第46話 ヴェルドルト・ヘルグレンジャーの苦悩

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」


 ヘルグレンジャー邸二階の一番奥、そこがヴェルドルト・ヘルグレンジャーの書斎だった。


「お父様……」

「その様子だと既にメイスリー辺りに話を聞いたのかな?」


 そう言ってヘルグレンジャー氏は苦笑いを浮かべた。諦めたのか、それとも覚悟を決めたのか。彼の表情からはイマイチその心境が読み取れない。


「ヘルグレンジャーさん、お訪ねしたいことがあります」


 険しい顔を浮かべるフィオナを押しのけるように前に出ると俺はヘルグレンジャー氏の顔を見つめ返す。


「これのことかい……?」


 俺が何を尋ねたかったのか。それはすっかりとこの街の為政者である彼にはお見通しだったらしい。彼は腰を下ろしている机の引き出しを開けるとそこへと手を突っ込んだ。


「……ロケット?」

「あぁ、君たちに捜索をお願いしたものだ」


 金属製の紐の先には円形の意匠がくっついている。その表面には一羽の大きな鳥が刻まれていた。屋敷の至る所の扉に刻まれているその紋章はきっとこのヘルグレンジャー家の家紋なのだろう。


「やはり、あの場所にあったのはウェンズデイの聖具なんかじゃなかったんですね」

「……やはり、ということはバレていたようだね」

「アクアマリーに襲撃されました」


 そう告げるとヘルグレンジャー氏は皴の浮かんだ顔を僅かに歪めた。


「そうか、彼女が……」


 大きくため息を吐きながら天井を仰ぐ彼を見て、俺はこの街を襲っている事象について洗いざらい話してもらわなければならないという決意を固める。


「ところでヘルグレンジャー氏、そのお手持ちのロケットは一体何なんですか?」


 どう切り出したものかと迷っていたところに先に口を開いたのはユフィだった。先ほどヘルグレンジャー氏が告げたように、あのロケットこそが俺たちがウェンズデイの聖具と聞かされたいたロケットそのものだろう。


 しかしそれは今この距離からだとどう見てもただのロケットにしか見えない。俺はプリズムウェルで豊穣の女神ヘカーティアの聖具を目の当たりにしている。それと比べると、どう見ても彼の手に握られているそれは聖具と呼ばれる代物とは程遠いものだとしか思えなかった。


「これは、私が妻の誕生日に送ったものだ」

「……お母様の?」


 先ほどまでじっと俺たちの会話に耳を傾けていたフィオナがその肩をピクリと動かした。


「まだフィオナが生まれる前、私が彼女に手作りしたものだ」


 俺は彼が俺たちに依頼を出してきた時の言葉を思い返していた。”無骨だが想いの籠った、小さなロケット”。その想いとやらを込めたのはウェンズデイではなく、ヘルグレンジャー氏自身のことだったのか。


「それがどうして俺たちを騙すような真似を……?」

「知らなかったんだ……。アクアマリーの目的を」

「ヘルグレンジャーさんはアクアマリーと面識があったんですね」


 まるでガラス細工でも扱うかのような手つきでロケットを机の上へと置くと、ヘルグレンジャー氏はすいとその場を立ち上がる。


「あれは四か月前ぐらいの事だろうか。アクアマリーが突然私の元に姿を現した」


 書斎の棚から何やら取り出すとそれを持ってこちらへと戻ってくる。


「久しぶりだったから嬉しかったよ」


 机の上に置かれたのは小さな写真立てだった。ヘルグレンジャー氏とその横で優しく微笑んで見せる女性。恐らく彼女がウェンズデイ。フィオナの母親なのだろう。そしてその隣にもう一人。見覚えのある女性の姿がそこにはあった。


「……っ、どうしてここにアクアマリーの姿が!?」

「海運の女神ウェンズディの力は代々その家計の娘へと受け継がれていく。そして、その神の理に当てはまるのは何もウェンズデイだけじゃないということだ」


 そう告げるヘルグレンジャー氏の言葉から導かれる結論は一つ。


「アクアマリーの力も引き継がれているってことですかっ!?」

「……ああ、水産の女神アクアマリー。その力の持ち主は、私の妹だよ」

「なっ!?」


 告げられた真実に空いた口が塞がらない。そんなもの誰が想定できようか。見ればユフィは口をぽっかりと開けており、フィオナに至ってはその顔をひどく歪めている。俺たちの命を奪おうとしてきた神。その正体が実の父親の妹だったとあってはその心境は計り知れない。


「……で、でもっ、確か女神の力の継承者はそのうち自我を神に乗っ取られてしまうのでしょう!?だったらどうして今更兄であるヘルグレンジャーさんに会いに来たんでしょうか!?」


