第30話 混沌は雷鳴を伴い飛来する
ウェンズデイポートの空を覆うほどの巨大な影。その姿を屋敷の窓から眺めながらフィオレンフィーナ・ヘルグレンジャーは小さくため息をついた。
「アイリス……わたくしは……っ」
ため息の後に零れたのは唯一血の繋がったたった一人の妹の名前。三か月ほど前から行方知れずとなってしまった最愛の彼女の名前を呼びながらフィオレンフィーナは自室のベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
通商連合はアトランディアでも南の方に位置する。そのため常に温暖な気候は洗濯物を干すにも適した晴れ模様をもたらしていた。
そんな恩恵を受けて干されたシーツから漂う太陽の香りもフィオレンフィーナの心を慰めることはない。
肺の中いっぱいに漂わせた太陽の香りは、快活だった彼女の妹の姿を想起させるからだ。
「……どこに行ってしまったのでしょう」
ふと視線を部屋の脇に置かれている机に移すと、そこには小さな写真立てが置かれているのが目に入る。その中には少し照れくさそうなカメラ目線の自分と、その隣でこちらに元気よくブイサインを立てている少女の姿が映っていた。
「……フィオナお嬢様」
最愛の妹の姿に目じりに涙を浮かべていたフィオレンフィーナを現実へと引き戻したのは、部屋の扉の向こうから聞こえてくる規則正しいノックの音とこちらを呼ぶ聞き慣れた女性の声だった。
「メイスリーですか?」
「作用にございます」
「……どうぞ」
扉を開け一人の女性が部屋の中へ入ってくる。メイド服姿のその女性はフィオレンフィーナがまだ小さい時分からこのヘルグレンジャー家に仕えている使用人であった。
「どうかなさったのですか?」
「……旦那様から様子を聞いてくるようにと」
「そうですか……」
そういえば帰宅してすぐに自室に籠ってしまったために父とは顔を合わせていない。そんなことに思い至ったフィオレンフィーナ、もといフィオナはメイドであるメイスリーを自らの近くに手招いた。
「お父様はなんと……?」
「アイリスフィール様の捜索はいかがかと」
「それは……」
彼女がどうしてあの晩、国境を越え王国領であるアルペンザへと訪れていたのか。
それは三か月前に彼女の妹であるアイリスフィール・ヘルグレンジャーが突如姿を消したことが理由だった。
「メイスリー」
「はい」
「少し愚痴を零してもよろしいかしら」
「……お気のままに。私はなにも聞かなかった事にいたしますので」
すまし顔でそう言ってのける使用人に、フィオナは小さく笑みを向けるとぽつりとその感情を吐露し始めた。
「妹が姿を消して三か月。お父様とわたくしたっての希望でアイリスを探してまいりました」
「……存じております」
「だけれどもどこにも彼女の姿は見当たりません。通商連合領内だけではなく、王国領まで足を運びました。いくつもの商隊を差し向けましたがその影すらも捉えることが出来ずにいます。もしかしたら彼女はもう……なんて考えることすらありました……っ」
震える拳に温もりを感じる。いつの間にか顔を下げてしまっていたようだ。見ればそちらには真剣な顔で自分の話に耳を傾けるメイスリーの姿があった。
その姿に少し安心感を覚えると、フィオナは再び口を開くことにした。
「ウェンズディの神性の継承の期限も迫っております。このままわたくしはわたくしのままで妹に会えないのではないか。そう思う日々がたまらなくなり自ら逃げ出すようにアルペンザまで足を運んだのです。お父様とこの街から……そして自らの使命から逃げてしまいたかったっ」
「でも、フィオナお嬢様は戻ってこられました」
「……いえ、きっとどうしようもなかった事に気づいたのです。わたくし一人にできることなんてたかが知れておりますわ。わたくしの身を案じて追いかけてくださったヘルグレンジャー家の使用人たちからも一人で逃げだす事が出来ませんでした」
あの日、アヤトがフィオナの手を取って逃げた夜。妹の捜索が難航することに途方もない無力感を感じていたフィオナは街の広場を訪れた。そこで出会ったのがあの少年だったのだ。
