巣立ち
志乃と芳親が目覚めてから二日、物の怪討伐からは五日が経った、卯月十日余り一日。旅装束に身を包んだ志乃は、屯所の門前で旅立ちの朝を迎えていた。
夜が端へと追いやられ、姿を
「こんな時間に起きんのは、俺も久しぶりだな」
志乃の隣で、辻川も目を細めながら空を見上げている。その横顔は眠たげで、髪にもまだ寝癖がついていた。
「さて、忘れもんはねぇな?」
「はい。志鶴姐さんに作ってもらったものは全て身に付けておりますし、親方からいただいた短刀は懐に。荷物の中身は昨夜に確認しました」
いつもなら寝ている時間の明六ツに起きたというのに、志乃は元気に笑って見せる。若さに苦笑しながら、辻川は頭を撫でてやった。髪が乱れないよう気を付けたのだが、志乃の方が頭を
「よし。行ってこい、志乃」
「えへへへぇ。行ってまいります」
中谷が見たら確実に叱っているような顔のまま、志乃は嬉しそうに宿場町へと駆けていく。そこで待つ直武たちに合流するために。
振り返る素振りの無い志乃の背を、辻川は見えなくなるまで見送っていた。
静かに眠る花街と違い、早起きの宿場町は慌ただしい空気に満ちている。賑わいを取り戻した宿屋や食堂、通りを歩く人々の穏やかな話し声と、あちこちから漂ってくる出来立ての朝食の匂い。それらが作り出す朝特有の空間を不思議そうに見まわしながら、直武たちが泊まっている宿へと歩いて行く。
書き付けに従ってたどり着いた宿は、細い路地をいくつか経由した先にあった。商売する気があるのかどうか分からないような、隠れ家のような宿。その玄関には芳親の姿がある。
「芳親さん、おはようございます」
「……あー、志乃。おはよう」
小走りでやって来た志乃に、芳親は眠たげな調子で挨拶を返した。同じく眠たげな目で、志乃の姿を眺める。
「……旅装、男物なんだ、ね」
「はい。着慣れておりますし、動きやすいですから。……ところで、
「……師匠は、ちょっと、遅くなる。……もう一人、は、先に行ってる、から」
言い終えないうちに、芳親は宿の中へ目を向けた。つられて志乃も見てみると、
勢いのまま飛び出してくるかと思われたが、直武は受付の前で止まり、店主らしい老婆にちゃんと挨拶をしていた。落ち着いた様子を崩さずに、二人の方へ歩いてくる。
「おはようございます、麗部の旦那ぁ」
「おはよう、志乃君。待たせてしまってすまないね」
「いえ、俺も先ほど来ましたし、挨拶は大切ですから」
笑顔で答えてから、志乃は直武が
「旦那のことを色々と知った今となっては、杖をお使いになられるほど、旦那が衰えていらっしゃるようには思えませんねぇ」
「ああ、山道を行くときには必要になるんだよ。それに、有事の際には護身に使えるからね」
「なるほど、刀の代わりと。……あれ?」
今度は、志乃は芳親の方へ目を向ける。正確には彼の腰辺りに。
「芳親さんも、刀を持っていらっしゃらないのですか?」
「うん。……討伐の、時は……見回り番の、を、貸して、もらった」
「そうだったのですか? あぁ、でも、言われてみれば、見覚えがあるような刀でしたねぇ」
刀より戦闘に注目していたため、志乃はまるで気付いていなかったどころか、気にしてもいなかった。まさか、見回り番から刀を借りていたとは。考えてみればすぐに思い至れそうだったが、思考を巡らすこともしなかった。
「……志乃も、刀、持ってない」
「俺は刀の扱いがなっていないらしいので、持てないのです。今は親方からいただいた短刀を持っておりますが」
少し自慢げにぺしぺしと懐を叩いた後、志乃は何やらハッとした顔をし、姿勢を正して直武に向き直った。
「改めまして、麗部の旦那。これからの旅路にお供させていただきます。どうぞよろしくお願い致します」
「丁寧な挨拶ありがとう。こちらこそよろしく」
綺麗な一礼をした志乃に、同じく姿勢を正していた直武は、穏やかな笑みで返礼をした。
「よし、それじゃあまず、朝食を食べに行こうか」
「うん」
ゆるゆるとしていた芳親の雰囲気が、しゅっと引き締まる。牡丹の目もすっきりと覚醒していた。あまりにも急な変わりように、思わず志乃の肩が跳ねる。
「いつも、どこで何を食べるのかを決めるのは芳親なのだけど、志乃君は構わないかな?」
「え、ええ、もちろん。酒以外の味が分からない俺に選ばせるより、ずっとマシですよぉ」
