楽園の猫

八川克也

死水の星

 シャトルが緩やかな周期で揺られている。船酔いしそうだ。――本当の意味で。

 探査用の小型シャトルは、本来あるべき空中でなく、海の上で波に揺られていた。ここはコード未定宙域にある恒星系の第三惑星、名もない星の広大な海の上だ。もちろん、好きでわざわざシャトルを海に浮かべているわけではない。

「やれやれ……」ため息をつきながら、俺は自分の置かれている状況を改めて確認した。

 我がクレイ宙航社は、惑星探査業務を主とした社長兼社員一人の会社だ。巨額の費用がかかる惑星探査だが、有益な惑星を発見したときのリターンは大きい。折りしもここ一〇年は連邦の拡大期で、『プラネットドリーム』を実現し、大富豪になった《探査者エクスプローラ》も両手の指の数を越えた。俺もそれを目指す山師の一人というわけだ。

 今回、普段の運送業で得た利益と、スポンサーを半分騙くらかして得た資金とで、俺は三回目の探査行に出発した。

 二回の失敗と、ほぼ後がない状況において、俺は十分すぎるほどの事前調査と情報収集を行った。今回こそ、有望な惑星を見つけ出すことが出来ると俺は確信し、果たしてこの惑星を見つけたのだ。

 青く光る星に、俺は胸を躍らせながらいくつかのプローブを打ち出した。あるものは軌道上で、あるものは惑星に降下し、さまざまなデータを母船に送り込んできた。

 俺は自分の幸運が信じられないレベルのものだと知った。

 極半径六五〇七・二四キロ、質量七・八八三×一〇の二四乗。その他もろもろあわせて、物理特性はほぼ完璧な地球型惑星だった。大気構成は酸素二〇パーセントに窒素七八パーセント、有害物質、ウイルスや細菌の類は検出されず。これだけでも十分すぎるデータだが、最大の特徴は、惑星全土を覆う海だった。

 マッピングした解像度のレベルで、大陸や島は一切見当たらなかった。完全な海の惑星。さらに、海、と表現したが、水はすべて真水だった。多少の無機成分を含むものの、ほぼ純水に近い。複数のポイントで取水し、解析したが、赤道でも極でも、温度以外はほぼ誤差範囲内の違いしか見当たらず、おそらくこの海すべてが飲用可能な水として利用できると予想された。そして反応炉向けなどの工業用にもだ。

 どれだけ宇宙に出ても、人間もその活動も水が基礎だ。これほどの水資源は、下手をすれば連邦さえひっくり返せるかもしれない。もちろんそんなことをするつもりはないが、要するにそれほどの『お宝』惑星なのだ。

 目もくらむようなデータに我慢できなくなった俺は、自らの目で惑星を確かめたくなり、シャトルに乗り込んだ。それが今の不幸を呼び起こしたのだ。

 浮かれていた俺は、大気組成のパラメータを入力し損ねた。その結果、大気圏突入時に予想以上の衝撃がシャトルにかかり、もともとボロだったエンジンがいかれた。さらにメンテナンスを怠っていたせいか、シェイクされた電装モジュールのチップが複数トんだ。

 優秀な航法AIが生きていただけでも運が良かった。そんな状況でもこうやって海の上に不時着できたのだから。

 命あってのモノダネだ。地球の惑星開発局は少なくとも生体認証可能な体がなければ新惑星発見の権利を認めてくれないだろう。そう、申請のためにまずは地球に戻らなくては。

 ――どうやって?

 俺は大きくため息をついた。それがいまや直面する問題なのだ。

 エンジンが動かないのでは、軌道上の母船に戻ることはままならない。もちろん、通常でもこのような状況は想定されているから、シャトルから遠隔で別のシャトルを降ろし、故障したシャトルを捨てて戻る手立てがある。しかしながらそういったコマンドを母船に送るためにはメイン通信システムがいる。サブの回線では母船をリモート操作するための権限が足りないのだ。

「……仕方ないな」

 残された手段はある。単純に、SOS信号で救助を待つのだ。そのくらいはサブ回線でもできる。救助には数ヶ月を要するが、このシャトルは幸いにして太陽発電モジュールと食料合成の簡易プラントも積んでいる。最低限の非常用食料のあとが、合成食料になるだけだ。飢えることはないだろう。水もあふれるほどにある。

