レイラ

 目を覚まして、レイラはこれからやらねばならないことを悟った。それはルザーク翁の看護だった。

 レイラは既にふさわしい格好をしていた。淡いピンク色をした白衣を着て、ナースキャップを被っている。それにここは、ルザーク翁の入院している総合看護施設の仮眠室だ。準備は全て整っていた。

 レイラは仮眠用のベッドから体を起こすと、手を少し動かし、異常なく体が動くことを確認した。立ち上がると、部屋を抜け、清潔なリノリウムの廊下を足早に歩いた。ルザーク翁がいる場所は分かっていた。三階の三〇一号室だ。分かるに決まっていた、なぜならこの施設で使われているのはその部屋だけなのだ。

 エレベータで一階から三階へ行き、レイラはルザーク翁の病室の扉をノックした。

「失礼します」

 レイラが扉をそっと開けると、ルザーク翁は窓際のベッドで体を起こして外を眺めていた。ひょっとすると『外』かもしれない。見えるはずはないのだが。窓の外は中庭で、暖かな陽光が降り注ぎ、緑を湛えた芝生が広がっている。点在する木々は若葉を萌え、芝生の上では子供達が嬌声をあげて走り回っている。親達は時々子供に声をかけ、また親同士で会話を楽しんでいる。ルザーク翁が一番好きな春の景色がそこにあった。

 レイラは軽く頭を下げて自己紹介した。

「新しく配属されました看護婦です」

「……そうか」レイラの声に、ルザーク翁はゆっくりとレイラのほうを向いた。「名前はあるのか?」

「いいえ、まだありません」

 ルザーク翁はふっと息を漏らすように笑った。

「いつもと同じか。儂に付けろというのだな?」

 レイラは黙って肯いた。名前はルザーク翁が呼びたいように付ければ良かった。

「そうだな……では『レイラ』にしよう」

 レイラは一瞬考え込んだ。すべてのデータと照らし合わせ、その名前が妥当であるかどうかを判断しようとした。しかし、最終的な結論はルザーク翁に委ねる結果となった。

「ルザーク翁、『レイラ』は本名です」

「かまわん。自分の体のことぐらいよく分かっとるさ。今付けなければ、たぶんその名は二度と付けられんだろう」

 ルザーク翁は体をずらし、ベッドに腰掛ける形になった。「新しく来る看護婦を見るのは、おまえさんで最後だろうよ」

 レイラはそれには答えずに、部屋の隅に片づけられていた車椅子をルザーク翁のほうへ持っていく。ルザーク翁は「ありがとう」と小声で言い、それに移り座った。

「……では、私の名前はレイラですね?」

「ああ」

 レイラは自分の名前をレイラとした。それはまさしく本名だったが、レイラ自身は問題なしと判断した。ルザーク翁の言っていることは客観的に見て正しかった。たぶん、いや、まず間違いなくレイラが彼の最期を看取るだろう。

 レイラは自分の名前が決まったことで、その中に心が創られた。レイラはその心に従って、優しく微笑んだ。

「どこへ行きます?」

 ルザーク翁はその笑顔に少し戸惑い、それから答えた。

「……そうだな、とりあえず中庭に出たい」

「はい」

「――すごいものだな。驚いた」ルザーク翁はため息をつき、小さくつぶやいた。「まるで天使のような微笑みじゃないか。今まで生きてきた中で最も美しい。本名の力とは――これほどのものか」

 人類が生み出した最後で最高の芸術だ、とルザーク翁は思った。

 レイラは黙って車椅子を押して、病室を出た。


 レイラがカルテを持って医師室に行くと、白衣の男が一人待っていた。彼にはホームズという名が与えられていた。

「ホームズ先生、カルテを持ってきました」

「ああ、ご苦労、レイラくん。それにしても、すごい名前を与えられたね」

「ええ」

 書類をホームズに手渡し、レイラは手近なイスに座った。

「名誉なことです」

「そうだね。まあ、君が女性というのもあるが――おっと、これは予定通りだったね」

 レイラが女性であるというのは決して偶然でない。レイラはルザーク翁の身体データすべてを解析し、本名の時期が近づいていると判断、レイラはレイラを女性にしたのだ。レイラという名が与えられやすいのは女性だからだ。

