第26話 君の前には無限の運命が待っている

 力なく倒れる彼女を抱き寄せるべく、俺は咄嗟に物陰から飛び出した。


 既にそこに悪しき神の姿はなく、空には未だ大規模魔法の名残ともいえる淡い緑の光がところどころに揺らめいていた。


「ヘカテーさんっ!」


 膝から崩れる彼女の元へたどり着いた時、ヘカテーさんは俺の腕の中で小さく口元を緩めていた。


「どうだいアヤト君。これが本来の神の力。まぁ、君に貰った分は今のですっからかんになってしまったがね」


 力なく抱きしめた彼女の体は俺の想像の何倍も軽く感じられる。だがこの手の中で確かに熱を伝えてくるその温もりが、豊穣の女神ヘカーティアがここにいるんだということを告げている。


「……終わりましたよ。今回の騒ぎは」

「そう、だな。私はこの街の役に立てたかな」

「ええ、確かに。貴女はこの街の英雄です」

「そういうのは柄じゃないんだけどな」


 しがみつくように体をよじったせいか、向かい合ったヘカテーさんの顔が俺の耳元まで迫っていた。


「無様なところを見せたね」

「かっこよかったですよ」

「そうか、それは何よりだ」

「さすがヘカテーさんですね」


 こんな状況をどうにかできたのはこの街ではきっと先生ただ一人だ。ユフィでも俺でも、そしてこの世界のどこかにいるかもしれない英雄でもなく、ただこの街を一番愛した彼女だからこそできたこと。

 だから俺の中の運命神の力は、そんな彼女が手に入れたがった未来のために力を貸した。


「私の力じゃないないさ。きっと君がいたからこそ」

「そんなこと……」

「あるに決まってるじゃないか。だって君が背中を押してくれたんだから。それに、ユフィと二人色々駆けまわってくれたんだろう?」


 そう言ってヘカテーさんは俺に小さく微笑んだ。俺と彼女の距離はほぼゼロに近い。見惚れるほどに綺麗な顔があまりに近くに迫ってしまい、俺は思わず視線を逸らした。


「……君が照れると私も照れるじゃないか」

「……ごめんなさい。でもそればっかりは」


 実際俺とユフィがやったことは、もしかしたらこの状況には何も影響を及ぼさなかったかもしれない。聡明なヘカテー先生だったらいつかこの街を脅かすその事態にも辿り着けていたことだろう。

 でも、そんな彼女から背中を押してくれたなんて言われたら、柄にもなく今回の自分の行動のすべてが少し誇らしく思えてしまう。


「そういえば」


 ふと、ヘカテーさんが視線をいまだ合わせることが出来ないでいる俺の耳元で囁いた。


「君に言わせると私はなんと美少女だそうで」


 そういえば先ほどのごたごたですっかりと忘れてしまっていたが、俺は彼女に魔法をかける直前にそんな恥ずかしいことを面と向かって言ったらしい。

 彼女にその気になってもらうために口にした言葉だったが、これがあながち事実なのだからしょうがない。


「……そんなことを、言った気がしなくも……」

「じゃああれは私の聞き間違いかい?」


 優しく笑うその顔があまりに魅力的に俺の目に映りこんでしまい、思わず彼女を抱き寄せていた腕にも力が入る。


「い、言いましたっ!確かにそう口にしましたっ!」

「ふふっ、素直でよろしい。では……失礼して……んっ」


 ふと、俺の頬に暖かな柔らかい感触が伝う。


「えっ……っ」

「ユフィには悪いが、物語の主人公には女神のご褒美が付きものだろう?」


 イマイチ自分に何が起きたのか飲み込めないでいる俺に、ヘカテーさんはまんまとしてやったりの表情を浮かべている。


「俺は物語の主人公なんかじゃ……。そんな大それた存在なんかじゃ……」

「君はその力なんか使わなくったって、願ったものに手を伸ばそうとする力を持っているさ。それに現状が及ばなくても……いつかきっと……君は……。これが、最初の……一歩だ、よ」


 気づけば先生はいつの間にか俺の手の中で小さく寝息を立てていた。そりゃあんだけの規模の魔法を使ったのだ。疲れ果てるのも当然のことか。


「……やっぱり貴女は俺たちの先生ですよ」


 きっと彼女には聞こえていないだろう。だが俺は今回の出来事の全てのお礼を兼ねて、腕の中で眠る美少女にそう小さく声をかけるのだった。


―――


「それで、旅に出ようと思うんです」


 亜神スコルディオとの戦いから数日が経ったある日、俺とユフィ、そしてヘカテーさんはプリズムウェルのとある食事処に足を運んでいた。


 ここはヘカテーさんが最初に食事に連れてきてくれた思い出の場所でもある。経った三週間ほど。思えば俺がこの世界に来てまだそれだけしか経っていないというのに随分といろんなことを経験したような気がする。


 まだ南門周辺の復興は終わっておらず、先生とスコルディオが激しい戦闘を繰り広げた大教会の屋上も現在絶賛修復中らしい。


 そんな中でもこの街は俺が初めて訪れた時と変わらぬ賑やかさを取り戻していた。


「この街を出ていくのかい?」


 今回食事に誘ったのはヘカテーさんではなく俺の方。この話はあることを相談するついでにユフィには事前に聞いて貰っていた。後は先生に俺たちがこの後どうするかを伝えるのみだ。


