第3話 母の家出 ③
今朝、美由紀がゴミ捨ての手伝いをするために出勤途中で立ち寄り、お礼にとお弁当を渡して娘を見送った母。
同窓会に出る旧友の何人かと一緒に昼食を取るために父が出た午前11時頃、機嫌よく見送った母。
その時には特にどこかへ出かける様子など何もなかったし、そんな予定も聞いていないと父は言った。
父はそういう点において母の話をちゃんと聞いているとは限らないが、確かに美由紀の方にもそんな連絡は入っていない。
ついでに夫も帰宅後に自宅の電話機の留守番記録を確認したと証言し、その際には留守番電話の録音はおろか、どこからも電話がかかってきていないことを証言した。
「ん~……では、出ていかれるのに心当たりはないと?」
「あるわけないだろう?!」
警察官の探るような視線と問いかけに、父は激高した。
自慢にもならないが、父は比較的短気で無神経ではあるし、自分の着替えすら母に用意させるような男ではあるけれど──疑われるような暴力や暴言を母に向かって行うことはなかった。
「いやぁ……では何らかのトラブルに巻き込まれた可能性もある?その…お母様は、なんと言いますか……ご近所をこう、フラッとお散歩に行かれてつい遠くまで行ってしまうということは……」
「老人性徘徊、ということですか?」
今度は美由紀がキツイ口調で切り返した。
自覚は多少あるが、美由紀の性格は父によく似ているのだ。
「後期高齢者健康診断は六十五歳から毎年受けていますし、今年の分は先月受けました。診断書も受け取っていますが、ご覧になります?」
「あ、いやいや……」
申し訳ない、とまた小さく呟いて、警察官は何か書き足した。
「では……ええと……まだ事件性は小さいということですが、すぐに失踪届を出されますか?ま、それですとこれから署の方へ出向いていただいて…ええと、またお時間を頂くのは恐縮なんですが……」
「時間って、どれくらい?」
「いや……それは管轄というか、部署がまた違って……」
美由紀はまず夫と目を合わせ、それから父の方を伺ってみたけれど、この大事な時に父はさっきの警察官の問いかけに拗ねてしまって、何も答えようとはしない。
「……ひょっとしたらお友達の所へ遊びに行って、そのまま休ませてもらっているかもしれませんから……明日、心当たりを当たっても帰ってこないようでしたら、手続きをしにまいります」
自分の仕事と母への愛情を天秤にかけるようではあるが、美由紀だってそれなりに責任がある。
今すぐ、いつまで時間のかかるかわからない警察署での手続きを進めるよりも、もう少し時間軸を整理し、思いついたように母の友人や知人へ問い合わせてからでも遅くはないはずだ──そう判断し、今度こそ帰ってくれる期待を込めて美由紀はそう言った。
「あ……で、では、今晩は私がこちらでおば…奥さんの帰りを待ちましょうか?」
「はぁ?!」
それまで夫を睨むか、モジモジと組んだ手指を遊ばせているかだった将が突然発言した。
もちろんその場にいる全員が一斉に同音同句の声を上げ、わけのわからないことを言い出したその顔に視線を貼り付けた。
「いや……お、おひとりだと、おじ…ええと、天野さんもご心配…か、と………」
「ええ。私もご心配。だから今夜はちゃんとこっちに泊まります。いいでしょ?お父さん」
「好きにしろ」
「いや、もしよければ…その、用心棒的な……」
「アホか、お前は。まだ勤務中だろうが!」
「いや、あの…俺……いや、わ、わた……」
まだしつこく何か言おうとしていた将はその口を制され、結局名前を覚えられなかった警察官に引きずられるように一緒に出ていくと、天野家は静寂に包まれた。
「俺は飯はもう食ったから。お前らは好きにしろ。あと、風呂入れてくれ」
母がいなくなったことをどう思っているのか、相変わらずといえば相変わらずの態度で、父は通常ならば母に言っているであろう口調でそう命じてテレビをつけた。
時間的にニュースをやっている局はなかったが、特にザッピングをしないところを見ると、単に決まった日常生活を続けようとしているだけのようである。
「じゃ、じゃあ……あなたは?晩ごはんは?」
「いや、僕もさっき帰ってきたばかりで……もう『さっき』じゃないか」
部屋の鴨居に取り付けられている時計を見れば、本来なら帰宅どころかすでに入浴も済ませている時間だ。
「じゃあ何かご飯を……」
と冷蔵庫を開けてみたけれど、特に作り置きも未調理の食材もなく、これでは今夜の晩ごはんをどうするつもりだったのか。
ひょっとしたら母は今夜の料理と共に食材を買い足すつもりだったのかもしれないけれど、買ってはいない──いったい、どこへ───
「美由紀さん、美由紀さん」
夫の声にハッとすると、冷蔵庫はピーッ、ピーッと閉め忘れ警告音を発していた。
「大丈夫ですか?何か簡単なものでよければ、僕が買ってくるけれど……」
心配げな夫の申し出を断ろうとして、自分の着替えや何かも取りに帰った方がいいだろうと気づいた。
「そうね。どうせなら、一緒に買いに行きましょうよ。お父さんもなんかいる?ついでにパジャマとか持ってくるから」
「いいぞ。風呂だけ入れてくれれば、俺ひとりでいい」
「もう………」
いつもならムッとしてそのまま自宅に戻るのだけれど、母が戻ってくるかどうかわからないこの状況で、父ひとりにはできないという気持ちがわからないのだろうか。
「ちゃんと戻ってくるし!なんなら、幸一さんを置いていくわよ!」
「え……いや、僕はいいけど。夜道だし。時間もだいぶ遅いから、どうせなら一緒に帰って、僕もこっちに泊まりたいんですけど……」
ほんわかとした笑顔でそういう夫の気持ちを、美由紀はくみ取った。
妻にも、妻の両親にも優しい夫なのだ。
「…わかったわ。お父さん、私たちいったん戻って明日の準備を持って戻ってくるから。ご飯はこっちで食べさせてもらうから、明日の朝ごはんも含めて何か買ってくるわ。要るもの、ある?」
「……別に、何でもいい」
ひとりっきりでも、娘とふたりっきりでもなく、娘婿も一緒に泊まると聞いて、父はわずかに表情と口調を緩めてくれた。
あとそれと……と美由紀がさらに言いかけると、幸一は妻の方に手を置いて、くるりと向きを変えた。
「じゃ、晩ごはんとお風呂上りに召し上がるものを買ってきましょう。あんまり遅くなると、僕たちのお風呂も遅くなりますよ、美由紀さん?」
そう言いながらやや強引に妻を連れ出した幸一は、丁寧に玄関に鍵をかけた。
美幸だって、何もわざわざ父を怒らせたいわけではない──わけではないのに、ついよけいな一言を言ってしまう。
幾度かそんな場面を見ているせいか、学習能力のやたら高い夫は、似た者同士のふたりをうまく仲介する術を身につけていた。
家に向かう道でもまだ美由紀は腹立ちが収まらない顔つきだったが、幸一が早歩きで進む妻の手を柔らかく取ると、ふにゃりとその表情は緩む。
「ほら、夜道だから。それにこうやって歩くなんて、休みの日以外ではあんまりできないから、一緒に行きましょう」
「う……うん…ごめん。ありがとう」
「いいんですよ。先に行かれちゃうと、僕が寂しいですから」
狡いな──そう思わないこともなかったが、こうやって触れ合うことで懐柔されるのは、女としては嬉しいものだ。
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