この暗闇に入れられてからどれだけの時が流れたのか、もう覚えていない。今となっては時を知ろうと思う事すら無い。

 頭を占めるのはひたすらに飢え。渇き。

 あごが外れんばかりに大きく開き、だらしなく舌を垂らし吠える。

 欲しい! よこせ! 

 何度も何度も鼻をひくつかせ、どこかに肉の匂いはないか探す。こらえきれず走り出すが、首に巻かれた鎖が音をたてて伸び切り、勢いを殺しきれなかった体が背中から地面へ叩きつけられる。

 吠えながら鎖を引っ張るがびくともしない。爪を何度叩きつけ、牙で噛み切ろうとしたしたかもう覚えていない。先ほどのように走ろうとして鎖に引っ張られ、地面に倒れたことも数えきれないほど。

 もう飢えは限界だ。自らの手足を食おうとすら思うようになっている。

 荒い息を吐く口から垂れた舌先からよだれが一滴落ちる。

 暗闇の外で音が聞こえた。最後に開いたのはいつだったのか、重い扉がゆっくりと開く。

 流れてきた空気に混じる肉の香りに頭が支配される。反射的に吠えた。香りが流れてくる方向へ牙を打ち鳴らす。

「ふはははは。飢えているな、痩せ犬が。なあに、すぐ餌にありつけるさ。すぐにな」

 扉を開けた男はすぐに背中を向けて去っていった。飢えに狂う犬は噛みつこうと駆け出すが、鎖に邪魔されて地面へ倒れる。しかし諦めない。諦めることができない。

 吠え、叫び、爪で地面を削り、頭を振り回していると、首の後ろに一瞬小さな火が灯った。突然の熱さに飛びのくと、地面へ鎖が落ちて音を立てる。それは犬の首を縛っていた鎖だった。

 急に自由になったことに戸惑う。首を触ればたしかに何もない。

 この鎖は単純に首に巻かれていたわけではなかった。呪力をこめた呪符によって鎖は首を拘束していたのだ。そうしなければただの鎖などで犬神を縛ることなどできない。

 一瞬首で灯った火は、その呪符が焼けた結果だ。これで呪符の効力は消滅した。

 鼻に新しい匂いが届く。先ほどの男とは違う肉の匂い。若々しく、嗅ぐだけで痺れるほどの甘さと深い山にある滝のような涼しさも感じる。

 飢えが全身を支配した。反射的に手足で地面を蹴って走り出す。狭い通路を飛ぶように、四つん這いの犬神が行く。

 ここは地下に掘られた穴のなかだった。壁も床も天井も、土がむきだしだ。そんなことを気にする余裕は犬神にない。そもそも明かりがひとつもなく、暗闇で何も見えなかった。だが肉の香りをたどることで、闇の中でも苦労することなく進むことができた。

 肉の香りがどんどん強くなり、近づいていることがわかる。湾曲した通路を曲がると、その先が明るくなっていた。警戒することもなく明かりの中へ飛び込む。頭は思考することをすで放棄して、飢えが体を動かしていた。

 そこは正方形の空間になっていた。広さは一般的な農民の家ほどはあるだろうか。天井も高く、周囲の壁にはいくつもの油皿で小さな火が揺れていて明るい。この空間も地下にあるらしく、周囲はむき出しの土だ。壁は掘った痕跡が見える荒々しさだが、足元はそれなりに平らにならされている。

 犬神は正方形の中心の存在に目を釘付けにされていた。それこそが肉の香りの発生源だった。

 年齢は十よりいくらか年上に見える少年。まだ童とすら呼べそうだ。肩まで伸ばされた黒髪は、いくらか土埃で汚れているが、本来の美しさを損なってはいない。服も汚れていたが、鮮やかに染められた色と丁寧な刺繍から、それが高価なものであるのは間違いなかった。少年は両手を後ろで縛られ立っていた。

 犬神と少年の目が合う。少年の目が大きく開かれ、何らかの表情が浮かぼうとした瞬間、犬神は全力で地面を蹴った。

 頭を低く、体を地面と平行にして四つん這いで走る。目標はもちろん、甘い香りの肉だ。体が成長しきっていない細い首にかじりつく。いや、裸足の足首に噛みつきまず引き倒す。それから爪で腹を引き裂き柔らかいはらわたを味わう。

