第三章 沢綿島
英崎
――数刻前。
「……何だ、起きてたのか」
屯所内に戻った辻川を、中谷が出迎えていた。眠そうな辻川と違い、しっかり目を開いて。
「志乃はもう発ちましたか」
「おう、予想通り振り返らずにな。お前も上の階から見てたんだろ?」
中谷は沈黙をもって肯定した。
辻川しか見送らなかったのは、各々の活動時間が夜という事情あってのことだが、皆その気になれば起きて来られる。いつも通りを貫いているのは、志乃が振り返ることも、別れを惜しまないことも無いと知っているからだ。
「あいつはまだ、何かを失うことで生じる痛みを知らない。だから、どれだけ俺たちが集まろうと振り返らない。……それが一番分かってんのは、お前だと思ってたけどなぁ?」
面白いものを眺めているような目を向けられても、中谷の無表情は崩れない。けれども、目には心情が出たのを、辻川は見逃さなかった。
「で、どうだ。何かを失って生じる痛みは」
「……心地いいものでは、ありませんね」
真っすぐだった目線が、少し下に落ちる。辻川は玄関から上がると、自分とさほど変わらなくなった高さにある頭を撫でてやった。遠慮なく、わしゃわしゃと。
「そこら辺が、ちょっとは山内に近付いたな」
「……対人への
「うわ、目ぇ怖っ。今のお前なら視線だけで人殺せるぞ」
無意識に鋭くなっていた中谷の目が、さらに鋭くなる。さすがの辻川も、にやにや笑いが一瞬だけ引きつった。
「さては早起きの
「言われずとも寝ます。起きたら山内に八つ当たりします」
足音にも苛立ちを
一人いなくなった屯所の清澄さは、雪解け水に触れた後のような、喜ばしいのに寒くなってしまうものだった。
***
微風に混ざる潮の香り、田畑に変わって目立ち始める松の姿が、海が近いことを知らせてくる。しばらくして海岸沿いの道に出れば、穏やかな
「あれが……ええと、
歓喜半分、興味半分といった声で言いながら、志乃は目を輝かせていた。
「……海、初めて、なら……
「あぁ、どちらも海鳥ですよね。絵は見たことがありますが、実物を見るのは初めてです」
「言っている傍から来てくれたみたいだよ。おそらく海猫だね」
声と共に挙げられた直武の指先を、志乃と芳親が
「……
「海鳥も
「うん。……まあ、烏よりは、嫌な感じ、じゃない、と思う、けど」
会話が交わされる間に、海鳥はどんどん近づいてくる。何か感じたのか、直武が足を止め、一歩遅れて二人も止まった。
道のど真ん中に降り立った海鳥は、一行の行く手を
「……あれ? 海猫じゃないな、鴎だ。翼の先が黒くない」
が、真っ先に反応した直武が注目したのはそこだった。偉そうな姿を気にすることなく、意外とばかりに瞬いたのち、「ふむ」と
「妖怪かな。何らかの意思を感じるし」
「……うん。妖怪の、気配」
「昼間でも妖怪は出るのですねぇ」
基本的に夜の住人である妖怪が、昼間に出てくるのはあまりないことなのだが、三人は揃いも揃って暢気な反応を見せた。一方、鴎は三人の様子が気に食わなかったらしく、バサバサと翼を振って不満そうな鳴き声を上げたが、
「……、……?」
固まったかと思うと、首を傾げた。次いで、頭を振るなり体を見るなりといった、妙な素振りをし始める。ますます鳥獣らしくない。
「何やら焦っている様子ですが、どうかしたのでしょうか」
「どうしたんだろうね」
不思議そうな三人の前で、妙な素振りを続ける鴎。ところがその後、翼で器用に顔の両側を包み込んだかと思うと、
「……クエェェェーッ!?」
悲鳴じみた鳴き声……いや、叫び声を上げた。
顔を包んだまま、鴎は慌てたように右往左往し始める。何やらとんでもないことが起こったらしいが、鴎の言葉など分かるはずもない三人は傍観する他ない。困っているらしいことは、十分すぎるほど伝わってくるのだが。
「えーっと。とりあえず、私たちに用があるということで良いのかな?」
どうしよう、と繰り返していそうな鴎に、直武が助け舟を出す。すると鴎はぴたりと止まり、こちらをじっと見つめてから、どことなく情けない顔で寄ってきた。
「事情はよく分からないけれど、私たちと一緒に来てくれるかい?」
問いかけに嬉しそうな鳴き声を上げ、鴎は直武の肩に乗るなり胸を張った。
「もしや、旦那は動物と会話ができるのですか?」
「いや、出来ないよ。この子はおそらく妖怪だから、こちら側の話が一方的に通じるっていうだけで」
「……師匠、動物と、会話、出来るんだ……」
「いや、出来ないからね? それより、少々急ぐことにしよう。どうやらこの子も、
二人が突拍子もないことを言ったものの、素直に首肯したのを見て取ると、直武は鴎を肩に乗せたまま歩き出す。ところが、鴎は上手く掴まっていられないらしく、ぐらぐら揺れる体を保とうと翼を広げた。
「水掻きだから、掴まっていられないのかな。どれ」
歩きながら、直武が鴎を両手で抱きかかえる。鴎は少し抵抗していたが、安定していると分かるなり、大人しく翼を畳んですまし顔になった。
「つい先ほどまで気になりませんでしたが、何だか厚かましい方ですねぇ、この鴎さん」
「うん。……失敗、やらかしたみたい……だった、のに」
