第8話


 俺と澪が初めて出会ったのは、幼稚園の頃であった。十年以上も前で、いわゆる物心がつく前の事だったため、何か印象的なエピソードを覚えているわけではない。ただ、いつの間にか澪は、ずっと俺と一緒にいるようになった。

 

 小学校に入学してからのことは、はっきりと覚えている。彼女が実家の道場に通い始めたから、一緒に行こうと誘われた。道場とは何をする所なのか知らなかった俺は、誘われるままに道場に顔を出した。そこで、初めて恐怖という感情を知った。


 屈強な男たちが、それぞれ木刀を持って相手を打ち据える。ある者は剣で受け、ある者は肉体に叩きつけられて床に倒れ伏す。木刀のぶつかり合う音と、痛みに呻く声。そして道場に響き渡る先生の怒声。


 あまりの恐怖に、その日の夜は一人で眠ることもできずに母の布団の中で震えていた。


「つっくん、いこ」

「あんなこわいところ、もういきたくない」

「だめ、いっしょにいく」


 こんな澪とのやり取りが、一年以上続いたのだが、澪は毎日俺の家にやってきて、俺の手を引いて道場に向かった。


「なんだ坊主、また澪に引っ張ってこられたのか? もっと力をつけろ、男だろうが!」


 そう言って、先生は毎回笑っていたが、どう頑張っても、澪の手を振りほどくことができなかった。これは決して、澪が可哀想だからとか、そんな感情があったわけではない。あの時の俺は、どうやって澪から逃れられるのかだけを毎日考えていた。


 残念なことに、小学校では全ての学年で同じクラスで、学校が終わるとそのまま道場に連行されるという苦行が課せられていた。知らぬ間に母と先生が仲良くなっており、道場に直行するのは親公認になってしまっていたので、もはや逃げ道などなかった。


桜観斬月流では、防具を着けることを許さない。これは、桜観斬月流が剣術だけではなく、格闘術も扱うからである。


せめて格闘術であれば、恐怖も少しはマシになったかもしれない。しかし、澪は剣術しか使わない。来る日も来る日も木刀を振り、俺はなんの装備も持たずにそれを避け続ける。結局小学校の6年間で、まともな一撃をもらうことはなかったのだが、いつ死ぬかもわからないという恐怖だけが精神に深く刻まれた。


中学になって、俺と澪は三年間で一度も同じクラスになることはなかった。6年間で鍛え上げられた俺の逃走能力により、帰りのホームルーム終了と同時に逃げ出せば、澪と鉢合わせることはなかった。


 中学の卒業式の日に、道場に絶対に連行しないという条件で、澪に呼び出された。逃げてしまおうとも思ったが、逃げたことが知られれば、本気で殺されるかもしれない。そう思った俺は、渋々待ち合わせ場所に向かった。


「九十九、私の事、嫌いになった?」


 そう告げた澪の表情は、いつもの無表情に比べて、どこか寂しそうだった。


「澪のことは、嫌いじゃないよ」

「本当?」


 澪のことは嫌いじゃない。ただ怖いだけ。


面と向かい合うと、いつ斬りかかられるのかという恐怖でいっぱいになってしまうから。


「じゃあ、どうして道場に来ないの?」

「俺には、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「本当に、私のことは、嫌いじゃない?」

「なんだよ、こんな美人を嫌う男なんていないだろ?」

「……」


 澪は俺に背を向けて、無言のままうつむいている。これは今のうちに逃げろということか?


「九十九」


 あ、まだ逃げられないやつだ。


「どうした?」

「幼稚園の頃の約束、覚えてる?」


 全く覚えとりません。


「いろいろ約束したけど、アレのことかな?」

「たぶん、それ」


 おお、なんか当たった。それがどれかは全く分からないけど。


「私、強くなるから」

「そうか、あんま無理すんなよ」

「大丈夫。だから、待ってて」

「お、おう」


 くるりと回ってこちらを向いた澪は、確かに微笑んでいたと思う。




 なんていうやり取りがあってから早一年。高校はお互い別々の学校になったので、あれ以来一度も顔を見ることなく過ごしていた俺たちは、ようやく再会することになった。


「九十九、起きられる?」

「ひゃ、はい。起きます!」


 道場で澪と向き合うということほど、恐ろしいことはない。俺は慌てて立ち上がると、そのまま出口まで歩いて行く。


「だから待てというとろうが!」


 再び眼前に突如として現れた先生に、首根っこを掴まれてしまう。せっかく自然な形でフェードアウトできると思ったのに!


