第2話

『よお、今日は暑いなぁ』


 背中を木の背もたれに存分に預けていると声が聞こえてきたので、俺は軽やかに無視をした。それに苛立った声の主は必要以上に『よお』とか『なあ』とか『おい』とか種類を変えて呼びかけてくる。


 その呼びかけの数種類を使い終わらせると、また最初の『よお』に戻る。それを三回ほど繰り返されたところで、俺は沸点を越えた。


「うるさいぞ!」


 俺の声に、声の主はおかしそうに笑い、またもや『暑いな』と浮見堂の下の方から声をかけてくる。この温厚を体現したかのような俺がこんなにイライラするのは暑さの所為であって、断じて気が短いわけではない。そもそも、県民性的に言えばのんびりなのだが、さすがに腹が立った。


 汗で落ちてくる伊達眼鏡のブリッジを押し上げてから、またもやだんまりを決め込んだ俺に、声の主は盛大にふてくされた。さらに追い打ちをかけるように矢継ぎ早に話しかけてきて、さすがに興福寺の国宝の仏像が驚くほどの広さの心を持つ俺も、たまらずに半分乗り出すかのようにして池の方を見た。


 ――その瞬間、顔面に水を思い切りかけられる。


 一瞬にしてずぶぬれになった俺の姿に喜んだ声の主がケタケタと笑い、俺は目を開けるとそいつをグイッと引っ張って首をきりきりと締め上げた。


『わ、わ、わ! 死ぬ、しぬぅうう!』


「死ぬわけないだろうが! このクソ河童が!」


 手足をばたつかせる緑色のヘンテコな生き物の首を締めあげながら、俺はそいつの頭を陽が照り付ける場所へと引っ張り上げて、生魚を干物にするがよろしい手際のよさで、そいつの頭上に乗る皿を乾かしにかかった。


『おおお、ほんとに死ぬってば! 人殺し!』


「何が人殺しだ、それを言うなら河童殺しだ! それよりも河童の分際でよくも俺をびしょ濡れにしてくれやがったな!」


 びしょ濡れだけならまだしも、池の底に溜まっていたであろう藻草まで一緒にかけられたせいで、こちらが妖怪か河童か分からない、半分緑色の化け物になったのは言うまでもない。


 幸いにもファッションに興味が無いために安い服ではあるが、それでもいかんせん、美女に水をかけられたのならまだしも、河童ごときに緑色の水をかけられたのでは、温厚かつ柔軟な俺の腹の虫がおさまらぬ。


『そんな顏せんでもええやろ、飛鳥あすかが無視するのが悪い』


「知るかそんなもの。だいいち、河童に話しかけられて無視しない方がおかしいと思わないのか、このヘンテコ妖怪め」


『妖怪と話せるの、飛鳥ぐらいしかおらんねん。最近遊びに来なかったから寂しくて死ぬかと思ったで』


「嘘を言え、このたわけが。昨日だって来た。そして昨日だって俺をびしょ濡れにしやがった。今日こそは河童の干物にしてやるぞ」


 覚悟しろとさらに首を締めあげると、アホウドリみたいな断末魔を上げて手足をばたつかせるので、ひとしきり締め上げてから解放して、池の中にホームランの要領でどぼんと落っことしてやった。かの日本人メジャー選手でさえも驚きのコントロール力だと褒めてくれるに違いない。


 いきなり河童が頭上から落ちてきて驚いただろう大きな鯉たちがわらわらと逃げていく。しばらくぷくぷくと泡が立ち上っていたのだが、五分ほどすると河童が泣きながら、ひどいひどいと喚きつつ、阿呆面を水面から出した。

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