 やっとの思いで吐き出した言葉に、ヘルグレンジャー氏は自嘲気味に笑って見せた。


「別に彼女は兄に会いに来たわけじゃない。彼女はただウェンズディポートで一番ウェンズデイの力に通じている私に会いに来ただけだ」

「……どういうことです!?」

「彼女は欲しかっただけなんだよ、ウェンズデイの力が。そして万が一の抑止力となるウェンズデイに選ばれなかった娘の力をね」

「……知っていたんですのねっ!?」


 直後、フィオナの怒号が室内に響き渡る。


「お父様は知っていたんですのねっ!?アイリスがどこにいるのかをっ!それを為すすべもなく見守っていた。挙句の果てにわたくしになにも告げずにそのまま国外を探索するようにまで偽装の指示まで出してっ!」


 俺とフィオナが出会ったのは王国領内である中継都市アルペンザだった。彼女があの場所にいたのも実の父であるヘルグレンジャー氏の指示だったのか。


「わたくしがどんな想いでアイリスを探していたとっ!?」


 怒号はいつしか悲鳴に変わり、その声色のところどころに涙が入り混じっている。フィオナは裏切られたのだ。実の父親であるヘルグレンジャー氏に。そこにどんな感情があったとしても、フィオナが裏切られたと思ってしまうのも無理はない。


「……どうしてこのことを黙っていたんですか」


 フィオナの叫びをただ静かに聞いているだけのヘルグレンジャー氏に俺は問いかける。

 いや、なんとなくわかっていながらも確証が欲しかっただけなのかもしれない。


「……例え、意識が乗っ取られてしまったとしても、私は彼女がまだ血の繋がった妹であり続けてくれるとあらぬ期待をしてしまったのだろうな」


 そう言って一つ大きく彼は息を吐いた。

 神であるアクアマリーに力も何もない彼が抗えるはずもない。だからこそ彼はアクアマリーが未だに自分の妹であり続けることに賭けて娘が連れ去られた事実を黙認した。


 神が意識を乗っ取ってしまうことを実の妻であるウェンズデイで一度身をもって体験したというのに、しかし彼は神の力よりも彼自身の希望に身を任せてしまった。


 それがあったからこそ彼はフィオナを国外に一時逃がすような真似をしたのだ。


 全てがチグハグ。それは彼が今も自らの信念と、そして多方向へと向かう家族への愛の間で板挟みになっている証拠だ。


「こんがらがったままじゃないか」


 それはこの街で起きている全ての事象に対する感想か、それともヘルグレンジャー氏の心境を慮ったゆえに出た言葉なのか。俺には自分自身で口にしたはずのそれがどこから来る感情なのか分からなかった。


「だから俺たちにアクアマリーの聖具を回収させようとしたんですね」

「……そういうことだ」


 アクアマリーが真の力を取り戻すことを彼は止めようとしていた。


 ウェンズデイがこの街を加護するのにはもう一つ目的があったのだ。それは、アクアマリーから引き剥がした神性を彼女自身から守ること。だからきっと覚醒間近だったフィオナがあの場に行くことを黙認したのだろう。


 あんな話を聞かされた手前フィオナが動くことは分かっていたはずだ。なぜならフィオナは彼の実の娘なのだから。


「……私は失格だ。一時の感情に流されて、父としても、兄としても、夫としても、その役割を果たすことが出来なかった……」


 力なき彼の言葉が、俺にはどうしても他人事のようには思えなかった。周囲の力に振り回され、それでもあがこうと必死に取った行動がことごとく裏目に出てしまった。


「私は……っ」


 彼が思い切り拳を机に振り下ろそうとした直後のことだった。


「な、なにっ!?」


 書斎の壁の一部が大きく爆ぜ、俺たちは爆風に包まれた。咄嗟に身を庇った俺たちは突然のことに戸惑うが、額から大きく血を流しているヘルグレンジャー氏だけはその身に何が起きたのか分かっていたようだった。


「……貴様っ!」


 ヘルグレンジャー氏の視線の先。天井が大きく崩れてウェンズディポートの空が広がるその空間。そこには先ほどの写真立ての中に映りこんでいた人物が浮かんでいた。


「アクアマリィいいいいいい!」


 見覚えのある女神が、深海のような深い蒼のドレスをそこに翻していた。


「四か月ぶりね、ヴェルドルト」

「その名前で私を呼ぶなぁああああ!!」


 穏やかそうな彼からは想像のつかない叫び声が響く。そして一発。パンッと乾いた銃声のような爆発音が屋敷の一角に響き渡った。

 

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