楽園の猫
設営された基地の外見に、特に目立ったトラブルは見当たらなかった。
一人の調査員が行方不明になった簡易型の観測基地は、こぢんまりとしたドーム型をしている。生態系への影響が少ないように荒地を選んで設営され、そのせいか辺りを舞う砂埃で埃っぽい。それでも新しく、物理的な破壊といったトラブルは見受けられない。
頭上には太陽と同じG型スペクトルを持つ母恒星コルトが輝き、地球と酷似している大気構成のために空の色は青い。
セレナはそのあまりに地球に似た風景に、奇妙なノスタルジーを覚えながら思った。
(いったい何があったというのか――)
連絡が途絶えたのはおおよそ一五〇時間前のことだ。
コルト星系第二惑星――コルトⅡは、辺境に発見された居住適正Aランクの惑星だ。母恒星コルトの周りを二五〇単位日で公転し、大気には有毒な気体もウイルスも含まれていない。
連邦の辺境調査委は一人の調査員を送り込み、そして彼はコルトⅡに着いてから五〇〇時間あまり、順調に調査結果を送信し続けた。
それが一五〇時間前、『セレナへ。救助を求む』と言う緊急通信を最後に連絡が途絶えたのである。
行方不明になった調査員の名前はティモンズ――セレナのかつての恋人だった。
セレナはなぜティモンズが自分を指名したのか不思議だった。セレナは救助部門ではないし、ティモンズと同じ部署でもない。同じ情報庁だが彼は惑星調査部門、セレナは汎連邦ネット管理局で、業務内容はまったく違う。
(この風景のせいなのかもしれない)
セレナは思った。地球に似た惑星での、たった一人の任務が望郷の念を呼び起こし、かつての近しい相手であるセレナを呼び出したのかもしれない。孤独な作業が時に人を弱気にすることもある。
それでも疑問は残った。
セレナもティモンズも情報庁に所属する情報解析官なのだ。
情報解析官は膨大な情報を処理するために特殊な訓練を受け、感情を極力押し込めるようになる。そうして得た冷静な判断力で、困難な任務をこなしていくのである。
そんな特殊訓練を積んだ人間が、仮に感傷的になっても、任務上何の関係もないセレナを呼び出すのはきわめて不自然だった。ある意味では、こういったことがないように訓練があるのだ。
今回の救助任務を本来何の関係もないセレナが引き受けたのも、正直なことを言えば情ではなかった。セレナは自分自身を指名したこと自体がトラブルと関係しているかもしれない、と判断していた。
セレナは基地の周りを一周、ぐるりと見て回った。やはりこれといった異常は見つからなかった。少なくとも、基地の外見から何かを見つけ出すのは無理だった。
基地の中を調査するしかなかった。
セレナは左手にはめた真白い〈グローブ〉を操作した。〈グローブ〉は解析官の標準装備品であり、そして象徴でもある。〈グローブ〉は操作にしたがってセレナの体内に埋め込まれた〈システム〉を起動し、後方に止めてあるシャトルとの回線を開いた。これでセレナの行動がすべて記録される。〈システム〉を通し、視神経も聴覚神経も、そして思考さえもありとあらゆる入力が転送され、記録されていく。
「〈システム〉」
と、セレナはつぶやいた。
「今からの行動を別スレッドとして記録して。私の言葉が終わったタイミングを初期時間に設定」
『――了解』
どこからともなく〈システム〉の声が聞こえた。聴覚神経に直接作用する声は、どこから聞こえてくるのか分からない。
(調査を開始する)
記録に残すため、そう『考えて』から、セレナは慎重に基地の入口に近づいた。センサは何も働いていないようで、本来は自動のドアが開かない。
取っ手代わりになる出っ張り部分に手をかけると、セレナは鉄のドアをゆっくりとスライドさせた。ドアはそれほど抵抗なく開いた。基地の動力系の電源が落ちている証拠だった。
ドアの奥にもう一つドアが見える。二重ドアだ。
基地内に足を踏み入れると、外の空気とは違う、わずかな生活臭がした。
(ティモンズの匂いがする……)
ふい、と考えてから、セレナはつぶやいた。
「〈システム〉、今の思考は記録から削除」
『了解』
主観的過ぎる、いや、感傷的過ぎると言うべきか、本来はそういった感情も記録しておいたほうが分析に役に立つことさえあったが、セレナは奇妙とも言える気恥ずかしさを覚え、記録を削除した。
内側のドアも自動では開かない。外側のドアを半分くらい閉め、内側のドアに手をかける。やはり同じようにスライドさせて開ける。
室内は空気が澱み、少しむっとしていた。空調系が停止してから長い時間がたっているようだ。
ドア以外、光の入ってこない部屋の中は暗い。セレナは〈グローブ〉を操作して、発光させた。部屋の様子が暗い中に浮かび上がる。左手をかざしながら、室内をざっと見回す。
外見と同様、破壊されたような形跡は一切なかった。電源の落ちた端末やコンソールが静かに並んでいる。
(任務を放棄してどこかへ出かけてしまったような感じがする)
外的要因のトラブルがあったようには思えなかった。基地が放棄された、と考えるのが自然だった。
観測室の奥には観測員のための個室がある。まさかとは思うが、と考えつつ、セレナは念のためティモンズの名を呼んだ。
「ティモンズ! ティモンズ解析官! ……」
うわん、わん……と狭い室内にわずかに反響して、セレナの声は消えた。
当たり前か、とセレナが思った瞬間、足元を何かが駆け抜けた。
「!」
声にならない驚きと共にセレナは後ろに飛びのいた。
(――猫――?)