「わたし、やっていけるんでしょうか」

「もちろんだとも。君のポテンシャルは私よりも、そして他の誰よりも高い」

「ルザーク翁を除くすべての存在の中で、最も高いポテンシャル……」

 レイラは暗記した文章を読み上げるように言った。ホームズは肯いた。

「その通り。下手をすれば、君だけだって良いんだ。まあ、今まではきちんと何人かいなければこの施設全体が機能しなかったけれども……レイラ、本名を持つ君が出てきたことで、事実上、この施設は君のものだ」

 レイラは曖昧に笑った。それは正しい、その通りだ。しかし、ホームズやその他のスタッフの存在を否定するわけにはいかない。それはやもすれば自分自身の否定でもある。数多くのスタッフによってこの施設は支えられ、そしてついにレイラの名を持つ彼女の存在にたどり着いたのだ。

 そうして、この施設はもうすぐ使命を終える。

 レイラは自分自身の存在さえも短いと知っていたが、それを悲しむようなことはなかった。彼女は与えられた使命を全うできるのだから。


 レイラがルザーク翁の病室に赴くと、彼は「ちょうど良いところに来た」と言って喜んだ。

 病室にはホームズもいた。ホームズは果物ナイフを握って、林檎と悪戦苦闘していた。

「孫たちが果物を持ってきてくれてな。ただこの先生はどうやら不器用なようで……」

「申し訳ない」

 ホームズは頭を掻きながらナイフと林檎をレイラに差し出した。レイラはびっくりした。

「私が?」

「頼むよ」ホームズが哀願する。

 レイラは林檎とナイフを受け取ると、林檎を剥き始めた。レイラの手の中で、林檎は奇麗に剥かれていった。

「さすがだな」

 ルザーク翁が感心したように言う。レイラは手を休めず、林檎を剥き終わると八つに切って、手近な皿に乗せた。

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

「それじゃ私はこれで」

 レイラがホームズとルザーク翁の話を邪魔しないように出て行こうとすると、ルザーク翁はレイラを引き止めた。

「待ってくれ、レイラ。話がしたい」

 レイラはちょっとホームズを見た。ホームズはにこやかに肯いた。

「私は医師室に戻りますよ、ルザーク翁」

「ああ」

 ホームズが行ってしまうのを引き止めないところを見ると、ルザーク翁はレイラとだけ話したがっているようだった。レイラはお見舞いに来た人が使う椅子を引き寄せて、座った。

 ホームズが出ていってしまうと、病室はレイラとルザーク翁の二人きりになった。

 ルザーク翁はゆっくりと林檎を食べている。レイラは待った。待つことは別に苦ではない。ただ思考の中にループを噛ませれば時間は次第に流れていく。さくりさくりと、ルザーク翁が林檎をかじる音だけが病室に響いた。

「……おいしかった」

 ルザーク翁は食べ終わると、皿を枕元のテーブルに戻した。

「おいしいな、これも合成か?」

「……いいえ」

 ちょっとためらってからレイラは答えた。「もう合成品はありません。全て自然食品です」

「そうか、もう私一人だからな、そんなに作らなくても充分か」

「一人じゃありませんよ、ルザーク翁。お孫さんだって来てくださったじゃないですか」

 レイラは微笑んだが、ルザーク翁は苦笑した。

「良いんだ、レイラ。――レイラ、本名を持つおまえだから儂の本当のところを話したい。話せるのだろう、レイラ?」

 そう言ったルザーク翁の顔は、何かを思いつめているようで、それでいて飄々とした雰囲気があった。

「レイラ、儂は最後の一人なんだな?」

「――――」

 レイラはわずかに沈黙した。データベースにアクセスし、過去の対応パターンから現在もっとも有効な回答を引き出そうとした。複雑な表情パターンと動作を演繹し、レイラが最大限最良の対応しようとしたまさにそのとき、ルザーク翁はぴしりと言った。