 俺はコンソールをたたき、救助信号発信のコマンドを準備する。ほんのわずか、他人に救助を求めるなぞ、というエクスプローラとしてのプライドが働いたが、背に腹は変えられない。実行キーを押す。数秒間の沈黙の後、SUCCESS表示が出た。問題なく超空間通信が働いて、冥王星基地の基地へと信号が飛んだ。


 三日目になって、俺は恐ろしいことに気がついた。

 簡易プラントから、合成食料が吐き出されないのだ。故障ではない。

 ここの水には一切の有機物が含まれていないからだった。

 融合炉を持つ巨大プラントならともかく、この簡易プラントでは無機物から食料を合成することはできない。電力は得られたから、俺はシャトルを何百キロメートルも移動させ、取水し、合成を行った。しかし無駄だった。

 自分自身の廃棄物には含まれているが、それだけでは当然足りない。簡易プラントは、基本的に有機物の圧縮ツールだ。大量の水からバクテリアなどを含む有機物を漉し取り、最低限の化学合成で食べられるものへと合成するのだ。もちろん草や木などでも合成してくれるが、大地のないこの惑星ではそれもままならない。

 俺を大金持ちにしてくれるはずの水が、俺を死に追いやろうとしていた。

 切り詰めに切り詰めた食料は、一週間でなくなった。水だけは腐るほどある。本当に腐ればどんなにいいか、と思わず考えてしまう。水中どころか、大気中にさえ何もいない。

 ちなみにそれを知って、自分自身のもつ細菌がクリーンな環境を汚染する危険を一瞬考えたが、最終的に利用するときにはどのみち殺菌するし、クリーンルームな惑星は貴重かもしれないが、サンプル以上の意味はあるまい、とそれ以上考えるのをやめた。

 深海も探査した。シャトルの小型プローブで、浅いところでは水深三〇〇メートル、深いところでは八〇〇〇メートル付近まで調べたものの、やはり小魚どころかプランクトンさえいない。

 さらに二週間を水だけで過ごした俺は、時々幻覚が見えるようになった。幻覚なのか、夢なのかも良くわからない。あたりに広がる海が、青々とした芝生に見えたこともあった。思わず引きちぎってプラントに投入したが、吐き出されてくるものはただの水だった。

 俺は何度目になるかわからない呪いの言葉をつぶやく。ありえない。ありえない、これほどの環境があるにもかかわらず、有機物の存在しない惑星など。

 救助隊はまだか。まだだろう。マニュアルによると、最速で一ヶ月。しかもそれは少なくとも登録エリア内の惑星だ。未定宙域の名無しの惑星には、どう見積もっても二ヶ月以上は必要だろう。つまり、楽観的に見ても後一ヶ月と少しは何とかして生き延びなければならないのだ。

 昔読んだ小説が頭をよぎる。いわゆる『冷たい方程式』系の話だ。恒星間宇宙船で、目的地に到着するためのエネルギーの不足が発覚し、乗員を減らすか、期間を延ばすかの選択になる。食料は、伸ばした期間はとても持たない。結果――各自がそれぞれの肉体を食べた。あるものは腕を、あるものは脚を。船内手術でサイボーグ化し、難局を乗り切ったのだ。

 回らない頭で考える限り、合理的な選択に思えた。しかしこのシャトルには手術設備がない。腕を切り落としても、食べる前に出血多量で死ぬだけだろう。そのくらいは判断できた。

 眠くなってきた。結局のところ、これが最も合理的だろう。希望はないかもしれないが。俺はまたまどろみ始めた。


 シャトルが接近物の警告を発した。

 跳ね起きたい気持ちに体が反応せず、俺はのろのろと体を起こした。極地付近の氷以外、接近警報は初めてだった。五キロ彼方の海上に、何らかの浮遊物がある。

 力が入らず、震える指でキーをたたき、シャトルを移動させる。

 最初、それは山のように見えた。緑色の青々とした山が、海から突き出ていた。だから俺はまた幻覚だと思った。しかし近づいてもその光景に変わりはなかった。

 いや、形がはっきりした。それは紛れもなくシャトルだった。連邦の十数年ほど前の汎用型シャトルだろう。それが苔むされ、山のようになって水面に浮かんでいるのだ。

 何かを考えるより早く、俺は自分のシャトルを接舷し、最後の力を振り絞り翼と思われる場所に飛び降りた。表面の苔をこそぎ落とすと、持ち帰って次々にプラントに投入する。初めてプラントが意味のある唸りを発した。思いもかけず、俺は涙が出た。数時間かかるが、とにかくこれで食料が生み出されることは間違いなかった。おそらく誰も食べたことがないほどうまい合成食料が出てくるだろう。俺は涙をぬぐった。

