第9話 帰ってこない母 ①

「お…お母さん……」

帽子をかぶったままおずおずと歩み寄ると、母は美由紀の方ではなく、家から出て行った女性が行った方角に顔を向けて心配そうに呟いた。

「あらぁ。今さっき、遥香さんにお手紙出してもらっちゃったのに……美由紀ったら、来る前に連絡くれたらよかったのに……」

「いや、だってお母さんの携帯電話、なんか連絡つかなくなってたし……」

そうなのだ。

仕事の都合でどうしても母を探しには行けなかったけれど、美由紀も父も母の携帯電話番号に掛けてはみたのだが、不通のアナウンスが流れてしまい、他の連絡方法がなかった───ん?

「お母さん……『お手紙』…って……?」

「え?ええ。遥香さんに携帯電話預かってもらっていたんだけど、濡れて壊れてしまって……」

「うん」

「濡れてすぐに遥香さんにお願いしてお店に持って行ってもらったんだけど……すぐには直らないらしくって」

「うん…え?……」

「時間も遅くなったし、失礼しようと思ったんだけど……遥香さんが泊まって、携帯電話直ってから帰ったら?って」

「あ…あの…お母さん……?」

「ほら、何か携帯電話預けちゃったら、直ってからまた取りに来ないといけないんでしょ?だから、こちらに泊まるから…って遥香さんにお手紙出してもらったんだけど……全然お返事ないから、美由紀が急に来てびっくりしちゃった」

意味が解らない。

ぽやんと話す母の話している内容が解るようで、解らない。

というか、一体何なのだろう?この家は……

母が手招きして入れてくれた一軒家は、ちょっと古びてはいるけれど普通の家だった。

母の実家によく似ている気がするが、どこにでもあるような家である。

それなのに──

「えぇっと……あのさ、お母さん?」

「うん?なぁに?」

まごつきながらも戸棚から湯飲みをふたつ出し、ポットから急須にお湯を注ぐ母に、美由紀は思い切って声をかけた。

『あの…『手紙』って?うちにはお母さんからの手紙なんて、一通も届いてないよ?』

「え?」

今度は母の方が「意味が分からない」という顔つきで、こちらを振り返る。

「ええええっ?!だって、こちらに泊まる日に、遥香さんがお出かけするっていうからお願いして……それから、

携帯電話が直るまで二日か三日かかります、って遥香さんに言われて、修理が終わったら帰るっていうお手紙を出して…でも、『修理にはもうちょっとかかります』って教えてもらって、美由紀からもお父さんからもお手紙来ないから、とりあえずもうちょっとこちらでお世話になりますって、さっき遥香さんがお仕事行くからお手紙出しますよって……」

指折り母が数えるけれど、そのどれも──もちろん、今日『出す』分はまだその『はるかさん』という女性がポストに入れたばかりだと思うけれど──もう一週間近く経つのに、実家にも美由紀の家にも届いてはいない。

「えぇっと……宛先ってどっちの家?」

「どっち?」

またキョトンとした顔をする。

「ええと……宛先はお父さんと美由紀と……あ、住所はもちろん『うち』よ?」

「うん。その『うち』がお父さんとお母さんの家なのか、私と幸一さんの家なのか?ってこと!」

のんびりとした母と思考回路が合わずに、つい美由紀は声を荒げてしまうが、それでも母は急かされるとも思わず過ぎた日の行動をゆっくりと思い出す。

「えぇと……そうねぇ。うん。ちゃんとうちの住所書いたわよ?間違ってお隣さんに届いちゃったとか……?」

「それは無い!無いし!もう……」

とにかく、自宅か娘の家のどちらかに手紙を出したのは間違いないらしい。

それももう一週間近く経つのに、どちらにも母の便りは届いてはいないのだ。


一体どうして──


なんだかゾワリと嫌な感じがした。


とりあえず連れて帰りたい美由紀と、携帯電話の修理やお世話なっているこの家の住人に黙っていなくなるわけにはいかないという母──実家から黙っていなくなったのはいいのか?──で、話はまったくの平行線だった。

「そういえば……このおうちの人って?さっき女の人が出ていくのは見たけど、ほら……」

思わず口ごもったのは、勝手に母の引き出しの中にあった書簡を見てしまった後ろめたさがあるからだ。

けれども母はそのことを咎める気はないようで、朗らかにああ!と笑って手を叩く。

「ええ!あの子…『あの子』っていう歳でもないけれど、飯田 遥香さんって言って…美由紀より十五歳下だったかしら?キリがいいわねって。あの子からお手紙が来て。来てほしいって言われて。でもねぇ……突然だったし、ちょっとお父さんに『おでかけします』って言ってから行くわねって言ったんだけど。吾郎さんの容態が良くないって言われて……」

「ちょ、ちょっと。ちょっと待って?お母さん」

「え?」

情報量が多すぎて、おまけにまとまりがあるのかないのか、流れるように話す母の言葉に理解が追いつかない。

解ったのは、さっき出て行った女性はいやっぱり母宛てに手紙を寄こした『飯田遥香』であり、この家には『飯田吾郎』という人がいるということ。

その『飯田吾郎』という人は母の元・夫……らしいけれど。

「あの……聞きづらいんだけど……『吾郎さん』って、手紙にあったとおり、お父さんと結婚する前にお母さんが結婚してた人…なの?」

「え?あら?私、吾郎さんのことはお手紙に書かなかったと思うんだけど……あら?書いたかしら?どうかしら?ねえ、美由紀、お父さんからお母さんが出した手紙、読んだんでしょ?」

「だから届いてないの!私が読んだのは、お母さんが引き出しにしまっていた方!」

本当に話が通じない。

思わずイライラした美由紀は、ここが他人の家だということも忘れて怒鳴ってしまった。


とにかく「すぐには帰れない」と言う母と話し続けてもはらちが明かないと、美由紀は諦めを込めていったん帰ると言った。

「どうして?こちらに泊まれば?」

「嫌よ!」

まるで親戚の家かのように気楽に言う母に、またイラっとする。

どうして娘が落ち着いて世話になれると思うのだろうか──母の前夫らしい男性と、その娘が住む家なんて。

「と、とにかく!お母さんがここにいたってお父さんには話しておくから。ひょっとしたらお母さんからの手紙が遅れて届いているかもしれないし……」

「そうねぇ。携帯電話が直ったら、すぐに帰るわって伝えておいてもらえる?」

娘の美由紀も、その夫も、そして父もどんなに母のことを心配したか──それをどう伝えたとしても、『携帯電話』という言葉に縛られている母は、おっとりした見た目とは裏腹な頑固さで、きっとこの家を出ないだろうとも思う。

だったらさっさと美由紀自身が母の携帯電話を受け取ってくればいい。

「……そういえば、どうしてお母さんはここにいるの?お母さんが行って、電話を受け取ればいいじゃない?」

「え?だって、修理をお願いした人じゃないと返してくれないんでしょう?それに、私、この家の鍵を預かっていないから、勝手に出かけちゃえないのよ」


鍵をちゃんと掛けて出かけなきゃ駄目よ。


美由紀が幼い頃からそう言っていた母の声。

『鍵がない』から、母は帰ってこれなかったのだと、美由紀は理解した。


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