第4話 出会い

ふたりきりで歩く夜空の下、美由紀の足取りは心なしか弾んでいた。

別にこうやって歩くことがないわけではないけれど、勤務時間が違うせいであまりデートもしたことがないせいか、ついつい心が浮き上がってしまう。

もともと比率が仕事寄りだった美由紀は、学生時代も勉学優先で、愛や恋や彼氏やバイトや──いわゆる『青春』という概念を置きざりに大学を卒業した。

もちろんまったく男性経験もお付き合いもなかったわけではないけれど、『試して』みた結果は「こんなものか」というあっさりしたもので、身も心も捧げたいと思うほどのものではなかった。


そんなある意味『恋愛オンチ』の美由紀は、二年前に会社が複数集まったある会合でニコニコと愛想のいい『研究員』と出会った。

郷野さとのくん」と呼ばれていたその男──幸一は、二十分ほど上司を交えて仕事関係の話をし、さらに五分ほどふたりっきりで話した後に、サラリと結婚を申し込んできたのである。

「え?は?あの……?」

「いえ、ですから……僕と結婚してほしいと」

「いえいえいえいえいえ!!!」

いったい何を言われたのか、頭ひとつ半ほどの上空にある幸一の顔を見つめたまま、ポカンと美由紀は訊き返した。

その場で跪いての求婚ではないにしても、反射的に否定の大声を上げた美由紀に視線が集まり、ついで背の高い幸一と交互に見られる視線に気がつき、慌てて会場を飛び出した──のだが。

「ど、どうしてついてくるのよ?!」

「え?」

逃げ場として女子トイレまで早歩きで来たのに、まるでチェーンに結ばれたかのように幸一はぴったりと後ろをついてきていた。

勢いよく振り返った美由紀に向かって、大型犬のような笑顔を向ける幸一。

「ついていきますよ?もちろん。だから、僕と結婚しましょう」

「『だから』って……その意味が分からないって……」

「僕のこと、嫌いですか?」

「嫌いもなにも……」

その後は何をどう言っても引かず、幸一はひたすらプロポーズし続け、美由紀はその理由がわからずに説明しろと言い続けた。


言い続け、言い続け───気がついたら、美由紀は幸一と『お試し』の一夜を過ごしていた。


あったことをなかったことにすることはできない。

それでもさすがに『交際ゼロ日』で結婚する気はなく、肌を合わせた結果として幸一を拒むほど生理的にも精神的にも嫌悪する気持ちはもちろんなかったから、美由紀は『お試しの交際』を半年間持つことを提案した。

もっともその呼び名に関して幸一は優しく、けれども断固として拒否し、時間的制限は美由紀の案を入れつつも『婚約期間』という呼び名に落ち着いたのである。

恋愛よりも仕事優先で生きてきた美由紀よりも幸一はずっと社交的で、女性にだってすごくモテてきた。はずだ。

仕事ばかりでエスコートされ慣れていない美由紀を簡単に手懐けるし、勤めている会社内のフリーだったりそうでない女性社員があからさまに若さを全開にしてアタックしてきたのは、その『期間』中に一度や二度ではないらしい。

しかも往生際が悪いことに、そのうちの何人かは『お試し期間』終了後にすんなりスライドした結婚の報告をした幸一に、最後のチャンスとばかりに下心込みで『告白』をしてきたことを知って、美由紀が秘かに怒りを覚えたのはいまだに内緒である。

たぶんそんな『聞かせなくていい話』をわざわざ挨拶回り中の美由紀に向かって話してくれた『親切な人』たちの口調に、恋人を通り越した『婚約者』を連れてきた驚きよりも妬ましさがこもっていたのを、幸一自身は気がついていたのだろうか。

その最たるものは、幸一の所属する研究機関の直属上司のさらにその上の人とやらに挨拶をした時である。

「君もちゃんとこういう人がいるなら、早めに教えてくれないとねぇ……」

「ええ、ご報告が遅れまして申し訳ありません。こうやって素晴らしい人と出会えたのは、半年前でして」

「えっ……は、半年前?」

「ええ、半年前です」

ギョッと目を向くその顔に見覚えがあるなと思いながら、美由紀は名前を思い出せずにただ隣でニコニコしているしかなかった。

そんな微妙な空気も気に留めずにスルーしてしまうのが幸一のデフォルメらしい……仕事第一の美由紀は、あまりにも自分と違うその様子に思わずときめいてしまったが、普通の女性なら引くんだろう。

「会社同士の会合でこんなふうに運命の人と出会えて、会社には感謝しかありません」

「そ、そうかね…ハハハ……そうか、そうか。あの時の……いや、あれ以来仕事にさらに身が入った理由が、こんな素敵な女性のためだったとはね…ハ、ハハ……」

にっこり笑って頭を下げる幸一に向かって、その上司は困惑と怒りの混じったような表情をしていたが、単に連れてこられただけの美由紀は理由がわからず、最初から最後まで笑顔を貼り付けているしかなかった。

ようやくその理由がわかったのは、根掘り葉掘り出会いから交際期間、結婚を決めたまでを聞き出そうとする上司をのらりくらりと幸一が躱した末に、諦めて解放された後だった。

「ええ。実はあの会合の二ヶ月ぐらい前に、あの上司の娘さんを紹介されて」

「そ、それって……お、お見合い?」

「まあ、そうですね。確か副社長の秘書で……ですが、あまり仕事が好きじゃなかったらしく、なんかさっさと結婚してくれそうだからと顔合わせさせられたんです」

なんだそれ……

あまりにも失礼な『求婚理由』に、美由紀は呆然としてしまった。

そうはいっても、幸一だって美由紀が譲歩しなければ、最初に出会ったあの会合の夜に婚姻届けまで出してしまいそうな勢いのプロポーズではあったのだけれど。

「ただ……」

「ただ?」

ほんのわずかにため息をつき、遠い目をした幸一は乾いた笑いを浮かべてサラリと言った。

「あちらも三十になるということで年齢的な釣り合いは取れていたとしても、あまりにも興味の持てないお嬢さんでしたから、きちんとお断りしたんですけど……どうも受け入れられずにいて、困っていたんです」

「受け……?」

「お会いしたその場で『無理』と言ったのに、勝手に僕の携帯電話やら会社のメールにまで交際申込みをしてきて、本当にうんざりしてしまって」

「じゃぁ…私との結婚を決めたのって……」

「あ。そういう女性から逃げるためではないです。『運命の人』でしたから、美由紀さんは。だからこそ、僕は諦めませんでしたから、あの夜には」

あの『お試しの夜』を思い出し堪能するかのようにポッと頬を染めつつも、女性が赤面するようなセリフを幸一はサラリと美由紀に向かって言うと、その足でさらに重役たちへの新妻予定の女性を紹介するという挨拶回りを嬉々としてこなしていった。

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