第七話 衝動

あの男がいるか、考えるより先に体が動いた。耳障りな声がする方を勢いで振り返った。そこにはちょうど店から出てきた草臥れた彼がいた。

彼を見た瞬間、体がぞくっと虫が這っているような感覚がした。

ブラウスの女は彼に撓垂しなだれ掛っていて、甲高い声の男は酔ってはいるようだが、二人を少し居心地悪そうに見ている。その後からもう一人男が出てきて人数は四人だった。二次会だったのだろう。時計を見ると二十三時三十分。終電にはまだ余裕があるが、彼女はそれに乗るつもりはないのだろう。

俺の中で今まで感じたことがない、形容しがたい何かが湧き上がった。

至近距離で振り返ったこともあり、不振に思われるかと今更ながら焦り、端に少し寄ったが彼らの視界に入っていなかったようだ。酔っ払いは周りが見えていない。

彼は少し困っているように見えた。甲高い声の男も帰る気はない雰囲気だ。店前でその女をどうするか話しているのか、聞き取れないが話し合っている。

草臥れた彼は時計を見て、女に何か話しかけていた。女を心配している様子だが、持ち帰りたい様子は全く感じられなかった。彼からは性的なものを感じない。

俺は普段なら絶対にしない行動にでた。それは衝動で、その先どうなるのか何も考えていなかった。


「おじさん?」

俺は彼らに近づき、彼に話しかけた。彼はびっくりしたようで、自分のことだと最初気づいていなかった。目が合い、彼がはっとしたのが分かり、居酒屋でのことを覚えているのだと確信した。外気は冷たいのに、寒さを感じない。ただ熱い。

近くで見ても、整った顔だった。俺は目が合った瞬間、時間が一瞬止まった気がした。

俺を少し見上げている彼の睫毛の一本一本まで鮮明に見える。彼が瞬きする度にぱちぱちと音すら聞こえる気がした。目の下が少しくぼんで色素沈着していた。目尻にはうっすらと皺が見えた。

漆黒の瞳が俺を見つめていて、体中の血液が急に動き回り、指先足先まで熱くなっている。

返事を待たずに話し続けた。

「こっちめっちゃ人多いな。おじさんに会えるなんて思わんかったわ。まだお腹空いてんねん。なー傲ってくれへん?」

彼は俺を見上げたまま眉間に少し皺を寄せ、口を少し開いた。ほんのり薄ピンクの薄い唇に目が行く。パクパクと動いたが、言葉は出てこない。

俺はそのまま勢いに任せた。

「お姉さんおじさんの彼女?」

ブラウスの女も俺を見上げていて、彼から離れ一人でちゃんと立っていた。やはりこの女は酔った振りだったに違いない。


鹿島かしまさんの甥っ子さんですか?」

近くで聞くとそこまで甲高く感じなかった。声も小さくなった彼は背が高く同じ目線だったが、驚きで細長い目がこれでもかと見開かれていた。

「おっちゃんおじさんの部下の人?」

笑顔で聞いた。脳は機能していない。今話しているのが自分ではないような気がしてくる。

「ああ。鹿島さんは上司で、すごく良くしてもらってて…」

「めっちゃイケメンな甥っ子さんですね。」

もう一人の若い男が笑いながら会話に入ってきたが、鹿と女は俺を見上げ、何も発しない。

「お姉さん彼女なん?」

上から圧をかけるように彼女に問いかけた。

「ち……違うよ。鹿島さんには私もすごく…」

俺を見上げるその女の上目遣いを見ているとなぜか腹が立った。俺は、自分が何をしているのかあまり分かっていなかった。熱くなってしまったその手で彼の腕を取った。

「おじさん。お腹減ってんねん。頼むわ。」

強引に引っ張ると、彼はそれに従った。

「……ごめんね。皆終電あるよね。気をつけて帰ってね。」

彼はそれだけ言うと、そのまま俺に腕を引っ張られたまま、ついさっき俺が一人で歩いた道を二人で足早に歩いていた。


意外と低いその声は少し擦れていて、初めて聞いたのにどこか懐かしい感じがした。

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