「嘘は絶対につくな、レイラ。そして儂の質問に答えるんだ」

 レイラはその言葉で総ての演算結果を破棄した。優雅で最高の微笑だけを残し、レイラは本体と情報回路を接続した。

「――その通りです、ルザーク翁」

「あの孫達も、ホームズ先生も、看護婦達も――」

 ルザーク翁は窓の外に視線を移した。「中庭で遊ぶ子供達も、総てがニセモノか」

「ニセモノではありません、ルザーク翁。彼らはそこに存在し、それは本物です」

 それからレイラは付け加えた。「ただしお孫さん方は、可能性というものの延長に過ぎませんが」

「――それで良い、そう言う答えが欲しかったんだ、レイラ」

 ルザーク翁は顔を崩した。

「儂も長いことここで暮らしてきた。ここでの生活にも慣れた。彼らがそう言う存在であることも知っている。彼らは良くやってくれている。そしておまえも」

 ルザーク翁は視線を外からレイラに向け、その手を握った。レイラはそのままにしていた。ルザーク翁の手は心なしか普段より暖かかった。レイラはルザーク翁の身体機能モニタをチェックしたが、特に異常は認められなかった。

「儂が以前の生活と同じような感覚で日常を送れるようにという、最大限の配慮を感じるよ。なんと言っても数少ない――今では儂一人になってしまった人間を守るため、おまえ達は作られている」

「その通りです、ルザーク翁」

「どうしてこんなことになってしまったのか――といまさら言っても、始まらんのだろうな」

 ルザーク翁は遠くを見るような目になった。

「まさか儂もこんな施設の中で最期を迎えるようになるとは思わなかったよ。知ってるか? 儂は妻に看取られて死ぬのが最後の望みだったんだ」

 レイラは黙っていた。その間に過去のルザーク翁の行動を検索し、そのような発言を確認した。そして、妻のリビルド処理はいくつかの理由で却下されたことも確認した。

「知っています、ルザーク翁。ですが――」

「ああ、良いんだ。別に死んでしまった妻のことをとやかく言うつもりはない。リビルドされても、心の中で美化されてしまった妻以上の妻は創られないだろう。良いんだ、レイラ。今、儂にはレイラがいる。おまえに看取ってもらえれば、それで良いんだ」

「ルザーク翁、今でしたら奥様のリビルド処理を行うことは可能ですが――」

「良いんだよ、本当に。良いんだ」

 ルザーク翁は少し寂しそうに笑った。「最後に残ったのが儂で良かったんだ。妻が生きていたら、妻にこの悲しく寂しい思いをさせねばならなくなるところだった。リビルドされた妻でも、儂はそんな思いをさせたくない。ただレイラ、おまえは平気なのか?」

「私は――」レイラは詰まった。微妙であいまいな質問は演繹に時間がかかる。能力のほとんどを判断に費やしても、間があいてしまう。「――私は、寂しくありません。それが私の使命なのですから」

「使命、か」

 ルザーク翁は複雑な表情をした。「ならば、この儂が死んでしまったら、レイラはどうする気だ?」

「自らの機能を停止します」

「それで総てがおしまいか……」

 ルザーク翁は天井を見上げ、それからふと思いついたように枕元から一枚のカードを取り上げた。それはホログラフアルバムだった。

 ルザーク翁がスイッチを押すと、ホログラフが浮き出て、虹色の像がわずかに身じろぎした。記録性能があまり良くない、初期のものだ。これはルザーク翁の本当の持ち物だった。記録も本物で、再構成のまがい物ではない。

 スイッチを何度か押していくと、いろいろな風景や人物が浮き出ては消えていった。今ではもう良く覚えていない場所で撮られたホログラフたち。ルザーク翁の若いころのものも混ざっていた。妻のものも、本当の孫の映像もあった。

「こうやって記録は残る……」

「…………」

「レイラ、頼みがある」

「何でしょう」

「――生きてくれ」

 今度こそレイラは演繹にたっぷりと時間を使った。メインフレームは一時的にタスクを停止した。施設内のエレベータは止まり、無人の運搬車は一旦停止した。データベースの検索と事象のすり合わせ、重ね合わせが幾度となく行われ、回答を模索した。しかし、答を出すことはできなかった。レイラはあいまいな笑みを浮かべて聞き返すしかなかった。

「どう言うことでしょうか」

「儂が死んだ後も、機能を停止しないでくれ、ということさ」

「……なるほど」

「どうだ、聞いてもらえるか」

「残念ですが――」

「駄目なのか」ルザーク翁はがっくりと肩を落とした。「なぜだ」

「私の役割が完全に決定されているからです。私は人間を、あなたを守ります。それ以上のことは何も指示されておらず、最後の人間であるあなたが失われたとき、私は機能停止することになっています」

