マリッジ・カクテル (全話連結形式)

marriage shot.

 彼が、結婚するらしい。


 友達以上恋人未満を、ずっと続けてきた。仕事に恋愛沙汰を持ち込みたくなかったので、部局も違う彼とは、仕事で会うことはあまりない。


 うちの会社には珍しく社内にバーがあり、バーテンダーが常駐している。


 そこの敏腕テンダーが、彼の妹だった。容姿は似ても似つかない。彼は身体が角ばって筋肉質だけど、テンダーは華奢な身体に細く長い指。


「どうぞ」


 いつも、このバーで会う。


 隣り合って喋るのではなく、背中を向けて。私はテンダーの顔を見て、テンダーに語りかけるように喋る。彼は、壁の絵に向かってひとりごとのように。


 呑んだ。美味しいお酒だけど、心から美味しいと感じることができない。彼が、離れていくからか。


 直接、彼の口から結婚することを聞いたわけではなかった。たまたま彼のいる部局に用があり、入ったときに彼が囲まれて祝福されていた。相手とか馴れ初めとかを訊かれていたような気がする。覚えていない。すぐにその場を離れたから。


 テンダー。


 美しい指と、綺麗な顔。隙のない動作。


 席を立った。容姿にしか目が行かないのは、自分が、いやしいから。


「ありがとう。美味しかった」


「まだ、来ておりませんが」


 彼が、ということだろう。


「いいの。もう」


 手を振って、席を立った。


 テンダーは、たぶん引く手あまたで、きっと声をかければどんな男でもなびく。


 自分は。


 もうすぐ三十に差し掛かろうとしている。


 幸いなことに綺麗でも不細工でもない普通の顔に、普通としか言い様のない体型をしている。中学で止まったまま、身長も伸びていない。


 中学では成長が早すぎて周りから奇異の目で見られたりしていた。そのとき、普通に接してくれていたのが、彼。成長具合の関係で体育は男子のチームに入れられたりして、キャッチボールやバスケットボールのパスの練習にも同性の相手がいなかった。


 彼は、笑って自分からペアになってくれた。私なんかのために、ボールを投げて、ふたりでいてくれた。そのころの彼は誰とも仲が良かったので、思春期独特の勘ぐりなどは起こっていない。


 今なら分かる。


 彼は、私のために、他の女子生徒や男子生徒にやさしくしていたのだと。角が立ったりいじめられたりしないように、守ってくれていた。


「ふう」


 仕事にならない。

 色恋は仕事に持ち込まないと決めていたのに。


 彼の、ことが。

 頭から離れない。


「ちょっと調子が出ないので、早めに帰ります」


 総括に報告だけして、鞄に持ち物を詰め込みはじめた。


「え、えっ」


 総括。焦った顔。


「だ、だいじょうぶ?」


「大丈夫です」


「そ、そう」


 私が彼と仲がいいことを知っているのは、バーテンダーの彼女と、総括の彼女だけ。


 仕事は普通にできる。昇進したくないので、そういう雑事はすべて総括に任せていた。かわりに、総括は私のプライベートに侵食してくる。


 接触非開示性パーソナリティ異常と本人は言っていた。そういうものがあるかどうかも、私は知らない。他人との精神的距離感が、具体的に把握できないらしい。よそよそしくなったり、なれなれしくなったりする。


