第二章 出立

討伐の後

 夜蝶街やちょうがい南方に現れた物の怪の討伐は、大きな損害を出すことなく完了。あまりの事態収束の速さに、街の住人たちは揃って拍子抜けしつつも安堵していた。

 小規模でも、対処を誤れば街一つ壊滅させかねない物の怪が早急に討伐されたことは、人々にとって最良の結果をもたらした。しかし立役者たる妖雛ようすう二人は、討伐が終わって以降、長らく眠りについていた。


 ***


「――そのうち、なけなしの心が無くなるぞ、あれは」


 どこかで聞いたことがあるような男の声がする。声しか分からないが、少し苛立っているらしい。

 誰の声なのか確かめたかったが、真っ暗で何も見えない。唯一見えているのは自分の体だけだが、何故か幼くなっている。

 丸みを帯びた小さな手足を見ている間にも、声は続けて聞こえてきた。


「お前のせいで普通の妖雛よりも異常になっているが、だからといって戻さないわけにもいかないだろう。あちらには物好きとているのだから」

「分かってるよー」


 説教をするような声を、のんびりとした別の声が遮る。その声も男のもので、先ほどの声と同様に聞き覚えが、というよりは聞き馴染みがあるような声だった。


「もうどこに戻すかも決めてある。ほら、人間にしては意味分かんない強さの、四大武家の奴らみたいな子がいたでしょ。妖雛の子と仲良しでさー。名前何だっけ……あぁ、忠彦ただひこだ、忠彦。辻川忠彦。あの子が夜蝶街にいるっていうから、そこに戻すことにしたー」

「夜蝶街? どこだ」

翠森すいしんじゃなかったかなぁ。とりあえず黄都こうとじゃないことは確かだよー」


 のんびりとした声の主は、へらへらと笑っているのまで見えてくるかのような声音と口調をしている。実際、言葉の後に笑っているらしい声がしていた。


「でも……嫌だなぁ。うん、嫌だ。親って子どもを手放す時、こんな感じなのかなぁ?」

「知ったことか。所詮しょせん、お前のそれは真似事に過ぎないだろう。気まぐれに寝て起きれば忘れる、その程度のものだ」

「あははは、そうかなぁ」


 軽くて空虚な、けれど明るさだけはある笑い声。本気ではない笑顔までもが見える声。どうしてか、ずっと聞いていたくなる声でもあった。


「寝て起きて忘れる程度なら、〈特使〉のことなんて調べ直さないよぉ。……本当に何も知らない?」

「お前に分からないものが、私に分かるとでも思っているのか?」

「そっかー。じゃあ、直武あたりに訊きに行こうかなぁ」

「お前のことだから、どうせ、それもすぐ忘れるだろう」

「だーかーらー、忘れないってばー。可愛い娘のためだもの。親ってそういうものなんでしょ? ……ところで」


 不意に、のんびりとした声がこちらに向けられた。相手の顔は見えないのに、見られているのが分かる。


「その可愛い娘の志乃は、そこで何してるのかなぁ?」




 誰の姿も捉えることなく、志乃は改めて目を覚まし、現実に戻って来た。同時に、背が布団の感触を伝えてくる。

 視界にあるのは天井。き出しの無骨なはりに、照明器具がぶら下がっている。異界から流れ着いたものを参考にして作ったという、何本かの曲がった枝を持つ風変わりな代物だ。そんなものがあるのは、志乃が知る中では白灯堂はくとうどうの室内だけ。


「……ん? 志乃、起きた?」

「はい、起きました」


 横から飛んできた声に、驚くことなく平坦な声で答える。少し間を置いて、初枝が志乃の顔を覗き込んできた。


「おはよう。気分はどう?」

「異常なし、です」


 ゆっくりと上体を起こして伸ばすと、志乃は室内に視線を巡らせる。

 真っ先に見えたのは、空の病床がいくつかと、壁一面を丸々と使った広大な薬棚。ここが白灯堂の診療室だと一目で分かる景色だ。その他、ちらほらと置かれている謎の物品たち、異界の国々から流れ着いた品々が妙に溶け込んでいるのも、この部屋の特徴である。


「今は……昼間、ですか?」


 一通り見回した後、志乃は不思議そうに問うた。彼女の背後からは日が射し込み、光と一緒に暖かさも取り込んでいる。振り返ればささやかな庭が見え、生き生きと枝葉を伸ばす草花の匂いが漂って来ていた。


「そうだよ。五ツ半過ぎだね」


 落ち着かない猫のようにきょろきょろとする志乃に、初枝はにやりと笑って答える。


「あんたは昼間に起きることがまず無いから、変な感じでしょ?」

「ええ、まあ……」


 普段なら寝ている時間帯に起きている。妙な感覚に、志乃はそわそわしながら頷いた。しかし次の瞬間、突如として目を見開いた。

 頭が急速に冴えて明瞭めいりょうになり、記憶が鮮やかに舞い戻ってくる。異形の狼の群れ。闇夜に咲く鮮やかな牡丹。巨大化した物の怪。そして。


 ――志乃。『これから言うこと、忘れないでね』。


「……何か思い出した?」


 笑みを消した初枝が、落ち着いた声音で問いかける。「はい」と答えた志乃の声はかすれていた。


「姐さん、物の怪はどうなりましたか」

「ちゃんと討伐されたよ、三日前にね」

「……へ? 三日?」


 予想していなかった早さと内容の返答に、志乃は間抜けな声と顔をさらす。初枝は「そ、三日」と繰り返し、にっこりと笑ってみせた。


「あんたが、芳親って子と物の怪を討伐したのが三日前。見回り番と守遣兵しゅけんへいで、後始末と街の修復、そんでもって人を戻したのが一昨日と昨日。昨日のうちに守遣兵は転送陣てんそうじん洛都らくとに帰って、そして今日、あんたが目を覚ましたってわけ」


 寝ている間に起きた出来事を簡潔に、かつよどみなく話され、志乃は目を瞬くばかりだった。当然ながら実感はない。芳親に不思議な声音で話しかけられたところまでが、思い出せる全てだ。


「いやぁ、大変だったよ。あたしは白灯堂と屯所、それから華蝶館かちょうかんの手伝いだけで済んだけど、幹次みきつぐは男手がいるってんで、見回り番と一緒に東奔西走してたからね。昨日の夕方、床に倒れ込んでたくらいだったから、今日は休んでもらってるよ」

「ということは。今日、姐さんはお酒を飲めないのですね」

「一番に思いつくのがそれかい。まあ、合ってるけどさ……あっ、そうそう。麗部うらべ殿、だっけ。その人がまた訪ねてくるから、あんたも会えって辻川が言ってたよ。とりあえずあいつのこと呼んでくるから、着替えて待ってな」

「分かりました」


 言われながら、志乃は箪笥たんすから取り出された着物とはかま、髪紐を受け取る。次いで、くしと鏡も貸し出されたが、その際に胡乱うろんな目を向けられた。


「あんた普段、これどっちも使ってるだろうね、志乃?」

「もちろん。志鶴しづる姐さんに教わりましたから」


 胸を張って堂々と答える志乃に、初枝はくすりと笑みを零した。

 志鶴というのは夜蝶街一の花魁おいらんの名。外見に一切の関心を見せず、男性の恰好と所作しかしない志乃に、身だしなみと女性の所作を叩きこんだ、ある意味で師匠の一人である。


「ならばよし。じゃ、辻川のこと呼んでくるねー」

「はい」


 初枝を見送ると、志乃は手早く、かつ丁寧に髪をいて結い上げる。髪が立てるかすかな音や、布が擦れる小さな音に耳を澄ませていると、次第に思慮の海に沈み始めていた。

 泡が弾けるように、様々な声が脳裏に現れて消えていく。どれも男性の声だ。二か月前に聞いた辻川の声、三日前に聞いた芳親の声。起きる前に聞いた、二人の男の声。前者は言葉の内容まで憶えているが、後者は声音くらいしか憶えていない。

 声音くらいしか憶えていないというのに、空虚な笑いをこぼしていた男の声を、何故か長いこと聞いていたいと思っていた。そう感じさせるのは辻川たち、世話になったことで好意を覚え抱けた、夜蝶街の面々が発する声も同じ。


「……。……十一年前、以前」


 ぽつりと落ちた言葉が、唯一の心当たりを示している。

 志乃が夜蝶街にやって来たのは、十一年前のこと。それよりも前に接触があったのだろう誰かしか、思い当たる人物はいない。もっとも、彼女には夜蝶街に来るより前の記憶が一切無いため、その誰かがどんな存在なのかは分からないのだが。

 憶えていない誰かのことを考えるのは、初めてではない。何の前触れもなく、それらしい人物のことを夢に見る時もあった。そういう時は、聞こえてきた声が頭から消えてしまうまで、声の主に名の無い思いをせていた。

 ぼうっと、透明な思いを巡らせていると、「どうしてここにいるのだろう」と、いつの間にか思うようになっている。まさに今も。


「……」


 視線が、何となく庭に向いていた。

 陽光を受け、生命の色彩を痛いほどに放つ庭は、小さく狭いながらも、現世うつしよの象徴のようだ。傍らにあるそれを、遠く感じる。絵中の別世界を見ているかのように。辻川から贈られた言葉を思い出す度、おちいってしまう感覚もよみがえる。

 ここを、ここに暮らす人々を、好きなことは確かだが――ここは、俺のいる世界ではない。抱く好意もまた、同じではない。


「あ」


 そこまで沈むと、意識が急浮上して戻って来る。違うと抗議をするかのように。蝶が集う花々の街、花のような人の命、人の世。そのそばに、最中さなかに居るという意味で贈られた、「花居」の名。それがいつも、拾われ者の妖雛を、こちら側へ引き戻す。


「っと……。……、……んん?」


 我に返ると、志乃は眉を寄せて首を傾げる。――はて。自分は今、何か考えにふけっていただろうか、と。


「……まあ、よくあることでしたねぇ、俺には」


 独り言をつぶやいて、身だしなみを整える。彼女の一連の様子には、人でないものが人に化け直しているかのような、しかし目を離すことが出来ない、奇妙な不気味さが付きまとっていた。


 ***


 草木の濃い匂い、湿った土の匂い、わずかな肌寒さと湿気。肉体を通して伝わる諸々の感触の答え合わせに目を開く。伝わった情報通り、芳親は泊っている宿屋の部屋ではなく、霧の満ちる森の中に立っていた。

 前方には、大きな山犬が座っている。大きすぎる体の他にも、新雪のような白い体毛に金の瞳、顔にある牡丹の模様と、現世の獣には決してあり得ない特徴を持った山犬だ。


『……制御の面を付けずに戦うなと言われただろう、芳親』


 ゆっくりと開閉する山犬の口から、深みのある女性の声が発せられる。口調も声音も、弟妹をたしなめる姉のようだった。


幽月かくりつきの娘にも言えることだが、お前の力は現世に合わせ直しても、人の身には余るものだ。今の段階では、制御無しに扱うのが危険な力でもある』


 金色の目でじっと芳親を見据え、おごそかに言葉を紡ぐ山犬。芳親は聞いているのかいないのか分からない無表情だが、大人しく言葉を受け止めていた。


『そもそも、あの娘には喧嘩を売るなと、直武から言われていただろう。目先の欲におぼれて言いつけを守れぬとは、その年ならば恥ずべきことぞ』


 ため息交じりの声に、芳親はしゅんとしてうつむくという、叱られた子どものような反応を見せた。


『お前は精神が幼い。それはこちら側に長くいた弊害でもあるが……完全にそちらへ戻って十二年も経つのだ。いつまでもそのままではいかん。

 心の幼さは弱さに繋がる。お前は力の研鑽けんさんより、心の研鑽に励む方が良かろう。直武が指名されたのも、元々はお前の心を鍛えさせるためなのだからな』


 言い終えると、話はそれだけとばかりに山犬は腰を上げる。獣ながらどこか優美さを感じられる姿は、知識や経験が豊富な貴婦人を思わせた。


『今回のことは、本体を通して主にも伝える故、同じ失態を繰り返さぬように。良いな?』

『……はい』


 弱々しい芳親の返答に、しかし山犬は口の端を吊り上げる。芳親に背を向けて歩き出すと、周囲の森がざわざわと木の葉を鳴らし始めた。

 森のざわめきは山犬が遠ざかるのに合わせて大きくなり、激しさを増していった。芳親が目を閉じて聞き入っていると、聞きなれた声がその中に混じって聞こえ始め、だんだんとそちらが大きくなり始める。


「――それじゃあ、後程」

『ええ。お待ちしてます』


 直武の声と、数度聞いただけの辻川の声が、はっきりと聞こえた。後者は奇妙な響きを持っていたが、連絡を行うための呪具を通したからだろう。呪力の波が、別の場所にいる辻川の声を届けているのだ。

 ぼんやりと把握しながら、芳親はぱちりと目を開く。

 今度は森ではなく、泊っている部屋の天井が見えた。もぞもぞと起き上がると、傍らにいた紀定が振り返ってくる。


「お目覚めになりましたか、芳親殿。おはようございます」

「……おはよう。……僕、どれくらい、寝てた?」

「三日です」

「……、……そんなに?」


 眠たげだった目を見開き、珍しく上ずった声を出す芳親だが、その表情はすぐに引っ込んだ。


「……あー……そうでも、なきゃ……夢で、姉上が、出てくるわけ……ない、か」

「? 芳親殿、姉上とは? 兄君がいらっしゃることは存じ上げていますが」

「……現世では、ね。……常世には、姉上が、いる。……人間に、置き換えたら……そうなる、って、だけ……なんだけど」


 答えながら、芳親は直武の方に体を向けた。真剣な光を宿した眼差しを、彼へと向ける。


「……師匠」

「うん」


 何だい、とは問われない。小箱の形をした呪具をしまって、直武は分かっていたかのように振り返った。一見、彼の顔は穏やかだが、芳親は手をついて頭を下げる。


「……大変……申し訳、ありません。……言いつけを、破り……師匠だけで、なく……他の人、にも……ご迷惑を、おかけ……しました……」


 たどたどしくも、自省一色に染まった声で紡がれる謝罪。優しさや穏やかさをひそめた厳しい目で、直武は頷いた。


「ああ。物の怪の討伐は成功したが、お前は私の言いつけを二度も破ったし、私だけでなく、辻川君や井本君にも迷惑をかけた。志乃君と喧嘩をしたいという欲に負けてね。これは、そう簡単に許してあげられないことだ」


 いつもとは違う淡々とした口調で、教え子に語り掛ける。普段は温厚な直武だからこそ、その冷たい態度は大きな威力を持っていた。


「これから辻川君の元を訪ねる。まずは、彼にもきちんと謝罪をしなさい」

「……はい」

「訪問が終わって戻ってきたら、説教もするからね」

「……、……はい」


 説教と聞くと、芳親は伏せた目を泳がせ、顔に僅かな緊張を走らせた。そういうところを覗かせると、人外めいた雰囲気が薄れ、代わりに子どもっぽさが出てくる。

 叱責の話は一旦終わり、直武の顔に穏やかな微笑が戻って来た。


「それじゃあ早速だけど、支度をしてくれるかな。さっきも言った通り、辻川君を訪ねるよ」

「はい」


 頷くなり、芳親はすぐ布団の片付けと着替えに取り掛かって、瞬く間に支度を終わらせてしまった。普段のゆるゆるした姿からは想像もつかない速さに、紀定がひそかに呆れのため息をつく。いつもそうしてくれればいいのに、と。


「……師匠、行ける、よ」

「それじゃあ行こうか。紀定、留守番を頼んだよ」

「はい」


 驚いていたのもつか。声をかけられるなり、いつもの礼儀正しさを取り戻して、紀定は深々と二人に頭を下げた。


「お二人とも、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「うん。行ってきます」

「……行って、きます」


 丁寧な言葉を使っていながら、どこか緩い雰囲気を出す二人に、つられて紀定も頬を緩める。そんな彼に見送られ、直武と芳親は部屋を後にした。

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