interlude & shift → Love,
テンダー。首をかしげている。
「兄が結婚、ですか?」
「はい。私が直接伝えるのは、差し障りが、あると思うので」
涙が出そうになるのを、冷静に、こらえた。ひとりだったら、普通に泣いていたかもしれない。目の前には、テンダーがいる。泣けない。そんな自分が、すこし、みじめだった。
「差し障り?」
「結婚すると、聞きました」
私ではない、相手と。
「結婚」
テンダー。また、首をかしげている。
「兄が?」
「はい」
「兄が結婚なんて、聞いてない、ですけど。お相手は、あなたではないのですか?」
「はい」
テンダー。分かった、という顔。
「勘違いされていませんか?」
走った。
大丈夫。経血も出てない。
会社。入ろうとして、警備員に止められる。
「あ、社員証」
夜間に入るには必要なのか。夜に入り直したことないから、知らなかった。
どうしよう。持ってない。
「あ、警備員さん」
奥から、総括。
「だいじょうぶですよ。総括権限で社員証なしで、客員扱いで。ええと、ここを、こう。はい。ここに名前書いて」
「ありがとうございます」
「話は聞いたから。彼は今、バーにいるから。引き留めたから。がんばって」
名前を書いて。走り出そうとして。いったん止まった。振り返る。
「総括」
「うん?」
「どっちから告白したんですか?」
「え、わたし?」
「参考までに」
「え、ええ。向こうから、かな」
「接触非開示性パーソナリティ異常のことは」
「うん。言ってない。だってそれ、隠すための嘘だもの。ごめんなさい。そんな病気はないの」
「嘘かあ」
「ごめんね。ごめん。でも本当に、あなたとは何も」
「分かってます。いままで通り。いままで通りでいきましょう」
「ありがとう。がんばって」
「ありがとうございます」
また、廊下を走る。
階段を上って。
バーに。
クローズドの文字の前に。
彼。
うまくブレーキを掛けられずに、突っ込んだ。彼が受け止めて、くれる。
「走ってるところ、ひさしぶりに見た」
「うん。ひさしぶりに、走ったから」
ちょっと呼吸がくるしい。背中に当てられた手が、やさしく、私を支える。
「妹から、聞いた」
「そっか」
彼。私の呼吸が整うのを、待っている。背中に当てられた手が、暖かい。
「座ろっか」
「うん」
クローズドのバー。鍵は、彼が持っていた。扉が開く。
いつも通り。
私がカウンターで、彼は、壁側。
お互い、背中を向けて、座る。
「まずは、ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「妹さんだとは思わず、失礼な態度を」
「いえ。妹のことだったので、伝えるのを失念していました。もうしわけない」
「いえいえ」
「妹から、相手のことは」
「聞きました。というか、おそらく、妹さんよりも、結婚相手のほうと、私は親しいです」
「そうなんですか」
「ときどき私の話に出てくる、総括というかたがいます」
「はい。存じています」
「ええと、その総括が、お相手、なので」
「え」
「はい。私の友達です」
「社内の人間とは聞いてたんですが、まさか、あなたと親しいとは」
「一応断っておきますが、総括とは友達なので。そういった、恋としての接し方は、一切しておりません」
「そうですか。すこし安心しました」
「あの」
振り返った。
彼。背中を向けている。
私も、もういちど、カウンター側に身体を戻した。
「すいません、でした」
「どうしたんですか」
「いえ。その。色々」
「なにも、あやまることはないですよ」
「でも。あなたが結婚すると勘違いして、私は。失礼なことを」
振り向いた。
彼。
背中。
「傘が差し出されたときも。いいえ。その前も。中学のときから。ずっと。私は、助けてもらってばっかりで。ずっと」
彼の背中を見ながら、涙で、言葉が、詰まった。
「それを言うなら、謝るのは、おれのほうかもしれないです」
彼。
「おれは、ずっと。あなたのことが好きだった。けど、告白する、勇気がなかった」
彼の背中が、にじんで見える。
「むかし、おれの傷を、ハンカチとかで拭ってくれたことを、覚えてますか」
「覚えてます。雨の日だった」
彼のほうをそれ以上見れなくて、やっぱり、カウンターのほうに目を戻す。そして、涙をむりやり袖で拭う。
「あの日、おれは、喧嘩してたんです」
「喧嘩」
「弱虫だって。女としかペアを組まないし、女と仲良くしてる、って。生意気だと言われて」
「そんな」
「喧嘩になって、勝ちました。でも、傷を、あなたに拭いてもらってるとき、生意気かもしれないって、思って、しまって」
彼。今度は彼の、言葉が、詰まる。
「それから、なるべく、角が立たないように、隣にいても、周りから生意気だと思われないように、って。そうやって。生きて、きました」
振り返った。
彼の背中。私の涙ではない。にじんでいるけど、彼の背中。ふるえている。
「こわかったんです。あなたに、生意気だと、思われるのが。邪魔だと、思われるのが。こわかった。ごめんなさい。ずっと、やさしいままで。おれだって。ほんとは」
彼が振り向く。
目が、合った。
「わたしは、あなたのことが、好きです。いえ。愛してます。そういう、周りの目を気にしてしまうところまで」
「おれも。ずっと。はじめて会ったときから。あなたのことが。好きでした」
扉が開く。
「自分の兄とはいえ、過去形は良くないですね。訂正しなさい。好きでしたではなく、今も好きと言いなさい」
「がんばった。ふたりとも。がんばったよ。もう、我慢しないで泣いていいよ」
バーテンダー。総括。
「さて。何にいたしましょうか?」
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