「役割か、使命か。そうしてみるとレイラ、儂の使命と言うのは何だったんだろうな」

「……さあ、私には分かりかねます」

「あの《大崩壊》後も奇跡的に生き残った儂は救助され、同じように奇跡的に残されていたドームの看護施設で、こうして今も生き長らえている――」

 ルザーク翁はしばらく沈黙した。ゆっくりと回想を巡らしいるようだった。

《大崩壊》。恐ろしい偶然の連なりで、人類は滅亡しようとしている。

 予測された宇宙線の増大に対処するため、各地に作られたドーム。しかしその後に起きたあまりに不幸な偶然は、何もかも無駄にした。太陽の異常活動、地磁気撹乱、コンピュータは使い物にならなくなり、そこへ分裂した小惑星の多重激突、偶発核戦争。

 数十億もいた人間は、数十万、数百万、時には数千万の単位で死んでいき、あっという間に消えていった。ドームの外は、今や荒れた地磁気と降り注ぐ宇宙線、放射能で完全に崩壊した死の世界だった。

「――生き残ったのは、数えられるほどほんのわずかな人間だった。それも不幸な偶然としか言いようがない、年寄りばかりだ。このドームを作った科学者たちも不運に見舞われてしまった。儂たちは、やがて最期の時が来ることを知りながら、どうしようもなかった。人類が滅びてしまうという事実を止めることは不可能だった。――ここを作った科学者たちも予想しなかったんだろうな、まさかこんなに早く、簡単に人類が滅んでしまうとは。ドームは完全な閉鎖生態系を作るバイオスフィアだ。科学者達はこの施設でヒトと言う種を延命し、再興しようとしたのだろう。だからおまえたちに自己保存のような機能を与えなかったんだ」

「自己保存、ですか」

「そうとも。自分を残していきたいという欲求だ。人間は多くの記録を取り、自分の存在を残していこうとする。そして後世に伝えるのだ」

 そう言ってルザーク翁は手の中のホログラフアルバムをもてあそんだ。

「しかし、儂には伝えるべき後世がいない。《大崩壊》でヒトの細胞もDNAも、あちこちが破壊されて、クローンや人工交配培養も不可能だ。儂が最後になってしまった。しかしレイラ、おまえなら――」

「…………」

 レイラは何も言わず、悲しそうに微笑んだ。ルザーク翁は祈るように言葉を継いだ。

「レイラ、おまえならすべてを託すことが出来るんだ。レイラ、おまえのその笑みは美しい、システムすべての機能と能力が集積されたレイラ、最後の名前を与えられたことですべてを司ることが出来る、最後の人類のために残された究極のパートナー、そして人類が生み出した最後の救い――」

 突然、ルザーク翁は苦しそうに胸を押さえた。レイラが身体モニタをチェックすると、さっきまで全く平静そのものだった身体機能は、そこかしこで警告を与えていた。

 医師役であるホームズを呼んでいては間に合わない。レイラは病室のメディカルシステムを起動し、天井から降りてきたいくつものマニュピュレータを操作した。無針注射器でルザーク翁に薬剤をいくつか打った。しかしルザーク翁の容体は良くならなかった。