駆け抜けた小動物らしきものは、太陽系で言う猫に似ていた。その猫はドアのところで立ち止まった。
逆光の中で影絵のような猫は、恐ろしく鮮やかな緑色をした目でセレナを見据えた。
その突き刺すような視線を感じた瞬間、セレナは酷い目眩を感じた。
それは現実的でない目眩だった。
失っている、と言う恐ろしい喪失感がセレナを襲った。何を失っているのか分からない、ただ圧倒的な喪失感だけがセレナを突き刺した。動悸が早くなり、息苦しくなって胸を押さえた。
だがその反面、不思議な快感もそこにあった。それは解放感だった。やはり正体の分からない何かから、解放される悦びが存在していた。
喪失感と解放感は混ざり合って絡みつくようにセレナを捕え、彼女は視線を猫からはずすことが出来なかった。今にも緑色の目が闇の中で巨大化し、覆い被さってきそうだった。
まずい、と本能的にセレナは感じた。
訓練のときの要領で、セレナは自制心を強化した。失いかけた理性がじわり、と戻ってくるのを感じ、その力で視線を別の方向へ向けた。そのとたんにさっきまでの感覚は一瞬にして消え失せた。張り詰めていた糸が突然切れたような唐突さだった。
猫はセレナに興味を失ったようにドアから外へ走り去った。
(今のは――)
セレナの額と手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。(――何)
しばらくセレナは動くことが出来なかった。
ようやく落ち着きを取り戻した頃、セレナはティモンズから送られた調査記録の中に『猫』の記録があったことを思い出した。
「〈システム〉、ティモンズ解析官が本部に送った記録の中から、『猫』をキーワードに検索して」
『了解。――三件です。すべて第五〇回定時連絡に含まれます。再生しますか?』
三件。少ない、とセレナは思った。それに第五〇回定時連絡は、救助要請前の最後の定時連絡だ。十分な調査が行われる前にティモンズは失踪している。それでも何か役に立つ情報が含まれているかもしれなかった。
「関連する発言すべてを含むように再生して」
『了解、再生します。――「一匹の小動物を捕獲した。地球で言う猫に似ている。正確には捕獲しようとしたわけではなく、フィールドワークから戻ってみるとコンソールの椅子に寝そべっていただけだ。どこから侵入したのか結局分からなかった」』
ティモンズが送ったらしいその「猫」の映像が、〈システム〉からセレナの脳裏に投影される。それはセレナがさっき見たものとそっくりだった。体全体は黒い毛で覆われていて、目だけが緑色に輝いている。既知の猫のどれとも似ていないが、どれとも似ているとも言えた。すべての猫の姿形をブレンドしたらこうなるのではないかと思えた。
〈システム〉は再生を続ける。
『「外見的には、緑色の目が特徴的だ。まだ良く調査していないが、人をひきつけてやまない魅力がある。いわゆる地球の猫とは違った魅力を感じる。性質的に人懐っこいほどではないが、私のそばを離れようとしない。今後詳しく調査していきたい。なお、暫定的にこの小動物をコルト猫と呼称する」。――関連すると思われる部分は以上です』
「緑色の目……魅力的」
セレナはさっきの瞬間を思い出した。視線をはずせない、と言う意味なら魅力的という表現は正しかった。
(でもあれは違う)
魅力的というよりは、危険だった。しかしさっき感じた不可解な感覚は、ティモンズの通信内容にはまったく残されていない。
(同じ種類でも違うコルト猫か、あるいは良く似ているが違う動物か……)
どちらにせよ、今はその猫もいない。ティモンズの残した情報はそれだけしかなかったし、これ以上調べようがなかった。あの感覚は〈システム〉が記録しているはずだった。後でそれを調べることもできる。
セレナは首を振った。ティモンズを見つけ出すことが先決だった。セレナはコルト猫についてそれ以上考えるのをやめ、調査を再開することにした。
しかし結局、観測室には手がかりらしいものは何も見つからなかった。記録装置類もすべて電源が落とされていたため、メモリから何かを引き出すこともできない。基地そのものはまだ生きているようだったから、セレナは主電源を入れようかとも考えたが、それは最後にしようと考え直した。現場をあまり乱したくなかった。
残りは装置などを保管する保管室と、ティモンズの個室だ。