「ええ。ヘカテーさんにはいろいろとお世話になりました。この世界のことも教えてもらったし、そのうえ衣食住の世話までしてもらって……」

「それは当然のことだろう?アヤト君は困っていたのだから。なんたって私は豊穣の女神ヘカーティアだぞ?」


 以前の賑やかさと変わらぬこの街で、確かに変わったことが一つだけ。


「ヘカーティア様、ご機嫌麗しゅう。えっとその、俺、じゃなかった私は、プリズムウェルの北の集落で農家を営んでいる……」


 一人の男性が俺たちのテーブルへと顔を出す。筋肉質な体とそれを覆う焼けた肌が印象的な快活そうな男性だった。


「あぁ、私のことは今まで通りヘカテーでいい。女神だなんだというのは案外堅苦しいからね。というか君は以前私のところに相談に来たことが……」

「あ、あぁ。以前家畜の飼料の件で相談に乗ってもらったんだが、それでまた……」


 彼はヘカテーさんに小さく頭を下げると申し訳なさそうにそう口にした。


「あぁ、あれか。すまない、今は教え子たちと食事中でね。後で依頼書をうちまで送ってもらえないかい?」

「それは申し訳ないことをした。ヘカテーさんの姿を目にしたもんだからつい、な。嬢ちゃんと坊主もわりぃな」

「いえいえ、心配事だったのでしょう?」

「まぁ、な」

「分かった。早急に対処しよう」


 男は小さく俺たちに頭を下げるとその場を後にした。


 そう、これがこの街で変わったことの一つ。あの決戦の夜。大教会の上で亜神と戦うヘカテーさんの姿をこの街の多くの人間が目にしていた。


 『神域級魔法』


 先生がそこで行使した魔法は古来より一部の者にしか扱えないと言われている魔法だそうだ。その一部の者こそが”神の領域”に生きる者たち。ヘカテーさんこそがこの街の守護神である豊穣の女神ヘカーティアである。そう街の人々が多く認識してしまった瞬間だ。


 だが、元から彼女のことを慕っていた人は先ほどの男性はじめこの街の至る所に存在している。ヘカテーさんのこれまでの立場ががらりと姿を変えることはどうやらないようだ。


 しかしヘカテーさん自身に集まる信頼が、いつの間にか女神ヘカーティアへの信仰へと姿を変えているのはここだけの話。


 彼女の権能はいつしか姿を変え、このプリズムウェルの大地のみならず多くの生命に繁栄と実りをもたらすのだろう。商業都市プリズムウェル。その隆盛は未だとどまることを知らない。

 だがその成長の陰にはいつまでも一人の女神の姿があるとかないとか――


「っと、話を遮ってしまったな。それでアヤト君は旅に出るんだったな?」

「ええ。今回のことで痛感したというかなんというか……。俺はやっぱりこの世界で自分が何を為すべきなのか見つけなきゃいけないと思うんです。運命神トゥルフォナがなぜこんな力を俺に与えたのか。そして俺に何をさせたいのか。それを見つけないと食事も美味しく食べられません」

「そうか、それは大問題だな……」


 目を細めながらどこか寂しそうな表情を浮かべるヘカテーさん。豊穣の女神は今、この別れにどんな感情を抱いているのだろう。


「先生!私もその旅に同行しようかなって思うんです。この世界のいろんなところを回って修行するのが本来の私の目的でもあった訳ですし」


 これは事前にユフィと相談していたことだ。俺が世界中を回りたいとユフィに告げたとき、彼女は開口一番に「腕の立つ護衛が必要でしょう?」なんて言い放ってきた。元より付いてきて欲しいとお願いしたいところだっただけに素直に嬉しい助力の言葉だった。


 今の俺の実力じゃこの街を出ても、ものの1時間で野垂れ死に出来る自信があるのだから。


「ふむ……」


 何やら考え込むような表情を浮かべるヘカテーさん。しかし次の瞬間にはその顔はいつもの見慣れた笑顔に変わっていた。


「ならば私はそれを歓迎せねばならないな。教え子たちの旅立ちだ。見送らない師はいないだろう」


 ヘカテーさんに「教え子たち」そう言ってもらえたことがとてつもなく嬉しかった。


「まぁ、だがたまには手紙を出してくれると嬉しい。ユフィなんかここに来る直前にいきなり手紙を寄こしてきたからな」

「そ、その節は失礼いたしました……」


 テーブルの隅で小さく縮こまるユフィ。さすがにこれには俺もヘカテーさんも苦笑いを浮かべずにはいられなかった。


「アヤト君。しっかりとその目で見てくるんだ。この世界がどういう世界で、君がそこで何をすべきなのかを」

「はいっ」

「君の前には無限の運命が待っているぞ」

「……無限の運命」


 それがきっと誰かの想いで、そして俺の願いに繋がるのだろうか。それがきっと俺がこの世界で生きていく理由……。それが先生が俺にくれた旅立ちの言葉だった。

 


「それで、どこに行くかは決めているのか……?」

「ええ」


 この世界を巡るなら俺はどうしても行ってみたい場所があった。俺はどうしても日本人だから、その姿を久しく拝んでみたいのだ。それに、男と男の約束もあるしな。


 先生から向けられる期待の眼差しに応えるように、俺はこの旅の最初の目的地を力強く宣言する。


「通商連合。俺たちは、海を目指します!」

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