 自分にとっては、苦ではなかった。なれなれしくなったとき、よく部屋に遊びに来てごはんを作ってくれる。よそよそしくなったときは、なるべく話しかけない。それだけ。


 ただ、今は。


 総括に気を回せるだけの精神的余裕が、自分には、ない。


 鞄を持って、部局を出る。


 彼に出会いたいような、出会いたくないような、切ない気分で廊下を歩く。


 誰とも会わずに、会社を出た。


 夕陽。


 空が紅く染まっている。


 陽が暮れる前に帰るのは、いつぶりだろうか。


 いつもは、夜になるまで社に居残って、バーで呑んでから、帰る。仕事が好きというのもあるが、単純に、帰ってもやることがない。ひとりの部屋があるだけ。


 バーにいれば、テンダーがいる。そして、彼が来る。ひとりではなかった。


 今は。ひとり。夕陽を眺めながら歩いて帰っている。徒歩15分の道程。


 彼とは、一緒に帰る仲だった。中学のときも、一緒に帰っていた。16時55分。


 そう。16時55分。


 帰り道にある公園で、彼を待つ。部活が終わるのが16時50分で、その五分後に、彼は公園に来る。そして、一緒に帰る。17時になったら、あきらめてひとり。


 今は。16時55分なのに。ひとり。


 足元ばかり見て歩いていたから、なのかもしれない。気付いたら、雨が降っていた。気付かないなんて、ばかみたい。


 雨。濡れていく。髪も。服も。鞄も。


 こんな日もあった。


 雨の日に17時になった。

 いつもはあきらめてひとりで帰るところを、雨だからと17時15分まで待った。


 来た彼は、顔と腕をぼろぼろに擦りむいていた。急いで駆け寄って、雨で濡れたティッシュで血を止めて、ありったけの絆創膏とハンカチで傷口を塞いであげた記憶がある。


 雨でぬかるんでて、転んだ。そう言っていた。


 彼のことしか、思い出さない。


 これからも。


 ずっと、こうなんだろうか。


 彼のことばかり思い出しながら、ときどき部局ですれちがったり、バーで鉢合わせしたり、するのか。


「どうしよう。これから」


 呟いた言葉は、雨の音で、誰にも聞こえやしない。


 ひとり。




 駆け寄って来る音。


納和なわさん」


 彼の、声。


「帰ったって聞いて。そちらの総括から」


 振り返りたく、なかった。そのまま歩く。


「うん。調子がわるくて」


 雨の弾ける音。たぶん彼は、傘を差している。わたしは、差していない。それだけの違いなのに。それが、どんなに努力しても届かないような、永遠の違いだと、思う。彼には、傘がある。私には、ない。