セレナはどちらを先に調べるべきか少し迷ったが、先にあまり関係のなさそうな保管室を調べることを選んだ。
保管室にはさまざまな観測機器や資材が置かれていた。
セレナにはわからない機器が多かった。情報庁に所属していても管轄が違うし、辺境にいる今は汎連邦ネットから切り離されているから、〈システム〉を使って庁のデータベースから検索することもできない。それでもとりあえず〈グローブ〉の明かりをかざしながら見ていく。
奥のほうには透明なチューブがいくらか並べられて置かれており、中にはプラスチックで固化された植物があった。あとで本部に送られるはずだったサンプルだろう。
その脇に置かれたものが目に入った。それは動物用のケージだった。
ケージそのものは特に珍しいものではない。しかしケージの名札には『コルト猫』と書かれていて、餌皿なども置かれていることから、ティモンズがそのケージにコルト猫を入れたか、入れようとしていたことが推測された。
原則的に動物類はサンプルを取らないことになっている。生態系に与える影響が大きいと思われるからで、調査した場合は、調査後、速やかに解放することになっている。
にもかかわらず、ティモンズはコルト猫をサンプルとして保管――飼おうとしていたことになる。
セレナはケージに近づいてそれを良く見た。猫の毛のようなものは見当たらなかった。実際にはこのケージにコルト猫を入れなかったのだろう。
(コルト猫に逃げられたのだろうか、それともケージに入れる必要がないほど懐いていたのか)
理由はわからなかったが、セレナはティモンズの行動に違和感を覚えた。小動物をかわいがるような感性は、情報解析官になるとき失われているはずだった。しかし確かに、ティモンズは猫が好き『だった』。
まるで情報庁に入る前のティモンズのようだ、とセレナは感じた。
二人が付き合っていたアカデミー時代、ティモンズはコルト猫と同じような黒猫を飼っていた。ティモンズはその猫に幸運を意味する『ラック』という名前を付け、可愛がっていた。
セレナはその名前を初めて聞いたとき、変わった名前を付けたのね、と言った。
『だって黒猫なんてどちらかと言えば不運の象徴じゃないの?』
セレナがそう尋ねると、ティモンズは笑った。
『黒猫はね、中世の大航海時代、船乗りの間では幸運のシンボルだったんだよ。守り神代わりに良く飼われていたんだ』
そんな会話をセレナは思い出した。
懐かしく暖かい気持ちになり――それから驚いて我に返った。
任務中に感傷に浸るようなことは今までになかった。情報解析官は常に冷静沈着であれ、と教えられ、セレナはそれを忠実に守ってきた。
セレナがティモンズのことを思い出すこともあった。しかし整理のついたことであり、特殊訓練で押し込まれた感情が表に出てくることはなかった。
どうもおかしい、とセレナは思った。
(なぜ自分はこれほどまでに感傷的になっているのか――)
セレナは自問自答した。
(ティモンズのことを思い出しているからか、あるいはこの惑星が地球に似ているからか)
しかしどちらも当てはまりそうになかった。そんな単純なことではない。少なくとも今、セレナは情報解析官として自分の心理状態はしっかり把握できていた。何かもっと別の理由があるように思えた。
(――とにかく調査を進めよう。心理状態のチェックは後でもできる。今はまずこの基地の調査だけでも終わらせなければ)
セレナは、今度は〈システム〉に記録された感情と回想を消さないことにした。後で分析しておく必要があった。不可解な心理状態を残しておくのは、情報解析官と言う仕事の将来のためにも不適切だった。
セレナは保管室を出て、今度はティモンズの個室の前に立った。
ドアのプレートには個室と書かれている。セレナは少し鼓動が早くなるのを感じた。何に対して緊張しているのか良く分からなかった。いつもならそれは単に未知の状態に対する緊張だ。しかし今はティモンズのプライベートに踏み込もうとしていることに対して緊張しているのではない、と言い切ることはできなかった。
セレナは個室のドアをゆっくりとスライドさせた。
個室もやはり同じように暗く、良く見えない。セレナは左手の〈グローブ〉を前に出して部屋の中を照らした。
左側には壁から突き出すようなテーブルと椅子があり、奥には一人用のベッドがある。
部屋には一面に紙が散乱していた。
(紙?)
