第2話 第一印象は大切にした方がいい


「絶対にぶち殺してやるんだからっ!」


 俺は今、再び必死の形相で見知らぬ森の中を駆け抜けている。事の発端は10分ほど前に遡る。崖から滝つぼに真っ逆さまに落ちた俺はその場所で気持ちよさそうに裸で水を浴びる美少女に出会ったのだった。


「この借りは高くつくんだからっ!」

「だ、だから誤解なんだってっ!」


 近くの枝にでも引っ掛けておいたのだろう。咄嗟に掴んだ衣服で体の前を覆い隠しながら、その美少女はこちらに向けて鬼のような形相で追走してくる。


 もちろん見てしまったことは事実なのだが、このよく分からない場所で出会った初めての人間なのだ。この場所のことを知りたい俺としてはまさに絶好のチャンス。出来ればなんとしてでも彼女の誤解は解いておきたい。が、うら若き乙女にとってはこちらの都合など知る由もなし。こうして人知れず目撃者を葬ってしまえという魂胆なのだろう。


「誤解な訳ないでしょうっ!私、ばっちりあんたと視線が合ったのよっ!」

「み、見えたのは後姿だけなんだって!その、前は見てないからっ!」

「前か後かなんてどうだっていいのよ。あんたが死んでしまえばそれで済む話なんだから」

「もっと穏便に事を進めようとは思わないのかよっ!」

「あら、私の裸はそんなに安いものじゃないの」


 地面を這う枝葉になんとか気を遣いながら、それでも全力で足を前に向けることだけは止めない。時折後ろを追いかけてくる彼女へと視線を送りつつフェイントも兼ねて無茶苦茶にその場を駆け抜けていく。


「しかし……」


 森に放り投げられたときは困惑に困惑を重ねていたが、時間が経ってようやく俺もそこそこに冷静になってきたらしい。周囲の状況が先ほどよりも随分とよく見える。

 現に後ろを追ってきている彼女についても、衣服で前を覆ってはいるがその脇からたわわに実った二つの果実が零れそうになっていることを俺は見逃してはいない。


「また不埒なこと考えたでしょうっ!」

「心でも読めるのかよ!」

「そんなもん読めなくてもあんたのだらしない顔見りゃ分かるわよ!」


 そう言われてしまったら仕方がない。あんな絶景が視界の端に映っているのに心穏やかであれというのが無理な話だ。


 しかし、そこに気を取られてしまったのが運の尽きだったようだ。


「まずっ!?」


 足元に激しい衝撃が加わったかと思った刹那、俺の目の前に先ほどまで必死に駆けてきた地面が猛烈に接近してくるのが目に入る。


 どうやら大きめの石か固い木の根に足を引っかけてしまったらしい。


「っ!?」


 咄嗟に手を伸ばして顔から突っ込むという事態は避けたものの、そのまま俺は勢いのまま地面へと激しく転がっていく。最初にぶつけた右肩には激痛が走り、背中をはじめ体のあちこちに木の枝や石ころのゴロゴロとした感触が伝わってくるのが分かった。このままじゃ追いつかれる。そう思った俺はすぐさま近くの掴まれそうなものへと視線を動かす。


 直後。起き上がるために手を伸ばそうとした木の幹が大きく爆ぜた。


「さすがにこんな格好じゃ外しちゃうわね」


 そりゃそうだ。元から妙な話だったのだ。真っ白な空間に羽の生えた美少女。再び目覚めたら今度は森と来たもんだ。そりゃあったって別に不思議じゃないですよね。


 ええ、分かりますとも。分かっちゃいましたとも。分かってましたとも。ありますよねぇそんな力。


「……魔法は、ズルいだろうがよ」

「あら、私の力なんだからいいじゃない。あなたも何か抵抗ぐらいして見せたらどう?」


 気づいた時には、その声は俺の直ぐ真後ろから聞こえてきた。


「はは……お生憎と、君に見せるような力はなくてね」

「あら、私じゃ不足だって言うの?」


 誰が言えるかよ。あんな恥ずかしい力の事なんて。なんでかっこいい魔法とかじゃねぇんだよ。……いや、待てよ。もしかしたら俺の力ならこの場面を切り抜けられるかもしれねぇ。


「た、頼むっ!『一生に一度のお願いだ!』なんとか見逃してくれ!」


 祈るようにして彼女に視線を向ける。もちろん念じるように閉じた目の隙間から彼女の肢体を何とか拝んでやろうとあがくことも忘れない。しょうがないじゃないか、男の子だもの。


 それに、もしあの美少女が言っていた力が本当なのであればこれで――


「は?そんなんで許されるとでも思ってるの?」

「デスヨネー」


 父さん、母さん。不出来な息子で申し訳ありません。あなたの子どもはどこともしれない異世界で美少女の手によって命を絶たれるようです。


「せめて痛くしないでください」

「できない相談ね」


 見れば彼女の右の手の平に赤く光が集まっていくのが見て取れた。

 先ほどから僅かに鼻先をつく焦げた香りと、直前に爆ぜた木の幹を見るに彼女のそれは爆発系、または炎に関わる魔法であることには違いない。そんなもの一般人である俺に一体どうしろと言う話である。今はただ静かにその時を待つほかないのだろうか。


