第9話


「とりあえず、午前中は澪の剣をひたすら避けてもらおうかの」


 そう言って嬉しそうに笑う先生には、俺が澪と道場で対峙することの意味が分かっているのだろうか?


 俺が6年間この場で、澪によって、どれだけの恐怖をこの身に刻み込まれたことか。


「澪はこの4年で随分と腕を上げてな。この道場でも、相手をできる常人はもういないんじゃ」


 そんな奴の相手、俺ができるわけないじゃん!先生、何言ってんのよ!俺にサンドバッグにでもなれってこと?


桜観斬月流はえげつないほど人体の急所を狙ってくる。頭、喉、心臓を突き、薙ぎ、叩く。一撃でももらえば、木刀でも軽傷では済まされない。それを半日受け続けろとか!


「俺にも何か装備とか武器とか」

「お前は今、魔導士の職業じゃろうが。剣も鎧も装備できん」


 くっそー見習い魔導士め!


「まあ、致命傷を負うことだけはない」

「それは、澪が手加減してくれるってことですか?」

「いや、むしろ本気で一撃を入れに来るだろう」

「大丈夫ですよ。生きていればアタシが治療してあげますから」


 じとっとした目で十六夜を見つめる。本当に治療魔法を使ってくれるのか?これ幸いと放置するんじゃないか?


 もはや、誰も信じることができない。


 そうこうしている間に、澪が道場に戻ってきた。両手いっぱいにビニール袋を抱えている。


「随分買ってきたな。重くなかったのか?」


 軽い気持ちで、澪が下げているビニール袋を一つ手に取った瞬間、腕が重さに耐えきれずにがくんと落ちる。床に転がった袋の中からは、2リットルのペットボトルが6本も転がり出してきた。これと同じ袋を、澪は後3袋持っている。同じ本数入っていると考えると、合計で24本ものペットボトルを買ってきたことになる。道場の買い出しと同じノリで買ってきちゃったのかな?


「九十九のために、たくさん買ってきた」

「あ、ありがとう」


 俺のためだったよ。48リットル分の思いやりを、俺は果たして一日で消費することができるだろうか?


「これ、全部飲み終わるまで、家に帰さないから」

「いや、用が済んだらすぐに帰るから」

「……そう」


 あれれ、なんかうつむいちゃったんですけど?心なし、寂しそうな顔するのはやめてください。なんか悪いことでもしましたか?


「じゃ、そろそろ始めるぞい」

「いやいや先生。澪は今帰ってきたばっかりですから、少し休ませてあげましょうよ」

「大丈夫。すぐ始められる」


 時間を引き延ばせない、だと。先生が午前中と言えば、休憩を挟まずに午前中稽古をするということだ。まだ10時前だというのに!2時間以上澪から逃げ続けろというんですか!


「ほれ、ちゃっちゃと始めんかい」


 心の準備も不十分のまま、俺と澪は道場の中心で相対する。4年ぶりであるが、この場にこうして立つと、あの恐怖の日々が蘇ってくる。全身に鳥肌が立つような感覚だ。一撃でももらえば、死ぬ。


「じゃあ、いくよ?」


 そう言って、下段に木刀を構える澪。その瞬間に、彼女の雰囲気が変わる。目を細め、深く呼吸をした瞬間、木刀の切っ先が俺ののど元を目掛けて低空から伸び上がってくる。


 どうにか寸前で横に飛んで躱した瞬間、木刀は水平に軌道を変更し、俺の首をかき切ろうと薙ぎ払う。どうにか後方にバックステップで躱し切る。そこですかさず大上段からの切り落とし。体をひねってギリギリ回避に成功。


「すごい。全部かわされちゃった」


 そういって微笑む澪。さすがこの4年間も研鑽を積んできただけのことはある。以前と比べ物にならないくらい剣の鋭さが増している。対して俺は、この4年間で身体能力が落ちている。4年間の帰宅部生活で培ったのは、娯楽知識だけである。剣筋がわかっているから今のところ避けられてはいるが、体力の差は歴然だ。いつまでも避け続けてはいられないだろう。



「和泉さん、さっきから全部ギリギリで躱してますね」

「昔から澪の剣筋は見慣れているからな。それに、九十九は躱すことに関しては天才的じゃ」

「でも、躱すだけじゃモンスターは倒せないですよね」

「まさかワーカーになるとは思わなんだ。九十九には相手を殺す術など必要ないと思っておったからのう」

「それに対して澪さんの剣は凄まじいです。あれだけで中級のモンスターくらいなら倒せそう。できればアタシが手合わせしてみたいです」

「それは難しいな」

「初期職業はマスタリーしていますけど、アタシじゃ相手にならないと?」

「そうではなくてな。澪は、九十九以外に興味がないからな」

「それは……どういうことです?」

「さてなぁ」



 澪の攻撃を躱し始めて30分。すでに足は悲鳴を上げている。呼吸もだいぶ苦しくなってきた。それに対して、澪の剣筋は一向に鈍ることはない。それどころか剣速が増しているようにさえ感じる。


「よ~し、いったん休憩じゃ」


 先生がパンパンと手を打ちながらそう告げると、体から緊張が抜けていくのがわかった。

そして、疲労と緊張から、俺の体はその場に崩れ落ちる。これでまだ30分しか経っていないというのだから恐ろしい。


「せめて午前中は休憩させてください」

「なんじゃなんじゃ、まだ30分しか経っておらんぞ。10分も休憩すれば、また動けるだろう?」


先生、人間は全力の動きを長時間継続できるようにはできてないです。


「澪はどうだ? 午前中は終いにするか?」

「九十九が、私の膝枕で休むなら、休憩してもいいよ?」

「だ、そうじゃが?」

「先生、それは果たして休憩と言えるのでしょうか?」

「それなら、私の部屋で……」

「膝枕をお願いします!」


 何か不穏なことを言われる前に、あきらめて膝枕を受け入れる。密室に閉じ込められては、逃げることもできなくなってしまう。


「澪がそれで良いなら構わないが……午後は別の修行をするかのう」


 午後の修行、という言葉に不安がよぎったが、どうやら何かを考えることすら億劫なほど疲労が蓄積されたらしい。俺は目を閉じると、澪の太ももの感触を感じながら、眠りに落ちていくのだった。






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