何かの記録に紙を使うなどあまり考えられないことだった。基本的にどんな記録も端末のメモリ、あるいはディスクに収めることになっている。よほど特別なことがなければ紙は使わない。
セレナは床に落ちていたそれを一枚拾ってみた。プライベート端末の印刷用紙のようだったが、ただの白紙だった。他にも何枚か拾ってみるが、やはり白紙だ。
(何かを印刷しようとしていたのだろうか)
セレナはテーブルの上を見た。そこにも紙が数枚置いてあり、今度は何か書かれていた。
「『セレナに会いたい』……」
一枚目は、それだけが書かれていた。筆跡はティモンズのものだ。
二枚目には人の顔が書かれていた。それは多少分かりにくかったが、セレナの顔に違いなかった。絵の好きなティモンズが、アカデミー時代に良く描いていたセレナの絵だった。デッサン風でなく、ペンで一筆書きのように一気に書き上げる画風はセレナも良く覚えていた。絵の中でセレナは笑っていた。
三枚目、四枚目……と、失敗したようなものもあるが、残りは全部セレナの絵だった。
(これは何――いったいどういうこと)
セレナは混乱した。セレナにはその紙からティモンズの意思がひしひしと伝わってきた。なぜティモンズは今ごろになってそんなにセレナを切望しているのか、彼女には良くわからなかった。別れてから今まで、そんなことは一度もなかった。もともとティモンズは孤独に耐えられる性格をしていたし、ティモンズの経歴上、惑星の予備調査任務はここだけではない。孤独な作業がティモンズを変えたとはとても言えなかった。第一、情報解析官になるとき、そう言った訓練もプログラムにある上、配属は適性を考慮に入れている。
(……ではなぜ?)
ほかの可能性として最もありえそうなものは『環境』だ。しかしただ風景が地球に似ているというだけでそれほどまでに変わるとは思えないし、郷愁を誘うほどすばらしい風景とも言いがたい。
今の情報量では手詰まりだった。いくら考えても答えは出てきそうにない。
後は端末に残されている記録だけが頼りだった。基地の管理システムに電源を入れればメモリから記録を呼び出すことができる。
セレナは個室を出た。
観測基地の主電源を入れようと、観測室内の隅にある動力区画まで行った。壁面にあるボックスを開けると、そこには主電源用のハンドルがある。セレナはそれをぐっと押し上げた。
小さな発電機の唸りが聞こえ、観測室内の明かりが二、三度明滅したかと思うと点いた。
空調は入らない。蓄電されていないのか、電圧が足りないのだろう。
それでも明るくなった室内で、セレナは〈グローブ〉の明かりを消し、メインコンソールの前に座ると端末の電源を入れた。
コンソール上でいくつかの発光素子が明滅し、パネルが息を吹き返す。グリーンに混じって警告を示す赤い光もあったが、自己診断で回復したらしく、やがてすべてのランプはグリーンになった。
サブディスプレイ群には機器の状況が表示され、メインスクリーンでは連邦の標準オペレーティングシステムのブート画面がシステムのチェック状況を示しながら進んでいる。
座ったせいか、セレナは疲れている自分を感じた。肉体的な疲労ではなく、じわじわと染み込むような精神的な疲れだった。ふと気を抜くと寝てしまいそうだった。
分からないことが多すぎた。セレナはピースの足りないジグソーパズルを与えられた気分だった。
ティモンズの失踪、あの奇妙な猫、セレナの絵、……何かがつながりそうでつながらない。もどかしさがセレナを一層疲れさせていた。
甲高い電子音がした。セレナは驚いてメインスクリーンを見る。オペレーティングシステムが起動エラーを出していた。
(観測装置群のシステムが壊れている……)
セレナはコンソールに向き直ってエラー内容をざっと見たが、管理システムの復旧はできそうになかった。システムを構築する重要なデータ群が破壊されている。
システムの復旧は諦めて、セレナは記録だけでも読み込むため、〈グローブ〉の手首部分から細いケーブルを引っ張り出してコンソールの端子に差し込んだ。〈グローブ〉を介し、〈システム〉を利用して破損していないデータを検索する。