 肉の味を想像し、口からはみ出た舌からよだれが飛び散る。一歩進むたびに肉の香りが強くなる。鼻から頭へ、さらに全身が香りと快感で痺れるような感覚。もうすぐ、あれほどに焦がれた肉を食うことができる。

 丸い黒瞳を一心に見つめながら犬神は駆ける。あと一歩進めば跳びかかれる距離だ。足をたわめて体を沈み込ませ、ためた力を解放して空中へ跳んだ瞬間、少年が叫ぶ。

ぎょく!」

 犬神の視界の端に何か色があった。視界下方から姿を見せたのは瑪瑙の勾玉。それは犬神の首に紐でぶら下がっていたものだった。それが跳ねて視界に入ってきたのだ。

 宙に浮かんだ瑪瑙の勾玉が、少年の瞳の中に映りこむ。丸い黒瞳が瑪瑙色に染まり、それを見た犬神の耳に、かつて聞いた声が聞こえた。

『おまえの目は、光を映すと綺麗に輝くな。まるで勾玉みたいだ。よし、名前はぎょくにしよう。今日からおまえは玉だ!』

 犬神の目は少年の瞳から、自分の首飾りである瑪瑙の勾玉へ向かう。美しく磨かれたそれは輝き、犬神の瞳も瑪瑙色に染める。

『自分の目の色はわからないだろうけど、おまえの目は普通より色が薄いんだ。それが光を受けるとまるで瑪瑙のように輝く。ほらこんな色だよ』

 少年が、自分の主が手のひらに乗せた瑪瑙の勾玉を見せてくれる。それに紐を通し、首へとかけてくれた。

『これはおまえが僕の犬神だという証で、贈り物でお守り。ほら、おそろいだ』

 主の首にも同じ瑪瑙の勾玉の首飾り。色が同じというのは、家族であるということ。自分の黒い毛は親と同じ色。大切な家族。

 犬神は少年を地面へ押し倒した。鼻と鼻が触れるほどの近さで、お互いの瞳をのぞき込む。犬神の瞳にあった、狂おしいほどの飢えた光はもう見えない。少年の瞳にも恐怖はなかった。

「玉……僕だよ、蓮だ」

 犬神は舌を出したまま荒い息を吐き続けているが、そこに先ほどまでの飢え狂った様子は見えなかった。

「何をしている! さっさと食い殺せ!」

「犬よ、目の前にあるのは肉だ! 飢えていたのだろう、食え! 食ってしまえ!」

 頭上から男たちが叫んでいる。この空間を見下ろせる位置に男たちが並んでいた。誰もが予定と違う状況に苛立ち焦り、顔を紅潮させている。少年を食おうとしない犬神に、口汚く罵声を飛ばしていた。

 頭上からわずかに土が落ちる。男たちの叫びで落ちたのだろうか。二度、三度と土が落ちる。男たちにも土が降りかかり、頭上を見上げた。

「どうした?」

「いや、土が……」

 地面が揺れた。壁から土が塊となって剥がれ落ちる。頭上からもいくつも土くれが落ちてきた。当たって怪我をするような大きさのものではないが、量が多い。土埃があがり男たちは口を袖で覆い、吸いこんだ者たちがむせる。

「地揺れか?」

「違う、これは……」

 一番大きな揺れがきた。同時に遠くから声が聞こえ、犬神は頭上を見上げる。耳を澄まし、左右へ首をめぐらせ鼻をひくつかせ臭いを探す。

 さらに大きな揺れが起こり、体が跳ねそうになる。かすかに聞こえた声もはっきりと聞こえた。犬神だけでなく、少年と男達にも。

「これって!」

 少年の顔が嬉しさにほころぶ。

 犬神が大きく吠えた。その場にいる誰もの体が震えそうなほど強い遠吠え。地下空間がまたも震える。今度は長い。壁や天井からいくつも土が落ちていく。立つこともままならず、男たちは地面へ手をついて這いつくばるようにして耐える。

 長い揺れがやっとおさまり、男たちは顔を上げた。

「いったい何が起こったんだ?」

「おい、見ろ!」

 男たちがいる場所には祭壇が置かれていた。白木で組んだ台の上に塩と酒が入った皿、木片と紙で作られた形代が置かれ、その周囲を注連縄で囲んだものだ。しかしそれらが無残な姿になっている。皿は全て割れて中身がこぼれてしまっていた。形代はいくつもの欠片に砕かれ、注連縄は焼かれ焦げた断面を見せて千切れている。

