第八話 煙草
俺は彼の腕を引き、ひたすら来た道を戻っていた。重かった足取りが嘘のように軽い。心臓の音が自分でも聞こえるくらいどくどくと脈打っていて煩かった。
「あの、俺君の…」
彼の少し息が上がった声が聞こえ、我に返った。パッと手を離すと、彼はジャケットを正した。彼の腕を引いたまま、だいぶ戻っていたようだ。彼は呼吸が乱れ、肩が上下していた。俺は彼を見つめたまま身動きが取れず、何か話さなければと考えれば考えるほど訳が分からなくなった。
呼吸を整えると、彼が俺を見上げて言った。
「腹減ってるのか?傲るよ。」
ははっと笑った彼はそのままゆっくり歩き出し、俺はそれに続いた。
「いや、助かった。さっき居酒屋にいた子だね。あの時は煩くして悪かったね。おじさんびっくりしたよ、イケメンに連れ去られる経験って案外いいな。」
彼は楽しそうにそう言ったが、それが上辺だけで愛想の良いことを羅列しているのが俺には分かった。いつも俺が他人にしていることを彼がしているのが伝わった。
初対面の若い男に夜中に強引に引っ張られ警戒するのも当たり前だ。しかし俺を怖がっている素振りはないし、確かに傲ると言った。ただの社交辞令か、噓か、もしかしてゲイなのか。考えても分からない。
「すみません。俺、勢いであんなことしてしまって。」
畏まった面白みのない謝罪しか出なかった。先程まで勢いだけで出てきた言葉たちが急に引っ込み、口の中がカラカラに乾いてしまった。いつものように相手を探る言葉を投げかけたらいいのにそれが出てこない。
こんな夜に知らない道で知らないおじさんと二人で一体何をしているのだろう。ただこの男に誘引され、蛍光灯に群がる蠅のように意思はなく衝動だけだった。
頭を働かせようにも、上手く機能していない。彼を離した右手のひらはじっとり汗をかいていた。
「いや、実際困ってたから助かった。あそこでちょっと煙草吸って良い?」
彼は喫煙所を指さした。何人か、若い男女がそこで煙草を吸っていて、一人はしゃがみこんでいた。静かな喫煙所はひっそりと夜の街に溶け込んでいた。
「いいですよ。」
彼はそこにすっと馴染んだ。喫煙者達は各々物思いに耽っているのか、吐き出す白い煙だけが冷えた夜空に消えていく。夜中の肌寒さと静けさでその空間がより寂しいものに映った。俺は寒さを感じる程度には冷静さを取り戻していた。
彼は上着の内ポケットから煙草を取り出し、少し猫背になって、手で風よけを作りながら火をつけた。風が強く何度か失敗し、その度にライターのカチッという音が妙に響いた。
俺は彼が煙草を吸う姿をなぜか目で追っていた。眉間に皺を寄せ吸い込み、目を閉じてゆっくりと白い煙を吐いた。その姿を見ていると、今にも彼がこの夜の闇に煙と共に消えてしまいそうな感覚に陥った。
中指と薬指の間から下に伸びる血管がくっきり浮き出ていて、彼がしっかりと存在しているのだなと、分かりきっているのに確認した。
煙草を持つ左手には指輪はなかった。
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