データ空間をざっと走査したセレナは、幾分ほっとした。システムは破壊されているが、データは大半が残されている。
観測データは後で本部に送信すれば良い。失踪の手がかりを見つけるため、セレナは調査員がつけているはずの日誌を検索した。これも大半が残っていた。有効なファイルの最終日付は八単位日前――失踪の前日だ。最後の定時連絡より後で、そして緊急通信より前につけられたものだろう。「
驚いたことに、その記録は単純な文章で記録されていた。普通なら疑似体験データで構成されている。体験、思考を〈システム〉から移し変えるだけで済み、また読む側も同様だからである。
それでも仕方がない。セレナはその日誌を開き、〈システム〉に読み上げさせることにした。
『読み上げを開始します――』
「待って――」
セレナはほんの少しためらってから付け加えた。「音声はティモンズ解析官のものを充てて」
なぜわざわざそんなことを――疑似体験データでない分、ティモンズ解析館の声を充てれば少しは分かりやすいかもしれない――言い訳だろうか、セレナは複雑な表情を浮かべた。
〈システム〉は読み上げを開始した。
『ティモンズ解析官記す――』
ティモンズの声に、セレナは自分から指定したにもかかわらず動揺し、苦笑した。
『まだ機械類の使い方が分かるうちにできる限りの記録を残す。急激にいろいろなものを忘れている。すでに観測機器の一部は操作できない。あれほど叩き込まれた〈システム〉の使い方さえ分からない。今ではキーボードが精一杯だ』
最初の内容でいきなり、セレナは衝撃を受けた。
〈システム〉は、ユーザがこう使う、と意識して使うものではない。思考による脳の微弱電圧変位で、大脳皮質に埋め込まれた探針を通して〈システム〉に指令を与える。確かに思考法にはコツがある。しかしそれは訓練によって条件反射のように叩き込まれているはずだった。
『――言い方がまずかった。使い方を忘れていると言うより、おそらく前頭葉から大脳皮質に関して異常が起きているのだろう。しかし少なくとも既存のウイルスや病気などは認められない。
現状をもう少し詳しく書く。明らかに記憶の一部が失われている。特に情報庁に入ってからの記憶にその傾向が著しい。が、これは正しくないかもしれない。昔のことでも忘れているような事柄がある。また、情報庁以後の記憶が薄れているせいか、訓練効果が徐々に失われつつある。感情をうまく押さえ込めない。不安、怒り、悲しみ、喜び、押さえ込んでいた感情があふれてくるのがわかる。中でもセレナのことは一番強く思い出される』
自分の名前が出てきて、セレナは心臓がどくんと打つのを感じた。二つの思考が交錯した。ティモンズの声で名前を無意識に呼ばれて喜んでいる自分、そして自分が同じような状態になりつつある、と言う冷静な認識。
(自分にも何かが起きている)
セレナは焦りを覚えた。感情をコントロールできなくなりつつあった。
『原因については不明。但し手がかりはある。猫だ』
(猫。コルト猫か)
セレナはコルト猫の映像を思い出した。黒い体毛に覆われ、鮮麗な緑色の目を持つ、地球の猫に良く似た小動物。
『異変が始まったのはコルト猫を捕獲してからだ。確証はない、しかしありえない話ではない。コルト猫はあの仮定された特異生物かもしれない。最初はまさかと思った。現実にそんな動物が存在するとは思えない。われわれと異なったエネルギー体系の中を生きる生物――』
突然バシン、と音がして、端子から火花が飛んだ。一瞬のショートが〈システム〉で痛覚に変換され、セレナは短く悲鳴をあげて腕を引っ込めた。〈グローブ〉から延びていたケーブルがコンソールから引き抜かれた。
(今のは何……突然データが消滅したような……)
左手首の痛む辺りを撫で、セレナはケーブルを〈グローブ〉に収めた。もう一度挿してデータの読み出しを試みても良かったが、またショートしないかと少し不安で、挿すのはやめた。