「九十九よ、こんな雑用仕事を請け負っているということは、最初の転職で失敗したんだろう?」


 俺を捕まえた先生が、にやりと笑う。


「ワシの言うことを聞けば、経験値が2500もらえるように手続きしてやるぞ?」

「え?」


 まじで?2500ってことは、ちょうどレベル上がるじゃん!心は揺れるが、間違いなく裏がある。それもものすごい恐ろしいやつが。


「はいはい! 和泉さんはやりますよ! それが例え命と引き換えになっても!」


 十六夜さん、本当に俺の命を軽く見ますね。そのうち仕事中に背後からブスリ、なんてことがありそうだ。


「師匠、経験値って何?」

「ん? あ~、あれだ! ゲームの話だ。最近九十九と一緒にスマホのゲームを初めてな」


 ウソ下手か!先生がスマホでゲームやってるのなんて想像できないんですけど!


「この前の、女の子がお城になるやつ?」

「あ~、あれはダメだ。課金してもURがほとんど出んからな。排出率1%って、あれウソじゃろ!」


 普通にやってる~!しかも課金までしてガチャ回してる~!


「まあ、それはそれとしてじゃ。澪、少しおつかいを頼まれてくれんか?」

「せっかく九十九が来てくれたのに?」

「今日九十九が一日中道場にいられるように、おつかいに行って来て欲しい」

「わかった」

「この包みを、ハロージョブの総合受付に渡してきてくれ。ついでに、帰りに飲み物でも買ってこい」

「うん」


 それだけ言うと、澪はパタパタと駆けて道場から出て行った。それを見送った俺たちは、再び向かい合って腰を下ろす。


「先生、ゲームやるんですか?」

「まあ、弟子たちがやっているから、話のタネにな」


 どうしよう、先生が弟子と一緒にスマホいじってる姿が全然想像できないです。


「とりあえず、時間もないから落ち着いて話をしよう。逃げるでないぞ、九十九」


 先生に釘を刺されてしまったが、そもそも逃げられない。人間離れした速度で回り込まれては、常人でしかない俺には不可能。最悪、十六夜を生贄にすればいけるだろうか?いや、十六夜は俺の命なんて何とも思ってないし、十六夜に生贄としての価値は無い。


 逃げることをあきらめて、昨日の出来事を先生に説明した。


「はっはっは! 女神像を前にして転職を願うとは、常人では思いつかんぞ」


 確かに、いくらゲームっぽい雰囲気だったからと言って、普通の人は女神様に転職なんて願わないよね。


「でも先生、あの時はなんだか転職を願うのが正解な気がして」

「ほう。なら九十九は、本当に女神に導かれたのかもしれんな」

「せっかくのお導きで見習い魔導士なんか選んでたら、女神様にもアタシにも失礼ですけどね」


 だから、そこは俺と十六夜の連帯責任でしょ?いい加減、お前も俺に失礼だからね、本当に。


「まあとりあえず、今回はワシが手助けしてやろう」

「いきなり10倍の報酬って、大丈夫なんですか?」

「とっておいた霊結晶を澪に持たせたから、今回は大丈夫じゃろう」

「げ、そんな高価なものを和泉さんなんかのために?現在はほとんど市場に出回らないって聞きますよ!」


 霊結晶がどういった物かはわからないが、相当に高価な物を俺のために渡してくれたようだ。正式な弟子でもないというのに、ありがたいことだ。もう十六夜の評価なんか気にならないくらい感動してしまう。


「だから九十九、これは仕事ではなく、修行だと思って取り組んでほしい。そうすれば、ステータスも伸びるだろう」

「う~ん……わかりました。死なないのでしたら、よろしくお願いします」

「命があるかどうかは、澪次第じゃな」


 先生の最後の言葉に、背筋に冷たいものが伝っていくのがわかった。






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