 そういう人生。


 雨が、止んだ。


 違う。


 彼が、傘を。


「ごめん。そんなことすると、誤解されるよ」


 振り向かず、傘から出て、歩く速度を、ほんの少しだけ、上げた。


「ごめんね。ごめん。帰るから。お幸せに」


 彼のほうを最後まで見ずに、早足で歩いた。


 いつのまにか、家の、玄関。


 足元ばかり見て歩いて、そしていま、足元を見てる。ほんの小さな、水たまり。


「わたしは」


 そういうことが、言いたかったんじゃない。


 お幸せに、って、なんだ。


 当てつけか。


 中学から、ずっと。


 ずっと自分を大切にしてくれた人が。


 その人が結婚するというのに、お幸せにって、言って。突き放すのか。


 もっと、他に、結婚を祝う言葉が、あったんじゃないのか。これまでの優しさを感謝する言葉が、あったんじゃないのか。


「ばかだ」


 こんなに、こんなにも、ばかな人間が。私か。


 しゃがみこんだ。


 今。玄関に、この状態で上がると。


 マットが濡れる。


 でも、このまましゃがんでいても、何も事態は進展しない。


「私みたい」


 何も起こらず、何も起こせず。ただ、しゃがみこんでいる。


「たす」


 けて。


 ぎりぎりで、口に出すのを、止めることができた。


 たすけて。


 私が助けを求めるのは、彼だけ。そして、彼は、もう私のもとには、いない。


 さっき差し出してくれた傘を。雨から守ってくれた優しさを。私は、素直に受け取らなかった。


 お幸せに、って、捨て台詞だけ残して、歩き去った。


 そんな私が。たすけてと言うのは、おかしい。


 扉。開く音。


 わずかに差し込む、光。


 振り返った。


「だいじょうぶ?」


 彼ではなかった。


 総括。


「気になって、来たの。濡れてる。待ってて」


「なにしに」


「だいじょうぶ。休憩時間扱いだから。総括は偉いから、そういうのも自分で決められるの」


 彼女が、玄関に上がる。


 ちょっとして、新聞紙とタオルが用意されて。


「はい。これでだいじょうぶ。おいで」


 新聞紙の上に乗って。鞄を置いて。服を脱いで。タオルで身体を拭いて。


「ありがとうございます」


 それしか、言葉が出てこなかった。


 ただただ、つかれた。

 眠りたい。


「私、もう、寝ます。総括は戻ってください」


「でも」


「戻って」


 少しだけ、プレッシャーを乗せて、言葉を出した。優しさが、今は、つらい。


「うん。わかった。もしかしたらもう二度とここには来られないかもだから、そのときは違う人呼んでおくから」


 どういう意味か、理解することができなかった。


 総括のほうを見ずに、ベッドに潜り込む。


 微熱を、感じる。


 身体は丈夫だから、熱が出ても微熱程度。昔から、そう。中学から。看病されたこともない。


 眠りについた。


 そして、起きる。


 寝たような気はしないけど、微熱は、なくなっている。


「熱ぐらい」


 出ればいいのに。彼を失っても、ばかみたいに丈夫な、私の身体。


 ベッドから出ようとして、昨日の言葉を、思い出した。総括。もうここへは来れないって、言ってた。


 プレッシャーを乗せて言葉を出したのが、いけなかったのかもしれない。あんまり、そういう、威圧する言動を総括にしたことはなかった。


 謝っておくか。携帯端末。


「鞄か」


 帰るときに全部鞄につめたんだっけか。


 立ち上がった。


 少し立ちくらみ。


「あ」


 今、気付いた。

 シーツと、下着。

 鮮血でちょっとだけ真っ赤に染まっている。


 立ちくらみの段階で気付くべきだった。不安定経血。


 これも、昔から。医者も不思議がっていた。


 体調がわるくなると、ほんの少しだけ、経血が出る。そして、身体が治る。そもそも微熱が出ること自体少ないので、忘れやすい体質。


 そういえば、中学のときも。血を彼がごまかしてくれて。


「またか」


 また、彼のことか。


 もう、いやになる。


 扉を開けた。


「あ」


 バーテンダーがいる。


 にこっとした、笑顔。


 そして、その笑顔が、私の下半身を見て、固まる。


「あ、違うんです。これは体質で」


「同じです」


「同じ?」


「体調崩れると、血、出ますよね。お医者さんも分からないって」


「あ」


 同じ。


 テンダーと。


「ちょっと待っててください。血の色落とすの、持ってますから」


 小走りに駆け出した彼女が、何かを持って戻ってくる。


「彼女の代わりです」


「彼女」


 総括か。


「へこんでいたので、形だけでも、あとで謝っていただけるとありがたいです。彼女は繊細なので」


「いま、謝ります。そのために起きたんです」


「あ、下着は脱いでくださいね」


 テンダー。

 バーにいるときと、まったく印象が違う。服か。それとも、部屋の明るさか。子供っぽくて、無邪気。


 鞄から携帯を取り出して、電話をする。


「あ、私が先に出ます」


 差し出された、ちいさくてかわいい、手。テンダーの手は、こんなに小さかったのか。


 そのまま、電話を乗せる。


「あ、わたし。うん。いま起きた。大丈夫。大丈夫よ」


 電話が渡される。


『ごめんなさい。許可もなしに突然家に上がって、タオルとか新聞紙とか』


「いいえ。ありがとうございました。たすかりました。わたしのほうこそ、ごめんなさい」


『え、謝るのはわたしのほうよ。あなたはわるくない』


「また、来てください。わたしの家に」


『うん。それは、なんともいえない、かな』


「どうしたんですか」


『いや、ちょっと、あって。ごめんなさい。また連絡するね』


 電話が切れる。携帯の時間表示。午後8時32分。いつもなら、彼とバーで呑んでいる時間。


 まただ。また彼のことを。


「はい。あとはお洗濯で取れますから」


 テンダーの、笑顔。彼のことを一瞬でも思い出したことで、また、何か、こみあげてくる。


「何かあったら、言ってください。今日はバーはお休みに」


「待ってください」


 引き止めた。自分に、いちばん、びっくりした。


「大丈夫ですよ。私はここに」


「そうじゃなくて」


 そうじゃなくて、なんだ。


 冷静でいよう。


「彼に。結婚おめでとうと、伝えてもらえますか」


 寝たから、微熱もなくなったから、冷静に。


 彼は、もう。


 いないのだから。



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