答えを聞くなり、芳親はすぐに歩き始めた。しかも早足で。きびきびとした後ろ姿に苦笑し、直武も志乃を連れて続く。
「芳親は食べるのが大好きでね。もう一人の子が止めないと、あんな風になってしまうんだ」
「先行していらっしゃるという方ですか?」
「そう。芳親から聞いたかな?」
「詳しいことはまだ。ちょうどそこで旦那がいらっしゃいましたので」
会話しながら歩いて行く二人から、芳親はどんどんと離れて先へ行く。が、時折振り返っては、ちゃんと二人がついて来ているか確かめていた。
「そういえば、この時間帯に食事をするのは初めてかもしれません。俺にとっての朝食は、世間では夕食に該当するものでしたので」
「夕方に起きて、夜に仕事をするから?」
「はい。拾われて間もないころは、食べるのを忘れては叱られておりましたねぇ。匂いは分かれども味は分かりませんので、食べなくてはならないということをすぐ忘れてしまうのです」
大通りに出てすぐ、芳親の歩みが一軒の食事処の前で止まった。どうやらもう決めたらしい。出入口を塞がないよう、すぐ横に立って二人を待っている。
「芳親さんは
「うん。でも、代わりに心が欠けている。昔よりはマシになっているけどね」
「昔はどういう状態だったので?」
「言われなければ何もしない子だったよ。食べることも、寝ることも、話すことも、与えられた部屋から出ることすらしなかった」
自分よりも酷い有様に、志乃は目を丸くした。
食べることもしなかったというのは、先ほどの
ぼんやりと志乃が思い出しているうちに、二人は芳親に追いついた。
「……師匠。ここが、いい」
「じゃあ、入ろうか」
三人が入ると、「いらっしゃい!」という威勢のいい声が飛んで来た。それと同時に、味噌汁の匂いが一層濃くなる。
座敷の席に上がった後も、志乃は店内をきょろきょろ見回していた。
「もしかして、食事処に来るのも初めてなのかい?」
「あぁ、いえ。さすがに来たことはありますよ。ただ、この食事処はいつもと違うところですし……何より、漂っている匂いが違います」
志乃が知っている食事処は、花街の喧騒の一部である居酒屋だ。どこも食べ物の匂いより酒の匂いが勝り、普通の会話も強めの声でなければ聞こえないほど賑やか。ついでに喧嘩に巻き込まれてしまうこともあるが、見回り番に限れば全く問題ではない。
「……師匠。僕、特盛の定食にする」
「特盛?」
耳慣れない言葉に首を傾げる志乃の隣で、直武はいつものこととばかりに笑んで頷いた。
「分かったよ。志乃君はどうする?」
「えーっと……俺は、一汁一菜の定食でいいです」
「私もそれで十分だ」
いささか奇妙な返しをして、直武は店員に注文を伝える。芳親は今までにないほど綺麗な姿勢で待機していた。
「あの、芳親さん。特盛とは一体何なのですか?」
「え……知らない、の?」
「初めて聞きました」
「……まあ、どこでも、やってるわけじゃ、ない、か。……それより」
詳しい説明をする気はないらしく、芳親は直武の方を見る。
「……師匠。目的地のこと、話した方が、いい」
「そうだね。志乃君、次の目的地は
「おぉー、早々に船旅ですかぁ」
予想外の要素に、志乃はさっきまでのやり取りを少し忘れ、思わず明るい声を出していた。
沢綿島は
「島に行くのは、君の〈解放の儀〉を行うため。私の旧友の妖怪に協力してもらう」
「なるほど。では、先行している方は、その旨をご友人様に伝えに行かれたのですか?」
「うん。だから、彼と合流するのは島に行ってからになるね」
ふむふむと志乃が頷いている間に、早くも三人分の定食が運ばれてきた。ご飯に豆腐の味噌汁、そして焼き魚と、並びは何もおかしくないのだが。
「……、え」
芳親の前に並べられた定食を見るなり、志乃は笑みを浮かべたまま固まった。
彼の分だけ、圧倒的に量が違う。ご飯も味噌汁もどんぶりに入れられており、ご飯の方に至っては、どんぶりからはみ出さんばかりに盛り付けられているのだ。
「……芳親さん。食べきれるのですか、それ」
「? うん」
動揺した声で問われ、芳親は不思議そうに首を傾げる。残る直武は、やはり穏やかな笑みを浮かべていた。
「さ、二人とも食べよう。いただきます」
「い、いただきます」
「……いただき、ます」
