第五章 陽光と影
兼久と直武
隊を率いるのは境田兼久。
卯月二十日の夕刻。彼は貸し出された屋敷の一室で、通信用の呪具に連絡が入るのを待っていた。律義に座って小箱に向き合う好青年の姿は、事情を知らない者からすると奇妙に映る。呪具も持ち主と揃って、連絡が入るのを待っていた。
待機状態は長く続かず、寄木細工のような模様が特徴の小箱から雑音が漏れ始める。
『――こちら、
「はい、問題ないですよ、先生」
独特な響きを伴って聞こえてきた声に、兼久は親しげな挨拶を返した。
直武を先生と呼んだが、二人は仕事の面から見ると、師弟というより同僚に近い間柄にある。というのも、彼らの所属である
「それで、
彼の声と表情が親しげだったのは束の間。どちらもすぐに引き締められ、単刀直入な問いが投げられる。呪具を起動させて待っていたのは、昼過ぎに直武から連絡があったからだった。問題が起きた旨を伝えてきた時の声色から、良くないことが起きたということは把握している。
『凶暴化した三十匹の
無駄な前置きは無く、淡々とした事務的な声で返答がなされた。
常に穏和な直武の声が温度を失うと、情け容赦とは縁遠く、どこか悲しくなるような音色になる。けれど、そういう声で話す時は努めているからであり、本当はひどく心を痛めていると、彼を知る者はほとんどが知っていた。
痛んだ心が上げる叫びに鈍くならず、それでいてよく鬱屈と歪んでいかないものだと、兼久は感心せずにいられない。
『鼬の体には小さな蜘蛛が張り付いていてね。それが鼬の凶暴化を促していたようだ』
追加の報告を彩る声は、聞いているだけで胸裏が寒くなるようなものではなかった。戻って来たいつもの声音に、安心感を覚えつつ応じる。
「ああ、
『やっぱり把握済みだったか。とはいえ君のことだ、雷雅が動いているという時点で、水面下で動いている妖怪には目星が付いていたのだろう?』
口の端を上げているらしい直武の姿が目に浮かび、兼久も口角を上げた。「もちろん」と返す声は自然なものだが、表情と相まって余裕を
雷雅が動く時は、人間の手に負えないモノが動いている時。物の怪であれば人間側が即座に把握できるため、妖怪の中でも危害を加えてくる可能性が高い存在――人間が呼称を付けている妖怪が候補として上がる。ある程度は疑うべき相手が分かるのだ。
「こちらでも凶暴化した鼬の襲撃を受けまして。彼らの遺体を調べたところ、利毒が従えていると思わしき蜘蛛と、かの鬼が以前に提出していた毒物が発見されました」
呪具の製作技術を提供する、独自に妖怪たちの動向を探るなど、人間に協力的な雷雅と同じく、利毒も薬学の面で協力の姿勢を見せている。利毒の場合、自身が発見あるいは生成した毒物を資料として提出していた。
が、そういったやり取りがあっても、呼称を付けられた妖怪は姿勢を裏返す可能性があるため、常に動向を警戒されている。
「ですが、利毒が裏で糸を引いているにしては、何がしたいのかよく分からないですね。研究一辺倒な性格ですから、何かしらの調査が目的ではあるのでしょうが、沢綿島に鼬を差し向ける必要なんてありませんし」
爽やかな顔に浮かんでいた真剣寄りの表情が、不思議そうな表情に変わる。声からも、少し張り詰めていたような響きが無くなっていた。
『沢綿島の襲撃については、利毒の思惑ではないだろうね。かの鬼が妖獣に興味を示した旨の報告は上がっていないし。おそらく、利毒とは別の何者かの目的だったんだろう』
「そうなりますよねぇ。
妖怪は単独で動くモノが大半を占めるが、中には人間のように寄り集まり、徒党を組むモノもいる。特に妖獣は、群れを作り重んじる傾向が強い。
今回の件に妖獣が関わっていた場合、まずはどの地域を根城にしている、どの種類の獣たちなのかを探り当てなければならない。そのためには、地道な作業が必要となる。細々とした作業を嫌ってはいないものの、これから掛かるだろう徒労を予想して、思わず兼久は苦笑を浮かべていた。
『さて。私からの報告はこれくらいにして、そろそろ君からの報告を聞きたいところだな』
「了解です。まずは鼬の動向ですかね」
今日までの五日間――兼久たちが若鶴にやって来た卯月十日余り五日から、兼久は直武と連絡を取り合っていた。それまで鼬の動きに目立つようなことは無かったため、今回の急襲は予想外の一言に尽きる。何せ、襲われたのは自分たちがいる場所ではなく、海を渡った別の場所だったのだから。
「先ほども申し上げましたが、本日の昼前に鼬の襲撃がありました。襲撃規模は沢綿島の半分ほど。そちらと同様、相手との意思の疎通が不可能でしたので、
直武と同じく、内容に反して平淡な口調と声色で話す兼久だが、爽やかな顔は
吐血しながら、体中に血を
「それと、以前報告した鼬の
『ああ、
弥重郎とは、
しかし、当代の弥重郎は人間側に保護され、手当てを受けている。兼久たちがやって来る前からこの状態であり、隊が到着した時点でも重篤なままだった。
「その弥重郎殿の容体ですが、ようやく安定しました。あとは本人の目が覚めるのを待つだけです」
『良かった、さすがは