「まずい! 結界が破られた!」

 地下に遠吠えが反響する。ある男は顔に焦りを浮かべ、青い顔の男もいれば歯ぎしりして悔しがる男など。それぞれ違う表情をしながら、内心は似通っている。今回の計画はすでに失敗したと悟っていた。

「逃げるぞ」

 明かりの少ない地下道を逃げようとした男たちだったが、その足が止まる。いや、動けなくなった。暗闇の向こうに、恐ろしいものがいる。流れ出る気配は空気を重くさせ、まるで深い沼の中に落ちたかのようだ。手足どころか首も動かせず、目を背けたいのにそれができない。

 暗闇の奥から、それよりも暗いものが現れた。全身が濡れたように光る黒色の犬だ。

 ただの犬ではなく、二本足で立てば大人の男よりも高いのではと思うほどの大犬である。その顔は狼と言われても信じるほど精悍で、両目は男たちへの紛れもない敵意で真冬の星のように冷たく光っていた。

「おのれっ!」

 男の一人がなんとか腕を動かし、懐から数枚の呪符を投げつける。しかし何かを起こす前に、黒犬の吠え声ひとつで呪符はすべて灰となり、ほとばしる衝撃で吹き散らされた。その力は凄まじく、灰だけではなく男たちまで軽々と吹き飛ばす。

 男たちはそのまま、犬神と少年がいた正方形の空間まで落ちる。死んだり骨を折るような事態にはならなかったが、その痛みは声をあげることもできないほど。無様に手足を動かす姿は虫のようだ。

「ぬぅ……ひぃっ!」

 顔を起こした男は、目の前に降り立った黒犬に悲鳴をあげる。鋭い牙が並ぶ口の奥から、生ぬるい息が届くほどの距離だ。尻を地面につけたまま下がろうとするが、恐怖で思うように動かない手足は、その場で滑稽な動きを見せることしかできない。

「無様だな」

 いつの間にか黒犬の横に男が立っていた。狩衣姿で腰には太刀。背が高く、切れ長の細い目は男たちを冷たく睥睨している。

「貴様は、安乾の!」

「そうだ。おぬし等がかどわかした蓮の父親よ。我が安乾家の者を狙うからには、一体どれほどの者かと思えば、どれもこれも小物ばかり。この結界もお粗末極まりない。これを覆っていた結界はそれなりだったから警戒してみれば、出てきたのは小鼠か」

 安乾の当主は、まだ立てずにいる男たちを見て、つまらなそうに息を吐く。

「誰に手伝ってもらったのだ? おぬしどもが何人集まっても手が届かぬほどの呪法使いが、そこらに転がっているとも思えんが?」

「我を愚弄するか!」

 両手で印を組む男を見ても、表情を変えることもなく隣の黒犬につぶやく。

「殺すな」

 黒犬が吠える。それはただ空気を震わせるだけではなく、呪が込められている。安乾家当主が使役する犬神が弱いはずもなく、圧倒的な呪によって男たちは意識を失った。


「ひい、ひい……」

 壁に小さな明かりが灯るだけの地下道を、這うように男が逃げている。明かりは通路を全て明るくするほどの強さは無く、それぞれの距離もかなり離れているため途中には完全な暗闇も横たわっていた。

 だがそんなものより恐ろしいものが男にはある。安乾家の犬神だ。彼は犬神が男たちを圧倒している様子を隠れて見ていて、恐怖のあまり逃げ出したのだった。一応呪法使いの端くれであるが、あの犬神に勝てると思うほどうぬぼれてはいなかった。

 そんな彼の目の前を、抜き身の太刀が遮る。

「どこへ行く」

 太刀の持ち主は長光だった。反射的に後ずさる男の瞳が裏返り、地面に倒れる。その背後には瀬綱が立っていた。彼が当身で気絶させたのだ。

「他にはもういないようだな」

「ああ。こいつを当主のところまで連れて行くぞ」

 男を担いだ瀬綱と長光が正方形の空間にたどり着くと、その光景に戸惑う。

「なあ、あれがさらわれた安乾家の子供だよな。じゃあそれの顔を舐めているのは、犬神、だよな?」

「……まあ、そうだろう」

「でもさ、あれ、人だろ?」

 蓮は押し倒されて顔を舐められている。笑顔で嫌がっているようには見えない。しかし、一心に彼の顔を舌で舐めているのは、腰ほどもある長い黒髪の若い男だった。

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