第11話 見えない追う者
何気なくその家を出たけれど、美由紀は辺りに人影がないかと見回してから、遥香という女性が進んだ方角とは反対方向に向かう。
何度も後ろを振り返り、後をつけられていないか視線を感じないかと確認しながら商店街を抜けると、駅前についた。
『美由紀さん?』
美由紀が電話をすると、ツーコールで聞きたかった声がすぐに聞こえてきた。
「……こ、こう………」
呼吸が苦しくなり、激しく心臓が胸を叩くのに気がついて、美由紀は今頃になって自分が極度に緊張していたことを自覚する。
「こっ……こ……」
夫の名前を呼ぼうとするのに、声が出てこない。
『……なんかあった?とりあえず、座れるところはある?お店とかが無理だったら、近くに自販機はない?できればココアがあるといいんだけど……なかったら緑茶とか……』
「う……うん………」
『落ち着くまで待ってるから……ええ、すいません。ちょっとうちの奥さんなんですが…ええ、ちょっと具合が悪くなったらしくって』
ココアは甘すぎる気がして茶のペットボトルを購入すると、電話の向こうでは夫が別の人としゃべっている声がした。
「……ご、ごめん……仕事中だよね……帰ってから電話す……」
『うん。大丈夫。早退していいって。今からそっち行くから……えぇと……今、どこ?』
「今は……あの………」
ふと誰かに見つめられている気がして、思わず振り返った。
サッと誰かが動いた気がしたのに、流れる人の動きですぐにわからなくなってしまう。
「……うん……ごめん。ちょっと移動する。うん。そう。駅」
気味悪さが勝って、美由紀はやっと座ったベンチからそっと腰を上げて、周りに聞こえないように小声で話しながら動いた。
後をつけられている気もするが、はっきりと確かめる気にはならない。
離れなきゃ──ここを、離れなきゃ───
同じ方向へ、同じスピードで歩く足音。
いくつも聞こえるそれらが、すべて自分を追っている気がする。
『大丈夫。大丈夫だから……とりあえず、トイレとか一人になりそうなところは行かないで。えぇと…駅のところの喫茶店……窓際に座ってて』
「うん……あ、ありがと……」
理由も聞かずにすぐに駆けつけるという幸一の声に、美由紀は大きく息を吐いて心を落ち着かせようとした。
幸一の指定した喫茶店のすぐ横には、母と父が契約している携帯電話のショップがある。
思わず一人で入ろうかと思ったけれど、幸一が言ったことを思い出して向けかけた足を止めた。
「慌てない……ひとりにならない……あの店じゃないのかもしれないし……」
故障したという母の携帯電話。
でも、修理に出されたのはこの駅のショップではないかもしれない。
逸る心を押さえて、美由紀はブラックコーヒーを受け取ってたまたま空いていた店の隅、窓際のソファ席に座った。
喫茶店の中は混雑しすぎているほどではないけれど、それなりに席が埋まり、客の出入りも途切れることはない。
いつ幸一が現れるのかと、コーヒーを啜りながら美由紀はその流れを気を付けて見ているが、一向にその姿は現れなかった。
(……どうしよう。一応窓際には座っているけど。幸一さんはどこ……?)
指定されたのはこの店ではなかったのだろうか。
この駅に降りたのは一昨日が初めてで、目的の住所へ向かうのに逆の出口から出てしまった時のことを思い出したけれど、駅に直結している喫茶店はここしかない。
(ひょっとしたら違う店のことを言っていたのかもしれないし……また電話した方がいい?)
悶々と考えながら美由紀は携帯電話を出したりしまったりとしていたが、ふと窓ガラスが陰ったのに気がついてそちらを伺った。
「あっ………」
白っぽいスラックスを穿いた背の高い男性が、美由紀を隠すように背中を向けて立っている。
と、同時に美由紀のスマートフォンから軽快な呼び出し音が響いた。
慌てて画面に浮かぶ通話部分を押して席を立とうとしたのに、タイミングがいいのか悪いのか、隣の席に元気なおばさま方が四人入ってきて、誰がどの席に座るかで譲り合って出られない。
「……もしもし?」
『美由紀さん?僕。着いたけど……今、窓の外にいるよ』
「うん、見えてる」
『ええっとね。そのお隣の人たちに美由紀さんの新しいジャケットと帽子をお願いしたんだ。紙袋で渡されると思うから、店内のトイレで着替えてから出てきてくれる?』
唖然としていると、そっと美由紀の腰にそれらしい紙袋が当たって、思わずそちらを見た。
「ど、どうも……」
「なんか面白いことしてるの?テレビの人?」
「え、いえ……」
「あ、そうよね。なんかこういうのはこっそりやらなきゃダメなのよね。見つからないように頑張ってね」
「若い人って、面白いこと考えるのねぇ」
「あらぁ、今時のテレビって、なんかカメラも見えないようにしてるの?」
どういうふうにお願いしたのか、幸一と美由紀のことをテレビ番組の撮影クルーか何かと思っているらしく、コソコソと内緒ごとを楽しむような女性たちに向かって曖昧に挨拶をして紙袋をそっと受け取った。
いったい何がどうなっているのか──
とりあえず半分ほど残ったコーヒーカップを洗い口に下げてからトイレに入り、実家から持ってきたらしい見覚えのあるジャケットと、真新しい帽子をかぶった。
幸いにもトイレの前には誰もおらず、店も混んではいるけれど、美由紀の方に視線を飛ばす人は──さっきのおばさまたちも含めて──いない。
よし。
………なぜこんなにもドキドキしなきゃいけないんだろう。
しかも美由紀が感じているのは心地いい緊張感ではなく、何か嫌な感じしかしない。
言い表せないような恐怖感が、怖い。
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