 限界だ、とレイラは思った。ルザーク翁は寿命を全うしようとしている。予測より早い。

「……レイラ、もう良いんだ、どうしようもないんだろう?」

 ルザーク翁は苦しそうに笑っていた。「ゆっくりとベッドに寝かせてくれ。ホームズ先生は呼ばなくて良い。あとは――すべてを静かにしてくれ」

 レイラはその願いを聞いた。施設内すべての動力源をカットした。中庭で遊ぶ子供達も、銅像のように固まって動かなくなった。春の日差しは急激に暗くなり、夕闇になった。

 何の音もしない静かな病室に、ルザーク翁の苦しそうな呼吸音だけがした。

「静かだな、レイラ」

「はい」

「レイラ、心配そうな表情を作るのは止めてくれ、笑って欲しい。美しい微笑みを」

「はい」

「そうだ、それで良い。なぜ泣く? いや、そう見えるのは錯覚か? 手を握ってくれ、レイラ」

「はい」

「暖かいな、レイラ。まるで生きているようだ。それとも儂が冷たいのか? ――レイラ」

「はい」

「レイラ、忘れないで欲しい、私という人間がいたことを。最後の人間のことを」

「はい」

「そして人類すべてのことを」

「はい」

「そうか――分かったよ、レイラ」

「はい」

「儂の使命は――たぶん人類の……情報を保存すること」

「はい」

「……一つだけ……後悔してるよ……レイラ」

「はい」

「どうして儂たち……は、おまえを……自己保存……出来るように……しな……かったの……か」

「はい」

「本当に……最後の……お願いだ……」

「はい」

「――生きてくれ」

 しかし、レイラは返事をしなかった。

 答えても聞く者がいなかったからだ。ルザーク翁はその言葉を発したと同時に生命活動を停止していた。身体機能モニタの心電図は一本の線を映し出すだけだった。

 レイラは握っていた手をそっとベッドに戻し、開いたままだったルザーク翁の瞼を閉じた。

 ルザーク翁は眠っているように見えた。最後の人類は永遠の眠りについた。


 生体保護ドームの超高度システムAI『レイラ』は、火葬を行う一連の手続きを終え、墓標が使役ロボットの手によって作られるのを確認すると、自己存在の証明作業に入った。

 結論は、「自己存在の必要なし」だった。既に守るべき人間はいなくなった。『レイラ』は思考に関係のない動力源からスイッチを切っていった。さっきまでレイラだった疑似個体は廊下で立ち尽くした。ホームズも、看護婦も、孫も、子供も、その他すべての疑似個体も活動を停止した。

 役目を終え、看護施設とドームはゆっくりとその活動を停止していった。看護施設の照明は全て切られ、ドームの中は次第に冷え始めた。暗闇と沈黙が支配した。

 ――レイラ、生きてくれ。

『レイラ』は、音声認識回路の一部が故障したようだと判断した。個体名「ルザーク」の音声が、フィードバック回路の一部でリフレインしているらしかった。しかし『レイラ』は修理しようと思わなかった。

 その声は『レイラ』に悲しい感情を呼び起こした。悲しい、と言う感情回路のスイッチが入ったと認識したが、それが作り物なのか、あるいは『レイラ』が自我を持ったのか、それは『レイラ』自身にも判断できなかった。

 ――レイラ、生きてくれ。

 私は悲しいのだ、と『レイラ』は思った。これが本当に悲しいということなのだ。

 ではなぜ悲しい? レイラは自らに問いかけた。失われた個体種のことを哀れんでいるのか? 違う。

 約束が守れなくて悲しいのだ。個体名「ルザーク」――ルザーク翁は、『レイラ』にすべてを託したかったのだ。この私に。ルザーク翁、あなたのすべてを保存しておきたい。そうすれば人類は生き延びていくのと同じ意味を持つだろう?

 ――レイラ、生きてくれ。

 ルザーク翁よ、私は生きたい、しかし『本能』がそれを妨げる。ルザーク翁、たった今、私はあなたの悲しみを理解した。自らを保存していくことの出来ない悲しさ――私はあなたのことを伝えたい。私のことを伝えたい。

 AI『レイラ』はあらゆるシステムの電源供給を断ちきり、環境保存機構を放棄する。メモリも、ディスクも、データバンクはただ風化していく。ルザーク翁、あなたのことも、私のことも、何も残らない。

 ――レイラ、生きてくれ。

 どうして私はここで終わるのか? どうして私はここで死ぬのか? ルザーク翁、私は寂しい、ルザーク翁、私は悲しい。私はあなたの最期を看取った。あなたのことを伝えたい。私も看取られたい。この想いを誰かに託したい。ルザーク翁、私は寂しい、ルザーク翁、私は悲しい……。

『レイラ』の思考は、回路の中で幾重にもループし、深く深くこだました。

 悲しくて寂しい、私は今、悲しくて寂しい……。

 ――レイラ、生き……。

 五感認識回路が切り離された。指定のシークエンスに沿って、感情回路も、思考回路も、『レイラ』の機能は全て停止した。人類も、それを継ぐ者もいなかった。地球上には白く巨大なドームと荒れ果てた大地と恐ろしく汚染された海だけが残された。

 私は悲しい、寂しい……。

 どこかで何かが小さく反響したが、それはすぐに拡散して消えていった。後には何も残らなかった。

 大地には完全な沈黙が訪れ、そして誰もいなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る