手合わせ

 そろそろ昼に差し掛かろうかという頃。第一屯所に袖頭巾を被った女性が来訪した。風呂敷包みを持った女性は、玄関に入ってから頭巾を取り、屯所の奥へと進んで行く。


「――おや」


 ぽつんと声をこぼし、立ち止まる。ちょうど行く先から、見知った顔の山内が歩いて来たのだ。一人らしく、中谷や他の団員の姿は見えない。

 山内もすぐに気付き、小走りで駆け寄って来るなり、うやうやしく一礼した。


「これはどうも、藤鶴ふじつる太夫だゆう

「ええどうも、富太」


 妖艶に微笑む彼女は、夜蝶街一の花魁である藤鶴太夫こと志鶴。化粧をせずとも道行く人を振り返らせる美貌は、華蝶館かちょうかんの最上階にたたずむ大輪に相応しい。


挨拶あいさつは相変わらず一丁前だけど、呼び方が良くないね。今のアタシはただの志鶴だよ」

「失礼しました、志鶴姐さん。親方に何か御用ですか?」

「辻川というか、志乃に用だね。頼まれていた旅装束が出来上がったから、届けに来たんだ。あの子が起きていれば着てみてほしいし」


 ひょいと風呂敷包みを持ち上げ、志鶴は得意げに笑う。花魁の時に浮かべているようなものではなく、姉か母親が持つような温かさを含んだ笑みだ。


「あー、志乃は起きましたけど、取り込み中ですね。麗部うらべ殿と手合わせするらしいので」

「へえ、それはまた。まあ、その手のことには詳しくないアタシがちらっと見ただけでも、ただ者じゃない御仁だったからねぇ。……ん? 富太、志乃が手合わせするってんなら、観戦しなかったのかい? アンタ、志乃が手合わせするときはいつも観てるんだろう?」


 問いかけに、山内はまず不満げな表情で答えた。


「見ますけど、今回は志乃が負けるなって思ったので、見たくなかったんですよ。志乃が気にしなくても、それどころか嬉しがっていたとしても、可愛い妹が負けるところを見たくはないんで」

「ははは、アンタ、そういえばそういう奴になったんだよねぇ。志乃が来る前は人が負けるのを見て大喜びしてるような生意気坊主だったし、あの子が負けるのを楽しみにしてたのにさ」

「志乃の勝ち方は圧倒的なんで、もう勝つことを楽しみにしているだけです。それに、勝ったら撫でてくれ褒めてくれって駆け寄って来ますからねぇ、うちの妹分は。あ、そんな可愛い志乃はともかく、中谷が負けた時は大喜びしますよ」


 晴れやかな笑顔を見せながら、志乃へ向ける溺愛の片鱗を覗かせる山内だが。ここに中谷がいれば、緩んだ顔面めがけて、容赦ない正拳が入っているところである。


「姐さん、このまま帰っちゃうのも勿体ないですし、志乃の手合わせが終わるまで待ちませんか」

「そうしようかね。あの子がぴんぴんしてるところも見たいし」

「じゃ、客間にお通ししますね」


 流れるように荷物を預かり、山内は志鶴を客間へ先導していった。




 ――所変わって、屯所の敷地内にある稽古場。

 先代の長が書いた掛け軸が、主のように床の間で構えるこの場所は、自然と背筋が伸びる静謐な雰囲気に満ちている。だが、中央で相対している志乃と直武は、互いに朗らかな笑みをたたえていた。


「稽古場で先生が笑ってると、もうそれだけで嫌な思い出がよみがえってくるわ……」


 場違いな雰囲気を出す両者を、半目で眺める辻川の呟きに、隣に立つ芳親は同意とばかりに頷いている。彼もまた半目になっていた。


「……ここで、笑ってる、師匠は……信用、ならない」

「お前もしごかれたクチか?」

「……剣術以外にも……色んな、ものの、基礎を……一から、全部……」

「おう、苦労したな」


 この上ない同情を顔に出し、辻川は目が遠くなっている芳親の肩に手を置いた。一方、男二人が慰め合う場面など視界に入っていない志乃は、浮き立った様子で構えている。


「それでは麗部殿、よろしいでしょうかぁ?」

「うん。どこからでもどうぞ」

「では」


 短く言い終えた直後、志乃は凄みが伴った笑みを浮かべて床を蹴った。

 ガツッ、と木刀がぶつかり合う音が、稽古場にこだまする。たったそれだけで、志乃は早くも直武の強さに目を見開いた。


「おぉ、びくともしませんねぇ」


 暢気ながらも苦しげな調子が混ざった声。体がわずかな震えを見せるほど力を込めて押し込んでいるのに、直武の体どころか木刀ですらびくともしないのだ。

 志乃の膂力りょりょくは、普通の人間とは比べるべくもない。全力であれば中谷や山内といった、荒事慣れした団員たちも押し負ける。彼女の怪力を押し込まれて平然と立っていられたのは、今まで辻川ただ一人だけだった。

 一旦、後ろに飛んで間合いを取り直すと、横薙ぎの一閃を繰り出す。これも直武は穏やかな笑みのまま防いだ。間髪入れずに連撃を始めるが、どれもことごとく防がれ、弾かれてしまう。


「……もう終わりかな?」


 再び間合いを取った志乃に、直武は打ち合う前と何ら変わらない様子で問いかける。志乃は少し呼吸が荒くなっただけで、まだ余裕そうな笑みを浮かべていた。


「っはははぁ」


 楽しげな、しかし狂喜を交えた声をこぼす志乃の瞳が、青白く変わった。直後、先ほどより鋭く重い速攻が次々に仕掛けられるが、直武は顔色一つ変えず、全ての攻撃を見事にさばき切った。

 軽業師かるわざしのように身軽に動き回り、華麗ながら重い攻撃を仕掛ける志乃に対し、直武は地に足をしっかりと付け、無駄のない動きで確実に攻撃を受け流していく。

 木刀がぶつかり合う激しい音が響き渡る中、やがて、志乃の顔色に苦いものが表れ始めた。


「――ああ、突かれるな」


 それを細めた目で見ていた辻川がぽつりと呟き、隣で芳親が無言のまま頷く。果たしてその通り、反撃の動きを見せなかった直武が、温和な外見に似合わぬ鋭い突きを放った。


「くぅっ……!」


 危なっかしくぎりぎりで避け、また飛び退る。志乃の表情からは笑みが消えたかと思われたが、すぐに浮かんでいた。先ほどよりも凄みを増して。

 乱れた髪が顔にかかり、弧を描いた口からは牙が覗いている。青白い瞳には苛烈な戦意が爛々らんらんと光り、少女の人ではない側面を露わにしていた。


「ふふふ……あまりにも堅いですねぇ。これでは俺が負けてしまいます」

「そうだね。辻川君が指導しただけはあるけれど、一直線すぎる。それではからめ手に容易く引っかかってしまうよ」


 凄絶な笑みを向けられても、直武は穏やかな笑みのまま、親しみやすい声で指摘する。だからこそ、この老紳士の只者ではない部分が垣間見えてもいた。


「さて。君の実力も測れたことだし、そろそろ正気に戻ってもらおうか」


 中段の構えを取って、直武は浮かべ続けていた笑みを消す。穏やかな光が消えた目が志乃をしっかりと捉え、動けなくした。


「ッ……!?」


 目を見開いた直後、手足の指先一本たりとも動かせなくなる。へびに睨まれたかえるの心地で、志乃は直感した――と。

 構えを取ることもままならず、無防備で隙だらけの志乃に、直武が一切の油断なく間合いを詰める。その動きは最高峰の弓兵に放たれた矢のように精密で、言葉を失うほど美しい。

 ブンッ、と空を切る音が唸り、巻き起こった微風が志乃の髪を揺らす。木刀は志乃の首に触れる寸前で止められていた。彼女の首に狙いを定めた直武の目は、睨んだもの全てをおののかせる猛禽もうきんの目のごとき鋭利。


 ここが戦場で、お互いに真剣を持った敵同士であったならば。志乃の首は、胴体から見事に飛んでいたに違いない。


 ほんの一瞬だった出来事の後、射殺すような視線がふっとやわらぐ。すると、それを合図にしたかのように志乃の膝が崩れた。呆然と見開かれた目は元の黒色に戻り、ぽかんと直武を見上げている。


「……志乃君、口が開いてしまっているよ」


 猛禽から温厚な老紳士の目に戻った直武が、困ったように笑う。声を掛けられてからやっと、志乃は我に返ったように瞬きをした。


「――言葉が出てきません。夢幻ゆめまぼろしを見た心地です」

「うーん、それは言いすぎじゃないかなぁ」


 笑みはそのまま、直武は手を差し出して志乃を立ち上がらせる。その傍に、観戦していた二人が歩み寄ってきた。


「おーおー、猫だましくらったみてぇな顔してんな、志乃」

「はい、自分でもそんな顔をしていると分かります」


 にやにやと笑いながら言う辻川に、志乃は真剣な面持ちで答えた。その顔が、ふっと穏やかな笑みに変わる。


「……親方が勝てないと仰った理由が、よく分かりました。今の俺では到底敵いません。ですが、初めて親方と手合わせをさせていただいたことを思い出しました。あの時初めて味わった『心が躍る』感覚が、今また蘇って来ています」


 そっと胸に手を添え、感嘆に満ちた声で言う。へらへらとして、暢気な雰囲気が普通の志乃にしては珍しい姿で、直武に向き直っていた。


「麗部殿。貴殿にご指導いただけることが、俺にとってどれほど良いことか、よく分かりました。これから、どうぞよろしくお願い致します」


 若武者のような凛々しさを伴って、一礼する。直武もまた、美しい所作で返礼した。


「そう言ってもらえて嬉しいよ。……ところで、志乃君。一つ訊いてもいいだろうか」

「はい。何でしょう」

「私の呼び方は、『麗部殿』で決まってしまったのかな?」

「? ……えーっと?」


 若干眉をひそめて首を傾げる志乃に、直武は慌てて付け足す。


「私は君の指導者になるわけだから、客人のような呼び方だと、ちょっとよそよそしいなと思ってしまってね。もしよければ、別の呼び方で呼んでくれると嬉しいなと。辻川君みたいに『先生』とか」

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」


 疑問が氷解すると、志乃は満足げに頷いた。が、彼女の横から辻川が胡乱うろんな者を見る目を向けている。


「……先生、そういうの苦手にしてませんでしたっけ?」

「そうだったけど……色んな子から呼ばれるうちに、何だかそういう風に呼ばれないと、呼ばれた気がしなくなってきちゃってね」


 照れたように笑い、首に手をやる直武に、辻川は思わず吹き出していた。こうしてほだされてしまうところが、何とも直武らしかった。


「では、芳親さんのように『師匠』とお呼びすることにいたしましょうか」

「それは駄目」


 ずっと無言のまま、ぼうっとしていた芳親が、思わぬ素早さで反応した。


「……僕が、師匠って、呼んでる、のは……みんなが、先生って、呼ぶから……師匠が、僕だって、すぐに、分かるよう、区別のため」

「おや。それは失礼いたしました」


 特に文句を言うこともなく、志乃はあっさりと引き下がる。


「ですが、『先生』では多くの方と被ってしまうのですねぇ。……となると、『旦那』でしょうか。麗部の旦那とお呼びしても?」

「ああ、旦那とは呼ばれたことがないなぁ。うん、是非そう呼んでおくれ、志乃君」


 嬉しそうに笑った直武に、志乃もまた笑顔で頷いた。手合わせで見せた凄まじい気迫など、幻であったかのように。


「――失礼いたします!」


 和やかな空気が流れていた中に、張り詰めた声が響き渡る。四人が声のした方、稽古場の入り口を見ると、昼番の団員が一人立っていた。「どうした」と辻川が団員に歩み寄って行き、何やら伝えられると顔だけで振り返る。


「志乃! お前に客だ、志鶴だと」

「志鶴姐さんですか?」


 志乃は直武と芳親に一礼した後、すぐに入り口の方へ駆け寄っていくと、団員の先導で客間へと向かって行った。

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