安堵と信頼が入り混じった声に、兼久は思わず頬を緩ませる。手当てに尽力した
『彼女の体調に変化は?』
「問題なしとのことです。朝昼晩の自主報告に加え、木下が抜き打ちで検査を行っていますので、本人が不調を隠しているということは無いかと」
というか、嘘も隠し事も通じないお姫様に気に入られていることですし……と付け足しかけて、やめた。そのお姫様についての報告は済ませてあるため、直武は自然と察しているだろう。
代わりに、兼久はお利口そうな顔に似合わず、自分の聞きたいことを訊くことにした。
「ところで先生。芳親の近況はどうです?」
『任務と関係ないから言わない』
地味に容赦がない即答だが、苦笑しているらしいことが窺える声色で直武は続ける。
『君も好きな人のことになると長いからね。あと数日も待てば合流するし、迎えも寄越してくれるんだろう?』
「待ちきれないので、いっそ沢綿島から転送陣で一気に来てくださいよー」
『なるほど。それじゃあ芳親には、兼久君が早く来てほしいと言っていたから、道中のご飯は食べられないと伝えておこう』
「すみませんでした、予定通りの移動でお願いします」
優しい笑顔を浮かべているのだろう直武に、兼久は思わず頭を下げて謝っていた。芳親に好きなものを我慢させるのは辛い上に、それが原因で嫌われるなんてことがあれば、仕事中以外ずっと寝込みかねない。
青い顔をしていることなどお見通しなのか、『ふふ』と笑い声が聞こえた。
『芳親は元気だから、心配いらないよ。私や紀定に叱られてはいるけれどね』
「あー、逆に安心できます。報告から察するに、弔意の薄さが
兼久から見た義弟の数少ない欠点、その中でも看過できない一点に、笑みは自然と暗くなる。脳裏に焼き付いた、不思議そうに見上げてくる幼い双眸。からっぽな牡丹色の瞳は今でも、芳親の決定的な欠落を示している。
連鎖して思い出される糾弾を振り払い、蓋をするように問いを投げた。
「沢綿島の狸たちに、迷惑かけませんでしたかね。芳親が何かしたなら、僕も謝らないと」
『団史郎は何回も謝られるのは好きじゃないから、君の出番はないよ』
明確ではないが、やはり何かやった、あるいは言ったらしい。
「ありがとうございます、先生」
『お礼を言われるようなことじゃないさ。それじゃあ、次は逢松で』
「はい、失礼いたします」
通信が切れ、呪具は細工の美しい小箱に戻る。兼久は座ったままぐっと伸びをし、そのまま後ろに倒れ込んだ。
芳親の、空虚で底の見えない陰が潜んだ牡丹色の目。今まで気に留めたことが無かった双眸が記憶に刻み込まれたのは、初めて葬式に立ち会った時のこと。
その葬式は、兼久の母を弔うものだった。短い間ではあったが、芳親も世話になっていた人。そんな故人と永久に別たれる儀式で、妖雛の少年は、ずっと首を傾げていた。
『……人間、って。……目、から、水、流すんだ……初めて、見た』
『かなしい? ……初めて、聞いた。……ねえ、それ、何? どういう、もの?』
無邪気に聞いて回る姿は、何も知らない幼子のようではあった。けれど、人間の幼子より、底知れない
妖雛という存在は、何度も見たことがある。妖雛が儀式を経て兵となった
「……志乃ちゃんも、そうなのかなぁ」
背から頭へと染みわたる、板張りの床の冷たさ。悪寒にも似た冷感に、義弟に抱いた恐怖も思い出しながら、ほとんど何も知らない少女のことを呟いた。礼儀正しく素直な少女だと、直武から聞いてはいるが……。
しばらくぼうっと天井の木目を眺めていた兼久だったが、反動をつけて起き上がる。
「ま、今は待つとしますか。鼬も少なからず痛手を負って、動きにくいだろうし」
言いながら呪具を仕舞い、兼久は笑顔で部屋を後にする。妖雛たちへの心配はあるが、それを打ち消しうる期待もある。
「ふふふ。旧武家の子は好青年だったし、素敵な友情を見られるかもしれないなぁ」
「独り言とか気色わりーんだけど」
唐突な声の刺突を受けて、兼久は「うおあぁ!?」と情けない声を上げた。慌てて声の出所を見れば、別の通路から合流してきた人影があった。
「お前、基本的には優秀なんだからさー、もっと気ぃ引き締めろよ」
「うっ、ごめん
「いちいち反応してんじゃねーよ、
勝手知ったる間柄ゆえに、兼久に容赦のない物言いをするのは、凶悪な顔つきをした三白眼の男。名前を
「まー、でも。あの坊ちゃんが良い奴なのは、そーだな。どこぞのクソガキとも気ぃ合いまくるのが目に見える。けど、会いてーからって迎えに名乗り出たの、例の新顔人妖兵が理由なんだろ?」
「ああ、うん。志乃ちゃんだね。どんな子なのか気になるよねぇ。芳親と仲良くしてくれてるのかな。っていうか、芳親が何か嫌なことしてないかな。可愛い義弟が嫌われてたら、僕すっごい
人差し指を突き合わせ、兼久はああだこうだと不安を言い連ねる。見慣れた姿ではあるが、宗典は盛大なため息をつくと、無視して先に進んだ。慌てて追いかけてくる兼久の情けない言葉たちも、綺麗に無視されてしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます