事務所。

小豆河梓あずきがわあずさの教室の一角で興奮気味に5人の男子がひそひそと話していた。

沙弥の話だ。

梓はそわそわと聞き耳を立てた。


「あんな美人なんだから彼氏とかいるよな。」

「スタイル良かったな。華奢なのに胸もあって。」


梓を苛めているリーダー格の男子は口を半開きにして頬を染めていた。

「綺麗だったなぁ… よし!今日も行くぞ!」


梓は体をびくつかせた。

普段から苛められているのだ。止める事ができるはずもない。だが、自分だって沙弥にもう一度会いたい…。

「どうしよう…。」

ゾロゾロと動き出す五人の後ろに、梓は距離をあけ、隠れながらついていった。




---



「おやまあ。昨日の少年たちか。」

沙弥は小さな団体に目を丸くした。

頬を赤くして元気に返事をする少年たちに、沙弥は微笑んで頭を撫でた。

「気に入ってくれるのは嬉しいが、ここは人気ひとけが少なく子供には危険だ。

あまり来ない方が良いよ。」

「で、でも、そしたらお姉さんに会えないじゃないですか。」

隠れていた梓は少し安心した。

(沙弥さんの名前も、沙弥さんがすぐそこの真っ白な看板の事務所に居る事も…ぼくしか知らないんだ。)

沙弥は困ったように笑った。

「私は君たちを知らないし、学校の先生でもないんだ。すまないね。」

遠回しに振られてしまったのがわかると、いじめっ子たちは涙目で走って逃げ去った。

(ぼくも振られてしまうのだろうか。)

不思議とそんなに怖くなかった。

梓は沙弥から場所を教えて貰えたのだ。

口の端に力を入れると、そっと隠れていた物陰から立ち上がった。

「ああ、君は…アズサくんか。こんにちは。」


綺麗な微笑みに、胸が高鳴った。

「さ、沙弥さん…ぼ、ぼく会いたくて。」

「はは、君もか。」

沙弥は梓の頭に手を置いた。

「道端もなんだ。事務所に上がりなよ。」

梓はぱっと明るい表情になった。

「期待はしない方が良いよ。」


それでも。


梓は沙弥のうしろについて階段を上がった。







事務所の中はレンガ模様の壁紙が一部に貼られており、クラシカルな家具が少量置かれていた。

しっとりとした暗い色の皮のソファーに、ガラスが乗った木のテーブル。木製の洋服掛け、小さな事務机と椅子、殆ど物が入っていない黒い棚。

(引っ越したてなのかな。)

梓がきょろきょろと見まわしていると、沙弥が薄暗いアンティークランプに灯りをともして、窓のブラインドを開けた。

頬が暖色の日の光に照らされた。

「私に会いたいというのは悩み相談かな?それとも愛の告白?」

悪戯に微笑む沙弥に、梓はあんぐりと口を開けて固まった。

「ごめん、意地悪だったね。」

沙弥がどうぞと梓をソファーに座らせた。


「コーヒー…は飲めないかな。カフェオレならいけるかい?」

「は、はい!」

梓の歯切れのいい返事にクスクスと沙弥が笑った。

「甘さは?」

「あ…甘…くなくて、いいです。」

背伸びだ。

梓は甘いものが大好きだが、沙弥に言うのを恥ずかしがってしまった。

「そうか。なら、ノンシュガーでいれて追加でミルクをのせてあげよう。」

「のせる?」

沙弥は柄が細長い小さな泡だて器の様なものを取り出し、ミルクを温めながら攪拌し始めた。

コポコポというコーヒーの落ちる音と、沙弥のカチャカチャという小さな攪拌の音が心地よく事務所に満ちた。


「どうぞ。」

梓の前にふわふわのミルクが入ったカフェオレが置かれた。

「これってカフェラテじゃないの?」

「カフェオレとカフェラテ、意味は同じなんだ。アズサくんのイメージではカフェラテがふわふわミルクなのだね。」

梓がカップを持ち上げながらきょとんと沙弥を見上げた。

「え?同じ??名前が違うじゃないですか。」

「カフェは珈琲コーヒー、『オ・レ』はフランス語で『レ』の部分がミルクという意味だ。『ラテ』はイタリア語の『ラッテ』…これもミルクだ。どちらもコーヒーミルク、という意味で、もっと細かく言えばエスプレッソの説明もしなければならないから…それはまた今度にしよう。」

梓が目を点にしているのを見て、沙弥が話を切り変えた。

「カードとカルテとカルタだって、言葉の意味は同じだったのに、日本人が勘違いして別の意味を含めるようになって……。

カフェオレやカフェラテも…知らないうちにその言葉が生まれた場所と違う所で少しずつ意味を変えてしまった。少し寂しいね。」

「つまり、ぼくの知っているカフェオレは日本語だったんですね。」

今度は沙弥がきょとんとした。

「君はそう思うのだね。」

「違うんですか?」

沙弥はまたくすくすと笑った。

「いいや、それで良い。変に蘊蓄うんちくを垂れ流すよりシンプルに解釈した方が気持ちが良いよ。」

梓の目線に沙弥が合わせた。

梓は口にしたカフェオレの味がわからなくなるほど混乱した。

「砂糖は入れていない。どうだい?」

「あ…。」

甘くない、が苦くもなく、すっきりしている。

「おいしいです。」

にこりと笑う沙弥の顔の隣に、小さなシロップの小瓶がぷらんと下げられた。

「お気に入りのメイプルシロップだ。甘いのが平気なら試してみるといい。」

細く白い指で、シロップを梓の前に置いた。

沙弥の色素はとても薄く、透き通るような儚さと美しさを感じる。

見惚れる梓に沙弥が聞いた。

「悩みで来た訳ではなさそうだが、やはり恋心でここに来たのかな。」

「あ…………こまり、ますか?」

「ああ。」

はっきりと言われ、梓の肩がこわばった。

「気弱な癖に行動力があるのだね。」

「ごめんなさい。」

「謝るな。君の気持ちは悪くない。あのいじめっ子たちより待遇が良いと感じて少し自信がついたのだろう?」

「……。」

見通された恥ずかしさで、梓はどんどん身を縮ませた。

「私のお気に入りのシロップを入れてもう一度カフェオレを飲んでごらん。」

梓は言われた通りに、ゆっくりとシロップを入れた。

「もっと。」

沙弥に遠慮したのもバレ、まごまごとシロップを追加した。

「そう。そのくらいなら楽しめるだろう。飲んでごらん。」

少しぬるくなって。飲みやすくなったカフェオレを流し込んだ。

「おいしい……。」

「さっきよりおいしそうな顔になったね。見栄は君には似合わない。」

外の景色が一気に薄暗くなった。

「ああいけない。日が沈んでしまった。」

沙弥が部屋のメインの電気をつけると、一気に現実に戻った様なはっきりとした光に包まれた。

「アズサくん。」

「ハイ!」

「ふふ…君は本当にかわいらしいね。私のお友達になってくれるのなら、またこっそり遊びにおいで。」

「トモダチ!トモダチでもいいです!ぜひ!」

沙弥は優しく梓の頭を撫でた。

「誘拐だと思われたら大変だ。今日は家まで送らせてくれるかな?」


「ハイ!!!」

大きな返事に、また沙弥が笑った。


綺麗で、透き通って、柔らかくてよく笑う。

梓はどんどん沙弥に心を奪われていった。


「私は決して君と恋仲にならない。」

綺麗な微笑みで突き放されても。

「はい。……好きです。」

不思議とうなだれなかった。

梓はまっすぐ道の先を見て、沙弥の一歩先を歩いた。









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