 そんな場所に闖入者が現れたのは、彼女がまさに手に集めた魔法を俺に放とうと大きく手を引いた時だった。


「な、なにっ!?」


 すぐ脇の茂みから、黒い影が彼女に向かって飛びかかっていった。


「しまったっ、グリムボアの生息域まで来ちゃったか!」


 突然のことに驚いたのか、彼女の魔法は思わぬところを爆破する。が、それは俺も同じ。いきなり目の前に姿を現したそれにビビってしまい、せっかくの逃げるチャンスだというのに俺は一歩も動くことが出来なかった。


「じょ、冗談はよしてくれよ……」


 全長1.5メートルは優に超えるであろう体躯。太くたくましい四肢の先で鋭い蹄ががっちりと地面をつかんでいる。先ほど俺と命がけの鬼ごっこを演じた猪だ。まさかこんな近距離でお目にかかることになろうとは。


「全く、とんだ邪魔が入ったものね」


 急に現れたそれに一時は慌てた姿も見せたものの彼女はすぐに平静さを取り戻していたようだ。どうやら俺よりもその猪を排除することを優先したらしく、手のひらにすぐに再生成されたそれはこちらに猛烈に突進してくる猪を文字通り一撃で吹き飛ばしたのだ。


「ま、私にかかればこんなものよ」


 勢いよくはじかれたそれは、木の幹に背中から激しくぶつかったせいもあってかピクリとも動かない。いや、きっとあの魔法が直撃した直後には、もうこと切れていたのかもしれないけれども。


「さて、邪魔者もいなくなったしようやく本命と行こうかしら」


 ぐいと手元の衣服を体に押し付けるようにしながら、少女は再びこちらへと向き直った。


「あの、考え直していただくなんてことは……」

「ないわね」


 一蹴。俺の提案は先ほどの猪よりもさらに軽く吹き飛ばされてしまったようだ。


「さてと……っ!?」


 直後、彼女の側面から先ほどとは違う個体が飛び出してきた。咄嗟に魔法の再生成を行うものの反応が遅れたせいかそれも猪の突進には到底間に合いそうにない。鋭い牙が彼女のその柔らかそうな体に向かうのが俺の視界の端にくっきりと飛び込んでくる。


「あぁああああ!!!」


 思えば、どうして考える間もなく体が動いたのかはよく分からない。気づけば俺はその猪の横っ腹に向かって渾身の飛び蹴りを放っていた。


 鈍い感触が足先から全身に伝わってくる。吹き飛ばす、なんて芸当まではいかないまでも猪の体勢を崩すことには成功したようだ。彼女を貫くはずだった牙は空を掠め、そのおかげで生じた隙により直後に猪は先ほどとは違う場所へと弾き飛ばされていったのだった。


「…………助かったわ」

「そりゃどうも。こちらこそあんたがいなかったら今頃あいつらの晩御飯だ」


 地面に横たわる俺の元へと白く繊細な手が差し伸べられたのが分かった。


「グリムボアは草食だけどね」

「死んでることには変わりない」


 その手を取りながら立ち上がると、もうすっかり動かなくなってしまった猪へとちらと視線を移す。すまない、手段はどうあれこれがきっと生存競争ということなんだろう。


「あーもうなんかバカらしくなっちゃったわ。ユフィよ」

「…………えっと」

「ニブいわねっ!名前よ名前っ!」

「あ、あぁ、そういうことかっ。えっと、俺はアヤト。ナナサキ・アヤトだ」

「アヤト、ね」


 美少女、改めユフィは俺の名前を小さく反芻すると徐に手を差し伸べてきた。俺もそれに応じるようにその細い手を握り返す。


「これも何かの縁よ。で、私はもう街に戻ろうと思うんだけどあんたも一緒に来る?」

「街があるのか!?」

「……いや、そりゃあるわよ。じゃないとあんたはどっから来たのよ。まぁいいわ。で、どうする?」

「あー、正直一緒にいてもらえると助かる。さっきのにまた襲われると多分一人じゃ死ぬ。いや、間違いなく死ねると思う」


 グリムボア、とユフィが呼んだあの巨大猪。こちらが油断した隙をついてきたあたりおそらく一定の知性があると推察することが可能だろう。それともそういうものに対して本能的に体が動くのか。

 とかく自分一人じゃ間違いなく野垂れ死ぬのが関の山だ。ここはありがたく彼女の提案に乗っておくことにしよう。


「じゃあ、私さっきの場所まで荷物取りに戻らなきゃだから……」

「俺も一緒に行くよ」

「そ」

「それよりもユフィ、一つ提案があるのだけど」


 今後のことはどうなるか分からないがとにもかくにもまず一つ、彼女に伝えておかなければならないことがある。


「何よ。大事なこと?」

「まぁ、俺にとっても、そしておそらく君にとっても大事なことだと思う」


 既に目的地に向けて足を向けていた彼女がふとこちらを振り向いた。俺が今から告げることは、きっとこの世界で何よりもまず優先しておかなければいけないことなんだと、本能がこれでもかと警告を鳴らしている。


「何?しょうもないことだったら許さないわよ?」

「あのだな…………とりあえず、その持ってる服、着たらどうだ?」

「~~~~~~っ!このっ……っえっちぃ!」


 直後、俺に飛んできたのはそれはそれは見事な右ストレートだった。いや、結局俺に危害は及ぶのかよ。

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