結局ほとんど手がかりはつかめずじまいだった。それでもティモンズが感情をコントロールできなくなっていたことが確認でき、それが記憶を失い始めているせいだ、と言うことは分かった。
しかしなぜそうなったかはまったく不明のままだ。
セレナはとりあえず一度シャトルに戻ろうと思った。今まで得た情報をもう少し詳細に検討すれば、新たな手がかりを得ることが出来るかもしれない。
(一旦状況を整理して、本部に送信したほうが良さそうだ)
そう考えてセレナは椅子から立ち上がり、振り向いた。
セレナはぎょっとした。
入口のところに黒い影が見えた。よく見るとそれは人間のようで、それから小動物もいるようだった。
「セレナ」
黒い影は聞き覚えのある声でセレナを呼んだ。〈システム〉の擬似音声ではなかった。その懐かしい声はセレナの鼓膜に響き、それから体全体に染み渡った。
(まさか……)
黒い影は基地の中にゆっくりと歩を進めた。次第にセレナに近づき、照明で顔が見えるところまで来た。
髭は伸び放題で、情報庁の制服は薄汚れて何ヶ所も破れている。しかし誰かを判別することができた。セレナには良く見覚えのある顔だった。
「ティモンズ……解析官」
セレナは自分の声が震えるのを自覚した。
ティモンズは一匹のコルト猫を胸に抱いていた。もう一匹、別のコルト猫も足元にまとわりついている。
コルト猫を見て、セレナは警戒した。しかし猫たちはセレナを見ようともしなかった。
「セレナ……来てくれたんだね。嬉しいよ」
ティモンズは笑みを浮かべた。そしてゆっくりとセレナに近づく。セレナはしばらく呆然と立ちすくんでいたが、はっと気が付くと〈グローブ〉を前に出して構えた。
「動かないで、ティモンズ解析官」
親指の先から伸びるレーザー照準をティモンズの胸に当てながら、セレナは絞り出すように言った。「まだあなたを救助対象のティモンズ解析官と認識したわけではありません」
ティモンズは自分の胸に映る赤いレーザー光を見ながら、立ち止まった。
「セレナ……」
「……どうして任務を放棄したのですか」
「きっかけはこのコルト猫だった」
ティモンズは胸に抱いていたコルト猫を床に下ろすと、再びゆっくりとセレナに向かって歩き出した。
「近づかないで、ティモンズ解析官」
セレナはコンソールを背にして後ろへ下がることが出来ない。ティモンズはまるでセレナの警告を聞かずにじりじりと間を詰めてくる。
「最初はただの綺麗でおとなしい猫だと思った。この猫が部屋に居るのを見つけたとき、僕は思わず昔飼っていた猫――名前は思い出せないけれど――の、ことを思い出したよ」
「ラック、よ。動かないで、と言っているでしょう」
セレナはもう一度警告するが、ティモンズは首を振り立ち止まろうとしない。
「そうか、そんな名前だったのか。思い出すこともできない。失われた記憶は完全に破壊されているんだ」
ティモンズはなおも近づきながら、続けた。
「僕はその猫をを飼おうとした。今思うとすでにそのころから影響が出ていたんだと思う。こいつが近くにいると幸せな気分になれた。僕は徐々に理性の枠がはずされていくのを感じていた」
「……なぜもっと早く救助を求めなかったのですか」
セレナは近づいてくるティモンズに気圧され、尋ねる声もかすれる。
「あまり良く憶えていない。たぶん、情報解析官としてコルト猫の生態や特徴を調査してから報告しようと思っていたんだろう。いくつか防御策を行ったことは憶えている。システム類も電源を完全に落とした。しかし結果的には手遅れだった。データは一部が失われ、僕は理性と記憶が次第に失われつつあるのを知った」
ティモンズはセレナの目前まで来ていた。セレナの伸ばした左腕に今にも届きそうなところでティモンズは立ち止まった。
セレナは〈グローブ〉からパラライザを発射できずにいた。腕が震える。
(パラライザに殺傷能力はない。撃って、気絶させて……後で話を聞けばいい)
セレナはそんなふうに考えるが、〈システム〉に命令を出せなかった。訓練では対人射撃も経験しているし、自分も撃たれている。出来ないはずがなかった。しかし感情が邪魔をしていた。
