第22話 豊穣の神ヘカーティア
淡い光のなかから目覚めた時、私が立っていたのはどこまでも広大に広がる地面の上だった。
乾いた草と僅かに湿った匂いのするその地面は、どこか瘦せこけ生気を失っていた。
「……ここは、どこなんだろう」
ぼんやりと歩いては見るものの人の姿は見つからず、私が今どこに立っていて何故ここにいるのか、なんて疑問には誰も答えてくれそうもない。
だが、ただ私が歩いている周囲の地面は綺麗に耕され、時折規則的に区切られた区画に人の肩幅ほどの盛り土がいくつも均等に配置されていることに気づく。
なぜかその上だけは歩いてはいけないような気がして、その盛り土の間にできた溝を途方もなく歩いて行った。
「……あ、あなたは――」
初めて人に出会ったのは、それからしばらくその大地を歩き続けていた時だった。とある集落を見かけて何の気なしに立ち寄った私は、そこで一人の老人に出会った。
頬はこけ、服から覗く手足はまるで木の枝のように痩せている。そんな白髪交じりの老人がぽつんと大きな木の前で何かに祈っていた。
「あの、ここは一体どこなんでしょうか?」
そう尋ねた私に向け、彼が驚いた顔で呟いたのが先ほどの言葉である。まるで奇跡でも見るような、そんな顔をこちらに向ける。これでもかと見開かれた目元と鼻の穴が印象的だった。
「豊穣の神でございますか……!?」
彼にそう言われたとき、初めて私は自らが豊穣の神であることを自覚した。
それからというもの、私は体内からあふれ出る権能を利用して目に見える大地全てに恵みと豊穣をもたらした。
大地には豊かに作物が実り、季節が巡るたびにそこに人々の営みが生まれた。見渡す限りの痩せた大地だったそこにはいつしか集落が出来、時折遠方よりその地の作物を求めて人が来る。
そしていつしかその場所は、プリズムウェルと呼ばれるようになった。
「これぞ豊穣の女神のご加護あればこそ……」
プリズムウェルの人々は、口々に私に感謝の言葉を述べた。悪い気はしなかった。自らの力を利用して人々の生活を豊かにする。そしてその恩恵を得た人々が私を信仰し、そこから得た神性で私はまたこの地に実りをもたらす。
誰かが私を求めてこの地で祈りを捧げた。そして私はその信仰に応え顕現したのだ。
こうして女神ヘカーティアは豊穣の神としてこのプリズムウェルの大地を見守り続けてきたのだ。
そんなサイクルが500年ほど続いた。
私がそれに気が付いたのは100年ほど前のことだった。
「……あれ、どうしたんだろう」
きっかけはほんの些細なことだった気がする。確か大地の水はけが良くないとか、子どもたちが遊び場にしていた大きな木が枯れそうになっていたこととか、そんなことだった覚えがある。
それから次第に私は自らの力が衰えていることを自覚する。
気づけばプリズムウェルはこの国を代表する一大商業都市と化していた。この地の豊かな実りを求めて大勢の人が駆け付けた。そしてこの地の作物を国の至る所に届けようと交易路が流れ込んできた。
そして、いつしかただの農耕地帯だったプリズムウェルの姿は消えてしまった。
だが私はそれでもよかった。そこで生きている人々が笑って明るく毎日を過ごせるのであれば。この地を訪れる全ての人々が生きるということに真摯であるのならそれが何よりこの地を豊かにした私へのご褒美のように思えたからだ。
彼女に出会ったのはそんな生活もしばらく経ってのことだった。その頃の私は女神としての姿を偽り、プリズムウェルに一人の人間として暮らすようになった。
ちょっとだけ魔法が使える博識な少女。それが私のこの街での設定だった。
やりすぎてしまったことはちょっとだけ反省している。知識を求めるものには相応の知識を与え、困っている人々には神性魔法の力を貸した。
私が作り上げたヘカテーという少女はいつの間にかプリズムウェルでも一目置かれる存在になってしまったのだ。
だから私は少しだけこの地を離れることにした。
ちょっとだけこの世界を見て回りたくなったという知的好奇心がその背中を押した。人間の一生は短い。少しだけこの街を後にするだけでも、ヘカテーという少女のことなんて忘れてしまう人がほとんどだろう。またほとぼりが冷めたころに戻ればいいさ。そんなことを考えた。
