第2話 母の家出 ②

「ちょ、ちょっとぉ……」

勘弁してよ…と呟きながら、美由紀はカラカラに乾ききっている浴室の窓を閉めた。

昨夜の入浴の後、湿気除けに開けたまま、閉めていなかったようだ。

となると……まるで探偵のように浴室のあちこちを見、ついでに浴槽を触ってみる。

「お風呂は洗った後、なのね……」

「お、おい……か、母さんは……?」

尻込みするように覗き込んできた父に向かって軽く横に頭を振った美由紀は、背後に立つ制服姿にビクッとした。

「お、お父さん、う、後ろ……」

「え?!」

まるで幽霊でもいるのかと思ったのか父は恐る恐る振り返り、開けっぱなしの玄関に立つその制服姿を見て安堵したように笑った。

「あ~あ。これ、まさる君。覚えているだろ?ほら、幼稚園から一緒だった健一けんいち君の弟の……」

「ああ…太田さんとこの……じゃなくて!どうして警察の人がいるの?って!」

「ああ~…だ、だって……」

「いや、ちょうど自分、勤務中で。泥棒が入ったかもって通報を受けて。住所聞いたら美由紀ちゃん家だったので、自分駆けつけて……」

「ああ、そうそう。ありがとう。泥棒はいません。お勤めご苦労様。じゃ」

のほほんと説明する幼なじみに対して、美由紀は邪険に手を振って問題はなかったことを示した。

何せ玄関の外灯に照らされた闇の中ではご近所が嫌というほど集まり、天野家で一体何が起こっているのかを知ろうかと楽しそうに野次馬っているのだから。

もうさっさと解散してほしい。

「いやいやいや!そういうわけにはいかなくって!一応出動したので、経緯は聞いておかないといけなくって」

はぁ……とため息をついたけれど、それが責務ならばしかたない。

父がなぜ自分で家の中を見て回らずにさっさと通報したのか、その理由も聞きたかった。

「そうね。しょうがないわね。じゃ、ちょっとうちの人に連絡だけさせて。心配してると思うから」

「あ…えー…はぁ。まぁ」

将の自然だった笑顔がひび割れて頬がヒクつき、美由紀の申し出に歓迎しないような色が見えたが、それを無視してさっさと携帯電話を取り出した。

耳元で柔らかくルルル…と呼び出し音が鳴るが、そう待つほどもなく落ち着いた声が美由紀の名前を呼ぶ。

「うん…うん…そう。ごめん、ちょっと今、家なんだけど。お母さんがいなくて。うん。あ、お父さん?うん。今日同窓会だったんだけど。ううん。帰ってきてる。うん。なんかわかんないけど、警察呼んじゃって。うん。大丈夫。ううん?そう?うん。じゃ、待ってる」

自宅に帰る前に実家に寄ったことを簡単に説明したつもりだったけれど、『警察』という単語が出たとたん、電話の向こうの夫の声が少し緊張したのを感じて、美由紀は愛おしく思った。

『スープの冷めない距離』とも言える徒歩10分という近さに新居を構えてくれたことをありがたく思いつつ、その距離のおかげで「今すぐ迎えに行くから事情を教えて」と言う声を、脳内で反芻する。

10分どころかきっと走ってくるだろうから、夫である幸一(こういち)は5分ぐらいで到着するだろう。

それまでにどれだけのことを話せるか──父が最後に母と会話を交わしたのがいつであるかも知りたいし、できれば夫にもいてほしいから、美由紀はあえて待つ時間を『お茶を淹れてとりあえず落ち着く』という口実で稼ぐことにした。


両親とは逆に、美由紀より5歳年上である幸一が到着したのは、予想していた5分より1分遅かった。

それでもやかんのお湯が沸くのが思ったより遅かったから、美由紀が想定していたように居間の大きめの座卓に父と夫、制服姿の将ともうひとり知らない警察官、そして自分…と、お茶をそれぞれの前に置き、茶菓子鉢をまんなかに置いた。

時計を見ればもう時間は21時に近く、パトカーは止まっているもののエンジンとランプが消えたことで、ご近所野次馬も三々五々に散ったようである。

「それでは……と」

手帳ではなく薄い紙を取り出し、将ではない方の警察官が調書を書き始めた。

「ええと……家主さんの、あま・の・まさ・あき、さん……ええと……こちらが侵入者…ではなく……」

「娘の美由紀です」

「み・ゆ・き……ええと、字は?」

「美しい、自由の由、紀元前の紀」

わざわざ自分の名前を説明することにばかばかしさを覚えながらも、警察官に一瞬だけ『侵入者』と呼ばれたことにムッとした。

その矛先はペンを走らせ続ける警察官にではなく、父に向かう。

「何?お父さん。私のこと『侵入者』って言ったの?」

「いや、違う違う。『誰かいるみたいだ』って……だって、電気もついとらんのに、母さんのでない靴はあるし、物音はするし……」

美由紀が睨みつけると、父は慌てて手を振った。

「いやいや、すいません。ちょっと調書の関係でね。すいませんね」

父より若いぐらいのその警察官は頭をかきつつ、さらに書き進めた。

「ええと……で、こちらが、娘さんの旦那さん……こちらにはいつ?」

「えーっと。妻から電話をもらうまでは自宅に。ついさっき到着しました」

「ご自宅の住所は……ああ、はいはい。いや、ええと……こちらへは車で?」

「いえ、こちらに伺う時はいつも徒歩です。今日は急いでましたので、走ってきましたが」

冗談を言っているようだけれど、夫は至極真面目な顔で説明した。

それを黙って聴いている将の顔から笑顔は消えており、ますます険しい顔になっていく。

一方通行でしかないその理由に思い当たるところがあり、美由紀はめんどくさそうにため息をついた。

美由紀は半年前に生涯の伴侶を得たが、小学校に上がる直前からの約35年間、将は美由紀に片思いしていた。

しかもその熱は冷めるどころか現在進行形らしく、上司らしき警察官と父がいるおかげで抑えられているとはいえ、無意識なのか横目で睨みつけている。

とにもかくにも調書取りは進んだけれども、特に母が失踪する理由もきっかけもわからないというのが結論だった。


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