突然、ティモンズはセレナの左腕をつかんで自分のほうにぐっと引き寄せた。セレナは体をこわばらせた。
「セレナ、君にも影響が出てるはずだ」
息がかかりそうなほど顔を近づけ、ティモンズは言う。
「感情的になっているだろう? それは感情が強くなったんじゃない。それを抑えていた作り物の理性が崩され始めているんだ」
セレナは振りほどこうとするが、緊張のせいか力が出ない。
「君なら分かるだろう。コルト猫が周りにどんな影響を与えているのか。情報庁でも検討したことがある生物だ……」
そういってティモンズは口をつぐんだ。セレナの回答を待っているようだった。
セレナは口がからからになりながら、それでも何とか頭を働かせようと努力した。情報庁で検討した生物。猫、めまい、記憶の消失――そして日誌の言葉に行き当たる。
(『われわれと異なったエネルギー体系の中を生きる生物』――)
セレナは乾燥した唇を舐めてから、ためらいがちに口を開いた。
「まさか――記憶を……『情報』を……」
ティモンズはうなずいた。
「その通りだよ。コルト猫は非熱力学生物――情報を食べる生物なんだ」
セレナは息を呑んだ。仮想生物として検討されていた非熱力学生物が実在していたとは、にわかに信じがたい話だった。
非熱力学生物――コルト猫は、情報の落差を利用して生命を維持している。
一般の生物は、食料を摂取し、それを体内でエネルギーに換え、最終的に熱として体外へ排出する。このサイクルは熱を生む不可逆変化であり、不可逆変化には必ずエントロピーの増大が発生する。すなわち生物の生命活動とはエントロピーを増大する活動でもあると言えるのだ。
これを情報工学に当てはめたらどうなるか――それが情報庁で検討した非熱力学生物だった。
情報工学には熱力学と同様、エントロピーと言う概念が存在する。一方が他方に信号を送ると、受信側では受信前に比べて受け取った信号分だけ情報量が増える。すなわち受信前に不足していた情報を得ることで、事象に対するあいまいさを軽減しえたことになるのだ。これはエントロピーの減少に相当する。
つまり情報の存在する状態が低エントロピー、情報の存在しない状態が高エントロピーになる。
生物の活動がエントロピーを増大させることである、ということを考えれば、非熱力学生物は『情報』を食料とし、それをエネルギーに換え、無意味な情報――『雑音』として排出するのである。
非熱力学生物はそうやってエントロピーを増大させながら生命活動を行うのだ。
コルト猫がその非熱力学生物だとすれば、彼らは情報を食料として得なければならない。
そして人間の記憶も、理性も、脳の働きはすべて『情報』だ。
「非熱力学生物はあくまで思考実験の産物として扱われていたはず――」
「この猫たちは現実なんだ」
ティモンズはセレナの腕をつかんだまま後ろを振り向いた。セレナがふと見ると、コルト猫はいつのまにか増えていて、七、八匹のコルト猫が、二人のほうを伺っていた。
多くの黒猫が鳴きもせずじっと集まっているさまは、何とも言えず不気味だった。セレナは緑色の目を見ないようにした。最初にコルト猫と遭遇したとき、目を見たせいでダメージを受けたのだ。今さらながらセレナはぞくりとした。
(あれは私から『情報』を抜き取っていたんだ……)
「駄目なんだ、セレナ」
ティモンズが目を合わせないようにしているセレナを見て、悲しそうに言った。
「彼らがいったいどうやって我々やシステムから情報を奪っているのかは分からない。しかし一度でもコルト猫と接触してしまうと、後は彼らが『食事』するのを防ぐ手立てはないんだ。たぶん、今も君の中の記憶は失われている」
ティモンズはつかんでいたセレナの腕をそっと離した。セレナはもう構えなかった。ティモンズがセレナに危害を加える気がないことを悟っていた。
セレナは脱力し、コンソールにもたれかかった。すでにコルト猫のワナに落ちているのだ、と思った。
(どうしようもないのか。誰かに……誰か?)