両側から注がれるジトッとした視線に、鴎は抗議するかのような声を上げ、翼をばたつかせる。その際、バシバシと直武の腕を叩いてもいたのだが、彼が穏やかな笑みを崩すことは無かった。
***
「魚の匂い……生臭い、というのでしたか。その匂いがあちこちに漂っていますねぇ」
「そりゃあ港町だもの」
すんすんと珍しげに鼻を鳴らす志乃。反対側では、芳親が何かしらの料理の匂いを嗅ぎ取って離れようとし、その度に「駄目だよ」と止められている。
「まずは港に行こう。いつ船が出るか確認しないとね」
「その後に、この鴎さんをどうするのか決めるのですか?」
「うん。とは言っても、鴎君の伝えたいことは全く分からないっていう問題を、何とかしなくちゃいけないけれど」
「……
「行っちゃ駄目だからねー」
どさくさに紛れて露店に近付こうとしていた芳親を、直武は全く見ずに注意する。食べ物にかんしては凄まじい執着を見せる芳親は、素直に、けれど渋々といった様子で視線を引き剥がしていた。
「芳親さん、もうお腹が空いているのですか?」
「……いや。串数十本くらい、なら……まだ、いける、し……美味しいなら、みんなと、食べたい」
「普通はそんなに食べられませんが……はて。みんなと食べたい、というのは?」
食べることすら容易に忘れる志乃は、最初こそ呆れたような顔をしていたが、不思議そうに首を傾げる。それを見た芳親も不思議そうに、志乃とは反対側へ首を傾げた。
「みんなと、食べる、と……美味しい、し……嬉しい。……違う?」
「俺には分かりかねます。『美味しい』という感覚は存じ上げませんので」
「……嬉しい、は?」
「それは分かりますよぉ。食べ物を介さずとも、喧嘩や戦いで感知できる、最たるものですから。あ、それに。成果を挙げれば褒めていただけますから、それで感知もできますねぇ」
「それは……そう、だけど……」
にこり、愛想笑いを浮かべる志乃に、芳親はあまり表情を明るくしなかった。妙な空気が漂い始めるのを、「まあまあ」と直武が止めに入る。
「食べ物は、沢綿島へ行ってからでも食べられるよ。だから今は我慢してくれるかな、芳親」
「……、……。……分かっ、た」
表情や声音に残る渋さを隠さず、芳親はかなり嫌そうに諦めると、目線を少々下げて歩き始めた。露店が視界に入らないよう、避けることにしたらしい。
既に見えていた港は、大通りを抜ければすぐだった。沢綿島の青い影を望む港には、漁船と帆船がちらほらと泊まっている。
「クアーッ! クアァーッ!!」
が、にわかに鴎が騒ぎ出したせいで、景色に向けられていた三人の視線は、直武の腕の中へと戻った。当の鴎は一行を見上げることなく、ぐいぐいと首を伸ばして海を示している。
「海に何かあるのかな」
「……みたい。何か、気配、する」
「本当かい?」
いち早く海を見ていた芳親は、問われるなり「うん」と頷いた。
「……多分、船、かな。……近づいて、くる」
目を細める彼を見て、志乃も目を凝らしてみる。しかし、こちらに向かってくる船の姿など見えない。
「……気配だけ、だから……目には、まだ、見えない、よ」
「ですよね。見えていたら見間違いか、俺の目がおかしいということになります。ところで、気配とは妖怪絡みの気配ですか?」
「そう。……離れていても、感じられる、ってことは……強い」
「クアァ!」
何故か鴎が高らかに鳴いて、自慢げに胸を張った。謎の反応に、芳親の顔は一瞬にして疑問で染まる。「何で得意げなんだこいつ?」と書いてあるかのような顔だった。
「その船に乗っているのが、鴎君の仲間なのかもしれないね」
「では、鴎さんは情報伝達か何かで先行してこられたのでしょうか」
何とも言えない芳親の顔に苦笑しつつ、直武がありそうな予想を述べる。さらに志乃が予想を重ねると、芳親の表情がはため息をつきそうなものに変わった。
「……もし、そうなら……何も、情報、伝えられてない、から……大失敗、してる」
「クアァン!?」
言葉にすれば「何だと!?」と聞こえそうな鳴き声が発せられる。鴎はバサバサと暴れたが、芳親は綺麗に無視して、直武の方を見た。
「師匠、どうする?」
「鴎君の仲間が来るのを待った方がいいだろうね。どれくらいで来るかは……さすがに分からないか」
「うん。……だけど、そんなに、遅くはない、と思う」
「では、どこかで待ちましょうか、旦那」
「そうだね」
志乃の提案に直武が賛同すると、突如として芳親の目が輝く。
「少なくとも、飲食ができる店で待つことは無いけれどね」
何か言うよりも先に、笑顔できっぱりと答えられた途端、芳親の顔を不満の雲が覆った。視線でも不満を訴えるが、鴎にすら取り合われない。
「散策でもしようか。志乃君にとっては初めての海に港だし」
「よろしいので?」
「もちろん。正直に言うと私も散策したい。いいかな、芳親?」
「……、…………、……うん」
困ったような直武の笑みに、何かと葛藤した末、折れた。絞り出したかのような彼の返事は苦笑を買ったが、鴎は唯一、呆れたかのような視線を送っていた。
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