝日が、悪戯っぽい直武の笑顔を照らす。提灯の役目は既に終わっていたが、蝋燭ろうそくはまだ消えていない。

 波風の音に海鳥の鳴き声も聞こえ始め、夜が明ける。朝がやって来る。二人は青い薄闇の余韻よいんが消えないうちに踵を返し、まだ静かな団史郎の屋敷へと戻って行った。

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