「メイスリー……わたくしは怖いのですっ。ウェンズディの力を継承することは名誉ある事。それは分かっております。しかしきっとその時にはもうわたくしはわたくしではなくなってしまう」
今度は拳だけでなく、体全体が暖かさに包まれた。
「妹を妹と呼ぶことが出来ない。それがとてつもなく、わたくしは恐ろしいのです……っ!」
自らを抱きしめるメイスリーの体に手を伸ばしながら、それでもフィオナは自分の心の奥底からあふれる感情をせき止めることが出来なかった。
「アイオンバードが姿を現しました」
「……ええ、わたくしも窓から眺めておりましたわ」
そのことは先ほど自らその姿を目撃したことで既に知っていた。
「継承の期日は近しいのでしょう?」
「……お父様は詳しいことを教えてくれません。ただ、時が来たら分かる、とだけ。この力がウェンズデイポートを、ひいてはこの街からいずる全ての船員たちの安全を願う力だとしても、わたくしには荷が重すぎるように感じるのです」
「……例えお嬢様がお嬢様で無くなるときが来たとしても、私はいつまでもヘルグレンジャー家の、そしてフィオナお嬢様の使用人ですよ」
「わたくしは、心から良い使用人を持てて幸せです……」
体全体から伝わる彼女のぬくもりに小さく胸をなでおろす。例え自分自身が無くなってしまうその日が来るとしても、私はそれまで一人ぼっちじゃない。その思いがフィオナを少しだけ安心させるのだ。
しかし状況はそんな彼女に心の安寧をいつまでも許してくれはしない。
直後のことだった。屋内にいるにもかかわらず、フィオナの体を震わせるかのような獣の叫び声がウェンズデイポートの街なかに響き渡った。
「今のは一体なんなのですか……!?」
「……ちょっと様子を見て参ります」
離れていくぬくもりに名残惜しさを感じながらフィオナは部屋を出るメイスリーの背中を見送る。
「胸のざわめきが収まりませんわ……」
直後、先ほどの優し気な顔とは正反対の鬼気迫ったような表情の使用人が部屋に戻ってくる。
「め、メイスリー……?」
彼女の変わりように困惑しながらも、しかしフィオナは様子を尋ねる。
「……フィオナお嬢様。心してお聞きください」
直後、彼女の口から語られた言葉はフィオナにとってあまりにも残酷な現実だった。
「アイリス様の姿が確認できました。しかし……」
「あ、アイリスが戻ってきたのですか!?それで、今どうしているのですか……!?」
「そ、それが……」
「メイスリーっ!」
「あ、アイリスお嬢様の姿は現在ウェンズデイポート上空。……げ、現在、アイオンホークと交戦中ですっ!」
―――
「アヤトっ!逃げるわよっ!」
アイオンホーク出現後、その姿をただ見送るだけだった俺達の状況が変わったのは南の空に異様な黒い積乱雲を確認した後だった。
竜の巣を彷彿とさせるようなその真っ黒い雲は南の沖合から次第にウェンズデイポートへと近づいてくる。さらには雲の中で激しく光る稲光がその姿の恐怖感をより一層こちらに植え付けてきていた。
「あれはただの悪天候か?」
アイオンホークから逃げるように街の中心地から離れた俺たちは湾口部近くの定期輸送便発着場からその様子を伺っていた。
「……違うわ」
見れば隣に立つユフィの透き通るような肌が僅かに総毛だっているのが分かった。
「じゃああれはいったい……。っ!?」
ユフィにあの雲の正体を尋ねようとした直後のことだった。大きな稲光が一柱、海を穿つようにウェンズデイポート沖合に着弾する。
「これは……厄介なことになったわね……っ」
歯嚙みするユフィをよそに俺の視線は沖合に落ちた稲光から目が離せないでいた。その光の向こうに、何かの影があるのが見えたからだ。
「おい……ユフィ、あれは何なんだよっ!」
「……知らないわよ、あんな化け物っ!」
そこにいたのはゆうに50メートルを超えようかというサイズの二つ頭の巨大なドラゴンの姿。そして――
「女の子だ」
「ええ、しかもとびっきりの美少女ね」
その竜を従えアイオンホークへと襲い掛かる、一人の少女の姿だった。
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