そして、そんな旅先のとある集落で彼女の姿を見つけたのだ。
「……お姉さん、だぁれ?」
歳は5、6歳ぐらいだろうか。風になびく背中まで伸びたブロンズヘア。幼いながらにすらりと伸びた手足。そしてこちらを見つめる可愛らしい顔が印象的な少女だった。
だが私の目を惹いたのは彼女のルックスではない。
その体の中に、明らかに人の身には異質な神性を宿していたことが問題だった。
はじめは彼女も私と同類なのではと勘繰ったぐらいだ。だが彼女はれっきとした人。母がいて、父がいて、そして生まれ故郷があった。
生まれた時から見た目が変わらない私とは違う、月日が経つごとにその容姿も成長していくただの人間。だからこそ私はそんな不安定な彼女にこう声をかけたのだと思う。
「私が君に魔法の正しい使い方を教えてあげる」
最初何事か分かっていなかった彼女も、いつしか私を”先生”と呼ぶようになった。彼女が進学を期にその集落を離れるまで、私は彼女の先生であり続けたのだった。
そして久しぶりに、プリズムウェルへと戻ってきていた私にそんな彼女が会いに来るのだという。一方的に手紙だけ押し付け、旅の途中に顔を出すのだと。
多少勝ち気で生意気なところは小さいころから変わっていなかったな。でも、まさか男連れで訪ねてくるとは思ってもいなかったが。
「は、初めまして、ナナサキ・アヤトと申します」
異質な存在というものは互いに惹かれあう運命でもあるのだろうか。彼女が連れてきたその少年も、また明らかにこの世界の人間とは格別した存在であった。
ちょっとすけべでだけど真摯で、この世界で生きようと必死にあがく少年。私が彼に気を許すようになるのにそう時間はかからなかった。
私も彼女と同じように、いつの間にか彼の力になりたいと思うようになっていった。まぁ、本人にそう告げたらユフィは怒って否定するんだろうが。
「……でも、いつまでそのままいられるんだろうか」
私に残された時間はそう多くないことは分かっていた。信仰は儚き神々の為にある。そして、信仰は生きとし生ける人々の為に存在している。
それは互いに利害があるがゆえに存在するからで、もしどちらかがその契りを断りでもしたら、もう一方に残されているのは修羅の道のみだ。
プリズムウェルにはもう豊穣の神の力は必要ではない。
それはもう分かっていたことだ。だから人々は私への信仰を失い、そしてその結果女神ヘカーティアは力を失っていった。
また私が生まれた時の淡い光に包まれて行ってしまうんだろうか。
なんとなく、私の終わりはそんな感じに終わってしまうんだろうと思った。
だからこそ、私はそんな自らの運命を捻じ曲げるような彼の言葉に衝撃を受けたんだと思う。600年生きてきて、そんな言葉をかけてくれる人間は誰もいなかった。誰しもが私に神としての存在を求めて来たからだ。
そんな私がこの愛するプリズムウェルの為に出来ること。
神としてではなく、ヘカーティアという一人の存在として。
―――
「……ヘカテーさん」
「なんだい、アヤト君」
大教会の頂上で、彼は小さく私の名前を呼んだ。
「やってもらいたいことがあるんです」
「……でも、私にできることなんて」
そう口にした私の姿は、彼の目にどんなふうに映っているんだろう。
「ありますよ。だってあなたはこの街を守る神様であり、そしてこの街を愛する一人の美少女なんですから」
「この期に及んで私をからかうつもりかい?」
「先生は可愛いですよ。どこか陰のありそうな横顔とか、食後の一息をついているときに見せるちょっとした気の抜けた表情とか。とても素敵です」
「……女の子には真摯に向き合えと」
「ちゃんと覚えてますよ。そして、俺は今それをちゃんと実行してるつもりです」
彼の顔が不意に近づいてくる。思わず小さく肩に力が入るのが分かった。
「だから」
小さく息を呑んだのは私か彼か。直後、彼はその魔法の言葉を口にする。
「『一生に一度のお願いです――』」
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