第39話 深層海洋の謳い手

 ヘルグレンジャーの屋敷を訪ねた翌日、その日はどこかどんよりとした曇り空がウェンズデイポートの頭上を覆っていた。


「準備できた?」

「あー、そうだな、山登って降りるぐらいの荷物ってこんなもんで大丈夫か?」


 プリズムウェルを出立してからの相棒だが、今だに上手く結べない靴紐を結び直しながら俺は宿の部屋の隅で何やらバックパックに色々と詰め込むユフィを見る。


「ん、いいんじゃない?ただ山に登って戻ってくるだけのハイキングじゃない。ただその途中でちょっとお使い頼まれるだけよ」


 気軽に言ってくれる。もし本当にただのハイキングだったら俺らの懐にはこんなにジャラジャラした革袋は入ってない。昨日ヘルグレンジャー氏からビーチ防衛の礼として渡されたものだが、きっとこの中には今回の依頼料も事前に含まれていたのだろう。


 とはいえ貰ってしまった手前もう既に断るという段階はとっくに過ぎ去ってしまっている。俺たちの前には今やらないという選択肢は残念ながら用意されていないのだ。


「そんじゃ、行きましょ」

「……分かった」


 革製のベルトにブロードソードをしっかりと結びつけるとユフィに続いて宿の部屋を後にする。


 途中宿のご主人に簡単に挨拶を済ませてそのまま街の中心部を抜ける。


「で、プランは全部任せちゃったけど大丈夫か?」

「まぁ、何とかなるでしょ」

「簡単に言ってくれる」


 俺たちの進行方向には今、このウェンズデイポートの街を大きく囲っている山々が立ち並んでいる。


 その一つ、東側の大きく切り立った岩肌が並ぶ山こそが、これから俺たちが向かう山である。初めてこの街を訪れた時に抜けてきた山の真反対に位置するそこは、数日前にこの街の沖合で襲撃を受けたアイオンホークが姿を消した方角でもあった。


「まず初めに麓の治安維持隊の詰め所に顔を出すわ」

「なんか用があるのか?」

「入山許可証がいるのよ」

「めんどくせぇな」


 一応その辺の管理は行き届いているらしい。じゃあ今回のお使いもその管理をしている維持隊を使えばいいじゃないか、とも思うかもしれないがその辺についてはヘルグレンジャー氏も色々と思うところがあるのだろう。


 俺もユフィも正直お使いの延長みたいな感覚はあった。まぁ、今から行くところがどんなところかイマイチわかっていないからってのもあったのだが、結局のところ何とかなるんだろうな、なんて気楽さから来るのが理由の大半だ。


 くだらない話をしながら道中足りない医薬品等を買い足す。維持隊の詰め所が現れたのはそれからしばらく山に向かって歩いてからのことだった。


 麓から少し離れたところに現れるレンガとコンクリート製の建物、そこが治安維持隊東部地区管轄隊の詰め所だった。


「失礼します」

「し、失礼しまーす」


 相変わらずこういう時のユフィは堂々としている。いくら大義名分があるとはいえこういう場所に足を踏み入れるのは気後れしないものだろうか。


 どこか職員室に入るときと似たような感覚を覚えてしまい、妙な懐かしさに包まれてしまった。


「何か御用かな?」


 出迎えてくれたのは随分と気さくな治安維持隊員だった。俺よりも一回り年上に見えるが、その軽そうな雰囲気の中にどこか疲れた表情が見え隠れするのはどうしてだろうか。


「はい、実は入山許可を頂きたくて」


 そんな彼に向けてユフィは一枚の封筒を取り出す。封にはしっかりとヘルグレンジャー家の家紋が刻印されている。


 それを見て少し驚いた表情を浮かべた彼だが、直ぐに待っててくれとだけ言い残しどこかへと行ってしまう。

 どこかよそよそしい他の隊員たちを横目に見ていると先ほど姿を消した彼が直ぐにこちらへと戻ってきた。


「待たせたね、しっかりと本物だと確認できて許可が下りたよ。しかし……」


 何かを言い淀むように彼は視線を窓の外の山へと向けた。


「どうかしたんですか……?」

「いや、実はこの前のビーチの海洋獣襲撃事件以降どうも山の生き物たちの気性が荒くなってるって山の観測隊から連絡が来ているんだ」


 ふむ……。アイオンホークが縄張りへとやってきたから、というには少しタイミングが遅い気がする。何か他に原因があったりするのだろうか。


「まぁ、ヘルグレンジャー氏の推薦なら僕から君たちに言えることは何もない。だが、気を付けてくれとだけ伝えておこう。それじゃ」

「ありがとうございます」


 いい人だな、と去り行く彼の背中を見てそう思った。きっと仕事にも真摯に打ち込んでいるのだろう。そんな人たちの邪魔をする訳にも行かないのでそそくさとその場を後にしようとする。


「だからぁ、どうしてわたくしは入山許可が下りませんのっ!?」


 聞き慣れた声が詰め所の奥から聞こえてきたのは、まさに建物を後にしようと扉に手をかけたその時だった。



―――



「ですからお父様には顔を合わせずらいんですのっ!」


 その綺麗な顔を随分とプリプリさせながらフィオナは俺たちの前を歩いていく。それに追従するのは先ほどからさんざっぱらフィオナの愚痴に付き合わせられている俺とユフィ。


 現在俺たちは、目的地である山の中腹付近を登り続けていた。


「わ、分かったから落ち着いてくれ?」

「嫌ですの」


 詰め所で大声を上げたフィオナは直後、目ざとく俺たちの姿を発見した。半ば泣きつくように俺たちのもとに現れるとウルウルとその目に涙を溜めながら一緒に連れて行って欲しいと懇願してきたのだ。


 聞けば彼女には入山許可が下りなかったらしい。俺たちはヘルグレンジャー氏の推薦状があったが普段なら特別な事情がない限りアイオンホークの居住地と推測されるその山には気軽に人を入れない決まりとなっているそうだ。


 それが仮にも、この街の権力者の娘であったとしてもだ。


 そんな事情があり、フィオナはあの詰め所で足止めを食らっていたそうだ。そりゃ詰め所の維持隊員たちがあんな表情をしてるのも納得だ。自分たちの上司、しかもそのトップの娘が急に仕事場にやってきて規則を破れと突きつけてくる。そりゃあの彼も疲れの一つぐらい浮かべてしまうってもんだろう。


「それで、結局フィオナは何を探しにやってきたんだ?」

「レディには秘密が多い方がいいのではなくて?」


 遠方からこちらを狙う4頭のアサルトウルフを一瞬で仕留めつつ、フィオナはこちらをけむに巻くように笑って見せた。


 先ほどから数度ほど野生動物との戦闘に巻き込まれているが、ぶっちゃけ俺もユフィも全くと言っていいほど出番がない。


 それほどまでにフィオナの力は圧倒的だった。


 的確に敵の位置を把握し、接近される前に仕留めていく。時折高所に登っては周囲の状況をいち早く確認し優位なポジションを先取りする。


 これほどまでに有能な斥候は居ないだろう。そのおかげで当初予定していた時間よりもかなり早くこの山を登っていくことが出来ている。


「なんというか、出番無いわね」


 そんな彼女の姿を見ながらユフィが呆れ声をあげたのが印象的だった。


 事が起きたのはそれから一時間ほどさらに山を登った時だった。


「開けた場所に出ましたわね……」


 フィオナの呟き通り、突如山の中にぽっかりと開けた空間が出現した。


 先ほどまで鬱蒼とした森の中を登ってきたというのに、その場所だけ嫌におかしいほど地面が均されている。高い木なども見当たらず、ただ俺のひざ元に迫ろうかという背丈の雑草が乱雑に生い茂っているだけだ。


「フィオナはこの山登るのは初めてなのか……?」

「ええ、お父様から危ないから行ってはいけないときつく言われていましたので……。だからこの場所を見るのも初めてですの」


 そうは言ってもフィオナの実力じゃこの山を登りきるだけだったら訳もないだろう。ヘルグレンジャー氏が彼女の侵入を許さなかったのはもう一つ別の理由があるに違いない。


「それで、例のロケットってのは……」

「この先の小さな神殿に保管されているらしいわ」


 広場の一番奥、ユフィの指さす先にはこの開けた空間から続く細い階段のようなものが続いている。その階段の先に、ぽっかりとした横穴のようなものが見て取れた。


「あの穴の先か?」

「ヘルグレンジャー氏の話だとそういうことになるわね」

「あの先がウェンズデイの神殿……」


 三者三様の視線をそこに向けながら階段へと歩みを進める。


「へぇ……なかなか面白そうな子たちじゃない」


 その声が聞こえてきたのは、俺たちがその広場の真ん中に差し掛かった時だった。

 深海のように深い青のドレスを身に着けた女性が中空にふわりと浮かんでいた。


「何者ですのっ!?」


 咄嗟に戦闘態勢に入るフィオナとユフィ。しかしその視線の先の女はそんな彼女達の行動を意にも介さないかのような余裕の笑みを浮かべている。


 群青よりも深い青の髪を靡かせ、まるでこちらを嘲笑うかのようにその細い指を胸元へと這わせている。そこそこ距離は遠いが、この位置からでも彼女のスタイルが素晴らしいものだと見て取れた。


 ってそんなことに視線を奪われている場合じゃない。こんな場所で空を飛んでいる人物なんてどう考えても異常なことに違いない。


「……あんた、何者だ」


 俺の問いかけにしばし何かを考えこむような仕草を見せると、女はひらりと舞うようにそのドレスを中空で揺らして見せた。裾が舞い上がったときにちらりと見えた太ももが大変に素晴らしかったがそんなことに目を奪われている状況ではなさそうだ。


「お初お目にかかりますわ。私の名前はアクアマリー。水産の神と崇められる存在であり、そして――」


 直後、彼女は俺たちにとって最悪なことを口にした。


「あなた方の、敵ですわ」

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