挨拶をし終えるなり、芳親はがっしとどんぶりを掴んで持ち上げると、次々とご飯の山を削り始めた。吸い込まれるようにして消えていくご飯に、思わず志乃は
山盛りだったご飯は、黙々と食べ進めていた直武が半分ほど食べ終える辺りで、綺麗に芳親の腹に収まってしまった。そこでやっと味噌汁や魚に手を付けるかと思いきや、
「……あの。おかわり、お願いします」
通りがかった店員に、平然とどんぶりを差し出した。これには志乃だけでなく、差し出された店員も驚いている。
「……、……あの?」
「は、はい! かしこまりました」
慌ててどんぶりを受け取り、厨房へ駆け込んで行く店員を見送った後、芳親は思い出したように魚と味噌汁に手を付ける。
「……志乃、どうした、の。……全然、食べてない」
「あぁー、その……芳親さんが食べ進める早さが予想以上でしたので」
笑って答える志乃だが、口の端が引きつっている。その引きつりに対してか、それとも自身の食べる早さに言及されたからか、芳親はまた首を傾げつつも、すぐに食事に集中した。
結局、志乃と芳親はほぼ同時に食べ終えたのだが。志乃が食べ終えるまでに、芳親はご飯をさらにもう一杯おかわり。そして味噌汁も一度おかわりをし、見事に完食してしまったのだった。
食事処を後にした三人は、次に北門へと向かう。宿場町と花街、それぞれの南北にある門は検問を兼ねており、来訪する旅人も出発する旅人も、そこを通過しなければならない。
「芳親さん、朝はいつもあれほど食べるのですか?」
「うん。……何か、変?」
「変というよりは呆気にとられると言いますか、俺の理解の
いつも無条件で浮かぶ暢気な笑みは無く、志乃はただ信じがたい光景を呑み込もうという顔をしていた。そんな彼女に、直武は同感とばかりに頷いている。
「常世から戻って来た当初は、全くそんなことは無かったんだけどね。ある日を境に大食漢になってしまったものだから、私も驚いたものだよ」
「え。最初からこうではなかったのですか?」
直武を挟んで隣にいる芳親へ、再び志乃は信じがたいものを見る目を向ける。芳親はそれに頷いた後、何故か嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……
「茉白さんとは」
「僕のお嫁さん!」
満面の笑みで即答する芳親に、「
「志乃も、会えば、気に入る……と、思う」
「ほうほう。ちなみに、どういった方なのですか?」
訊かれた途端、芳親は目を子どものように輝かせたかと思うと。
「茉白の見た目は雪で作った
いつもの話し方からは想像できないほど、とんでもない勢いで語り出した。
湧き水のようにとめどなく流れ出てくる言葉に、直武も志乃も言葉を挟むことはしない。直武は耳から耳へと聞き流しており、問うた志乃はちゃんと聞いて
「――話をまとめますと、茉白さんは兎のように小柄で大変可愛らしく、料理や
「そう」
芳親の語りが終わったのは、ちょうど北門の前にやって来た時。存分に語れたからか、芳親は誰が見ても満足していると分かる笑みを浮かべていた。
「……嬉しい。大体、話してる、途中で、『もういい』って、言われる、から……」
「話は最後までちゃんと聞けと言われておりますので。それに、初めて聞く言葉も多かったですから、勉強になりました」
お互い満足とばかりに笑い合う二人に、聞いているだけだった直武も笑みを深める。和やかな雰囲気のまま、三人は問題なく検問を抜けて街道へと出た。
三人が出た街道は
「このまま北上していけば、
「うん。まだ、そこまでは行かないけれど」
目的地は街道の途中にある港町、英崎。さすがに別の府までには至れない。
街道の左右には水鏡と化した田んぼが広がり、遠くには青い山々が
「春は良い季節だと、お世話になった方々が仰っていたのですが。何となく分かる気がします」
呟くように言って、志乃は思いっきり空気を吸い込んだ。――草木の青い匂い、
「そうだね。春は
「清々しい……なるほど。芳親さんはどうですか。春はお好きですか?」
「……寝ると、気持ちいいから、好き」
日向で丸まる猫のように目を閉じる芳親に、「寝ないでね」と直武が笑いながら言う。だが、目を閉じていても芳親の足元はしっかりとしていて、寝ながら器用に歩いているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます