辻川と志乃

 ――十一年前、春のある日のこと。


 目を離したわずかな隙に、机上に差出人不明の手紙が突如として置かれていた、というか現れた時。辻川は驚くことも恐れることもなく、ただただ面倒な予感を察知していた。

 夜蝶街に来る前、守遣兵しゅけんへいとして仕事に励んでいた辻川は、妖怪に顔を覚えられることが多々あった。そういう奴らから面倒ごとを押し付けられることも。この手紙もその部類だと、彼は一目で見抜いていた。


「ここ、黄都こうとじゃなくて翠森すいしん、しかも妙後たえごなんだけど……」


 要は距離がかなりあるということ。もっとも、妖怪に距離や難所などあってないようなものだ。あちらにはあちらの道がある。

 黄都府を離れてから、六年ほどが経とうとしている。その間、勝手に顔見知りだの友人だのと呼んでくる妖怪からの、同じく勝手な接触は何も無かったのだが……。

 ともかく。とてつもなく嫌そうな顔をしながらも、辻川は差出人不明の手紙を開いた。

 透かし模様が入った、品質共にかなり良い紙が使われている。目の前に突然現れてさえいなければ、高い身分の人物から送られてきたのかと思ったかもしれない。そんな知り合いはいないが。

 手紙に差出人の名は無く、流麗な字で一文だけ認められていた。


『明日から、俺の可愛い子をよろしく』

「……、はあぁ?」


 思いっきり顔をしかめて、辻川は苛立ちのこもった声を出す。何を言っているのか、全くもって意味不明だが、紙と字から差出人の見当はついた。


「……絶対、雷雅らいがの野郎だな……」


 へらへら笑う妖怪の男を思い出し、苛立ちを通り越していきどおりに満ちたため息をついた。あちらにいた頃、直接も迂遠うえんも問わず迷惑をかけてきた相手だ。辻川としては、殺意を抱かないだけ感謝してほしいところである。


「ってか、子って何だよ、子って。妖怪は繁殖しねぇだろ。どうせ妖雛ようすうか子分みてぇな妖怪だろうけど子って何だ。性別も分かん……あいつそれが狙いか! 相変わらずくっだらねぇことしやがる……」


 ぶつぶつと文句をつぶやいていた辻川だが、手紙を棚に仕舞うと、再び盛大なため息をつく。押し付けられた以上は逃げられない。放っておけば、後々問題になると目に見えている。

 だから、翌日。隠居していた先代の長を引っ張り出して仕事を任せ、辻川は街を隅から隅まで巡回することにした。


「面倒なことにはならんでくれよー……」


 飛び上がった屋根の上、ため息交じりにそうこぼす。それを合図にして、手紙にあった「可愛い子」の捜索が始まった。

 彼が来る前に比べれば、夜蝶街の治安は向上している。けれど、闇にまぎれて悪事を働く者は絶えないため、「可愛い子」は早く保護する必要があった。男なのか女なのか、どれくらいの歳なのかと、不明な点ばかりだが。


「――の、この、化け物ぉぉぉッ!!」


 探し始めて半刻ほど経った頃、どの大通りからも離れた路地裏から、怯えたような怒号が上がった。

 辻川は即座に、声がした方向へ足を向ける。大柄な体に似合わず、軽々と屋根を飛び移って、狭い路地へとたどり着いた。

 月光だけに照らされる路地には、かぶいた格好の男が三人倒れている。周囲には彼らのものらしい刀が三振り転がっていて、誰かを襲おうとして返り討ちになったらしいと何となく窺えた。

 男たちから見て前方へ目をやると、こちらを見上げる青白い双眸そうぼうと視線が合う。明らかに常人ではない瞳の持ち主は、性別が分からない幼子だった。

 この子どもが手紙に書いてあった「可愛い子」だろう。ほぼ確信して、辻川は子どもの傍に危なげなく降り立った。


「何してんだ、お前」


 問いかけてきた辻川に、子どもはにっこり笑ってみせる。両頬に傷があるため、あまり人相が良いとは言えない彼を、全く怖がっていないらしい。


「どうもこんばんは、お兄さん。こちらの方々をどうしたものかと考えていたんです」


 弧を描き、小さくも鋭利な牙が覗く口から、子ども特有の高い声が発せられる。音色から性別は判じられず、丈の短い藍色の着物も、手掛かりにはならなかった。


「なるほどな。……でも、何でこいつらは伸びてやがるんだ」

「俺に喧嘩を売ってくださったので、買い上げさせていただいたんですよぉ。ですが、途中から抜刀して斬りかかって来られまして。危ないですから、少しばかり気を失ってもらいましたぁ」


 へらへらと笑う子どもに、辻川は思いっきり呆れた顔を向けた。それでも笑っているところを見るに、彼が呆れている理由どころか、呆れられていること自体を分かっていないかもしれない。

 ところが子どもの表情は、一拍遅れて不思議そうなものに変わる。


「全く違う話になるのですが、お兄さん。俺の目はどうなっていますか?」

「目? 青白く光ってるけど。ついでに口には牙もあるな。しゃべり方もガキらしくないし、どう考えても普通じゃねぇ」

「俺のことが不審ではないのですか。そちらのお兄さんたちは、そう仰っていたのですが」


 嘘をついているわけではないのだろうが、口調も、目を丸くする素振りも、わざとらしく見えてしまう子どもだった。一昔前の辻川なら、「そのムカつく態度やめろクソガキ」とでも言っていたかもしれない。


「まあ、常人じゃねぇわな。だけど、俺はそういう奴を普通よりたくさん見てるから、別に不審でも何でもない。それよりも、お前は何でこんなところにいたんだ? 返答によっちゃ保護しなきゃなんねぇんだが」

「理由はありません。気付いたらここにいましたから」

「うん、保護だな」


 笑顔で放たれた即答に、呆れと若干の苛立ちを込めた即答が返される。子どもは再び不思議そうな顔をして首を傾げた。


「何故ですか」

「理由もなく路地裏うろついてるガキなんて、保護対象以外の何でもねぇよ。っていうか、気が付いたらここにいたって何だ。ここに来るまでの記憶が何も無いのか?」

「そのようですねぇ。名前と歳しか分かりませんので」


 微塵みじんの危機感もなく、あっけらかんと笑う子どもに、辻川は頭痛を覚え始めた。手紙に書かれていた「可愛い子」ではなかったとしても、この子どもは保護しておいた方が良い。いや、しなければならない。


「じゃあ、その二つを教えてくれ」

「はい。名字は分かりませんが、名前は志乃と言います。今年で六つになりました」

「志乃、ってことは女か。初枝と志鶴に頼らねぇとだな」


 知り合いの顔を脳裏に浮かべつつ、辻川は懐から連絡用の花火を取り出し、真上へと投げる。何の前触れもなくやったのにも関わらず、志乃と名乗った子どもはびくりともしない。


「ちょっと待ってろ。こいつらの回収と一緒に、お前も保護するから」

「分かりましたぁ」


 返答の声が微風で吹き飛んでいきそうなほど軽くても、辻川は気にしなかった。落ちていた刀を回収して戻って来る。その際、人であって人ではない少女を、今度は真正面から見た。

 先ほどまでのやり取りの声にも、幼い顔に浮かぶ笑みにも、空虚な影が付きまとっている。そういう人物を何人も見てきた辻川は、この子どもに、懐かしさじみた何かを抱いた気がした。


「? 俺の顔に、何か付いていますか?」

「いや、何でもない。ああ、そうだ、言い忘れてたな。俺は辻川忠彦って名前だ。この街の自警団の長をやってる」

「そうだったのですか。では、偉い方なのですねぇ」

「まあ、敬語を使う相手が限られるくらいには偉い」


 堂々とした返答に志乃は笑うものの、本心からというわけではなさそうだ。辻川が考える傍ら、笑ったままの彼女の腹が、大きく長く鳴り響く。


「何だ、夕飯食ってねぇのか」

「夕飯? ああ、何かを食べることですか。だから、ずっとこの音がしていたんですねぇ」

「……、は?」


 辻川が言葉の意味を理解するより前に、志乃は笑顔のまま、静かにゆっくりと倒れ込む。


「そういえば俺、何も食べていませんねぇ。あははぁ、何だか力が抜けてきましたぁ」

「……、はあぁぁぁ!? てめっ」


 そういうことは早く言え、と言おうとしたが寸前で呑み込んだ。志乃の返答が「訊かれませんでしたから」一択だと察したので。


「っ……ええい、結局は面倒事になるのか。おい、しっかりしやがれ。これから見回り番の屯所に連れてくからな!」


 片手に刀、片手に少女を抱え、それでも辻川は身軽な時とほとんど変わらない速さで走る。そして、屯所に着くなり津田姉弟に志乃を預け、志乃を見つけた現場にとんぼ返りする羽目になったのだった。




 昼四ツ、巳ノ刻を告げる鐘の音が、辻川を懐古から客間へと引き戻した。ぼんやりと耳を傾けていると、縁側で中庭を眺めていた志乃が彼の方を向く。


「親方ぁ、どうかなさいましたか?」

「お前と会った時のことを思い出してた」


 純粋に不思議がっている子どもの顔に、辻川は無気力な目をやって答える。


「俺を拾っていただいた時のことですか? なにゆえ?」

「子どもが成長すると、親は感傷に浸るもんなんだよ」


 ぴんとこないらしく、志乃は首を傾げていた。昔より長く綺麗になった髪が一緒に傾き、支えをなくして微風に揺れている。けれど、空虚が付き纏う表情を浮かべる顔は、全くもって変わっていない。


「……お前、全く変わってねぇよなぁ」

「えっ。俺、まだ弱いんですか?」


 そういう心情について、まるで気づいていないところも変わっていない。既に呆れのため息をついていた辻川だったが、もう一度ため息を重ねた。


「そっちじゃない、性格だ性格。何かに興味関心は持たねぇわ、衣食住すらどうでもいいわ、喧嘩を売られれば喜ぶ上にすぐ買って勝つわ、その他諸々。任せるのは問題ないだろうが、正直言って先生に迷惑かけるのが目に見える」

「うぐっ」


 散々言われてきたため、さすがの志乃も指摘を受ければ気にかけるようになっている。何も考えず、何も響いていないように見えて、この少女は意外とさとい。


「で、でも、その食については、しょうがなくないでしょうか。俺は酒以外の味を全く感じませんし」

「だからって、腹が鳴っても何も食わずに放っておいた挙げ句、そこらへんで倒れたところを回収されるなんて馬鹿の所業は見逃さねぇし、忘れてやらねぇからな」

「うぐぅっ」


 来たばかりの時によくやらかしていたこと、今では自分ですら「何をやっていたのか」と呆れてつつあることを容赦なく撃ち抜かれて、志乃は苦々しいうめき声を漏らした。


「大体、お前未だに誰かから言われねぇとメシ食わねぇだろ。中谷からも山内からも報告済みだ」

「あうぅ……」


 兄貴分たちも引き合いに出せば、効果覿面てきめん。辻川と並び、妖雛であることを忘れさせるほどの懐きぶり見せている分、中谷と山内も志乃の弱点だった。


「厳重に、注意、します……」

「注意じゃねぇ、忘れないようにしろ」

「はい、肝に銘じます」


 項垂うなだれる志乃に、やれやれとでも言いたげな顔をする辻川だが。空虚な少女の性格を変えることは難しいと、誰よりも深く理解していた。志乃の性格、性質は、妖怪のそれに近いが故に。

 自分自身、周囲の万物と万人。妖怪はそれらに強い興味を示すことがとても少ない。前者は不老長寿ゆえ、変化がとぼしくつまらない。後者は昼寝から覚めればいなくなっているようなはかない存在ゆえ、またすぐにつまらなくなる。だからこそ、よほど強く興味を惹かれない限り、妖怪はこちらへ干渉してこないのだ。

 辻川たちと過ごしたことで、拾われた当時よりは大分マシになっているものの、志乃は相変わらず自他への興味や執着をほとんど持たない。誰かが拾わなければ、衣食住にも興味を示さなかっただろう。それどころか、自分の将来や生死すら、思考に乗せさえしなかったかもしれない。


「ま、さすがにぶっ倒れるなんてことはねぇだろうけどよ。ほれ、先生がもうすぐ来るだろうから、隣座れ」


 志乃はどこか情けない顔のまま、辻川の隣に寄って座る。まだうつむいている頭を、少々乱暴に撫でてやると、途端に志乃は元気を取り戻す。


「えへへ、えへへ、にぇへへへへ」

「……その笑い声、もうちょっとどうにかなんない?」

「無理ですねぇ。えへへへ」


 くすぐったそうにしながら間抜けな声で笑う志乃に、辻川は少し苦い微笑を見せる。撫でられることが好き、というのは、ただの幼子のようで微笑ましい。


「あ、悪い。髪ボサボサになったな」

「んぇ? あぁ、大丈夫ですよぉ」


 ふにゃふにゃとした笑顔のまま、志乃は髪を結い直す。手慣れたその動作も、初枝や志鶴といった女性たちに結われていた時を知る辻川からすれば、ずいぶん成長したと思える動きだった。


「失礼します。お客様をお連れいたしました」


 ちょうど髪を結い終えたところで、外から声がかかる。それを聞くなり、志乃がすっと背筋を伸ばしたのを見て、また辻川は微笑した。変化は乏しいが、ちゃんと成長はしている。


「お通ししてくれ」


 頭としての威厳を纏った表情が、辻川の顔に浮かぶ。彼の横顔を、志乃が密かに、どこか誇らしげに、口角を上げて眺めていた。

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