 安心したのか、空腹でふらふらするものの、少しだけ元気が出た。そしてようやく、なぜこんなところに地球のシャトルがあるのかを考える余裕が出来た。

 再び、廃棄シャトルに戻る。翼の脇にあるハッチは、軽く押したところ中へと崩れながら倒れた。

 シャトル内も、外に負けず劣らず苔と、そうでない植物で占領されていた。ブーツが草を踏む音がする。歩いたときに金属床の音以外を聞いたのは久しぶりだった。

 メインシートはリクライニングされ、緑色をした人型の何かが横たわっていた。おそらく人だったのだろう、しかしいまや複数の植物が絡みつき、ただそこにそれがあったであろう痕跡だけが残されていた。

 コンソールを覗き込んだが、パネルの隙間と表面は草に覆われていた。念のためボタンをいくつか押してみたが、まったく反応はない。完全にダウンしていた。

 シートの脇に、不自然に盛り上がっている部分があった。設計上、何かあるとは考えにくい。草を引きちぎり、苔を取り払うと金属製の箱が出てきた。

 ロックされていたのかもしれないが、少し強めにゆすってやるとわりとあっけなく開いた。中には日誌と思われる本が一冊入っていた。いまや形も残らない、このシャトルの主のものだろう。

 最初のページ。『これは遺書である』。

 震える字で大書きにされていた。さっきまで、俺もこれが必要な立場だったのだ。

 まずは日付だった。一〇年と少し前だ。冒頭は、家族への感謝が書かれていた。続いて、これが手元に戻るとは思えないがと前置きした上での遺産配分。それから、遭難した経緯(俺とほぼ同じだった。ただし俺のほうが簡易プラントがある分、ある意味で準備が良かった)と、救助も何もかもが絶望的な件。最後に、この光景の理由だった。


 空中窒素固定装置が、こんな遠く離れた惑星で役に立つとは思わなかった。

 きわめて清潔なこの惑星を汚染するのは気が引けるが、私にとってあまりに冷淡な惑星に、小さな復讐ぐらいは許されてしかるべきだろう。生に必要不可欠であるにもかかわらず、まさに生のない水で満たされたこの惑星に。

 肥料はいくらでも生み出せる、機械が止まる限度まで。お気に入りの観葉植物をこの船いっぱいにしておこう。アジアンタム、デュランタ、ユーゲニア、スナゴケ。海流に乗れば温暖な地域を巡り続けられる。緑は水面へと広がるかもしれない。死の水に、生を少しでも注ぎ込むのだ。

 いつか誰かがこの星を訪れたときのために。


「……『ヒューバート・タキザワ』」

 最後に署名があり、思わず声に出して読んだ。俺は大きく息をつき、本を閉じた。

 本を持ち、俺は自分のシャトルへと戻った。プラントからは、緑色のどろりとした合成食料が吐き出されていた。スプーンですくって口に含むと、それは苦くて甘くて塩辛くて味が薄く、そして今まで食べた中でもっともおいしい食事だった。


 とうとう明日、救助隊がこの惑星の軌道に到達する。あふれる植物は、あれから二ヶ月、俺を食いつながせてくれた。まだ数ヶ月は持つだろうが、正直、これ以上合成食料は食べたくなかった。

 俺は廃棄シャトルから所有者に関するすべての証拠を取り去った。やることがなく、それだけに集中していたから、万が一にも漏れはあるまい。型番、製造番号が刻まれているもの、パネルははがせるだけはがしてやはりそれらが刻まれるものを排除した。プライベートな荷物から、念のため気密服までをも投棄した。火を使った形跡は避けたかったから、すべてを海の底へ沈めた。

 この廃棄シャトルの所有者がわかるのは、今握り締めている一冊の日誌だけになった。

 すまないな、と独りごち、俺はシャトルの上に出た。どこまでも続く青い水面と見渡す限りの水平線。

 ――惑星の権利を主張するには第一発見者でなくてはならない。生き延びた理由を説明するのにシャトルは要るが、少なくとも俺より先に発見した人物が特定できては困るのだ。調査してもわからなければ、自動的に権利は俺のものになる。

 あんたのことは忘れない、ヒューバート。知っているのはこの俺だけになるが。

 重石をつけてぐるぐる巻きにした日誌を、俺は力任せにぶん投げた。

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