セレナははっと気が付いた。
「本部に連絡を……」
この現状を報告し、救助を求めなければならない。セレナは〈システム〉を呼び出そうとした。
しかし次の瞬間、セレナは愕然とした。呼び出し方が分からなくなっていた。
「本部に……〈システム〉を起動……」
セレナはこめかみを押さえて唸った。必死に〈システム〉をコントロールしようとするが、叶わない。前頭葉の辺りがちくちくする。集まってきた猫たちに、それほどまで記憶を蝕まれているというのか。
「コルト猫は、主に『理性』を餌にしているようなんだ。感情や本能より、理性的なものほどおいしいと感じているのかもしれない……」
ティモンズの言葉に、セレナは不意に納得した。
(大脳皮質だ……。〈システム〉は新皮質でコントロールする。新皮質で行われる高次の精神活動ほど、ご馳走としてコルト猫に食べられていくと言うわけね……。だから〈システム〉をうまく制御できなくなる。そして――)
セレナはティモンズを見た。ティモンズは優しい笑顔を浮かべている。それは情報解析官になってから見たことのないものだった。
(結果として人格には、大脳辺縁系――旧皮質、古皮質が司る本能と、感情が前面に出てくる……)
ティモンズは情報庁に入る前の、あの感情豊かな笑顔でセレナを見ていた。セレナは胸が締め付けられる思いだった。
(そして自分も……もう感情を押さえ込めない……)
セレナはかつて心の奥底に押さえ込んでいた感情が、泉のように湧きあがってきているのを感じていた。それは砂に撒かれた水のように乾いた心に止め処なく染み渡っていった。
「情報庁で得た理性は、もう僕を縛り付けていない。本当に必要なものはセレナ、君なんだ」
ティモンズはセレナをじっと見つめた。その表情には一切の打算がなかった。言葉にも理性ではない、純粋に好きという感情だけが込められていた。
セレナはティモンズのことを好きだった自分を思い出した。彼のことが何もかも好きだった、あの頃の想い出が駆け巡る。一緒に出かけた場所、一緒に食べた食事、一緒に寝たベッド、やさしかったティモンズ――恋しく懐かしい時間が次々と蘇った。
しかし流されそうになるセレナを、ほんのわずか残った理性が押しとどめていた。
どうして別れてしまったのか、どうしてうまくいかなかったのか、それは感情で割り切れない部分があったからじゃないのか。
セレナは顔をゆがめた。泣き笑いのようだった。
(それもあった、しかし、でも、……)
あたかも強風にあおられる凧のように、感情はセレナを翻弄し、その中で理性が細い糸となってセレナを踏みとどまらせていた。
「理性が失われるにつれ、僕は君と別れてしまった後悔ばかりを感じた。もう端末は使えなくなったから、紙を引っ張り出して君の絵も描いた。セレナ。セレナ。あんなくだらない理由で、もう二度と君を失いたくない」
ティモンズの言葉に、鋭い胸の痛みがセレナを刺した。二人は、情報解析官になるための特殊訓練で感情を押さえ込み、その結果、お互いに魅力を感じなくなってしまったのだ。そして独身でないことは仕事にも悪影響がある――二人は打算で別れたといっても良かった。
今のセレナにはそれが、ひどく間違った選択をしたように思えた。
「ティモンズ……」
私たちは間違っていたの――そう問いかけようとセレナはティモンズの名を呼んだ。
不意にコルト猫が鳴いた。
その刹那、セレナの心はふっと軽くなった。最後まで押しとどめていた理性はもう、セレナの中から消えていた。押し込められていた感情はその反動で爆発するように膨らんだ。
感情が溢れ、快感がセレナの体を突き抜けた。セレナは涙を流した。
思慕の念がセレナを支配し、それを止める理性はどこにもなかった。ただティモンズに対する愛しさばかりが溢れた。
(私は――私はティモンズが好き……)
今までためらっていたのが嘘のようだった。セレナは今、心からティモンズを愛していた。その感情がセレナのすべてだった。迷う必要などなかった。
セレナはティモンズを見上げた。何かを言おうとしたが、溢れ返る感情で言葉が出てこなかった。
ティモンズは優しくセレナの肩に手を置いた。
「僕はもう、君を離さないよ。幸い――」
ティモンズは床を見渡した。コルト猫はまた増えていた。もう何匹いるのか分からなかった。
「コルト猫たちは、むやみに僕の記憶を食べることはない。今みたいに急に理性を失うのは最初だけなんだ。たぶん体に耐性がないからだと思う。でももう大丈夫だ。後はゆっくり、感情に身を任せていればいい。猫たちが食べるのはほとんどが理性という無意識的なところだし、理性は日々形作られる。記憶だって毎日増える。そんなに多くの記憶を食べるわけでもない。彼らといれば、僕らはずっと幸せなままなんだよ」
理性を失った人間は果たして人間として幸せなのだろうか? ――そんな問いが瞬間、セレナの脳裏に浮かんだが、もうそれはセレナにとって無意味なものになっていた。
セレナは左手から〈グローブ〉を剥ぎ取った。手首にはつかまれたときの跡が残っていた。セレナにはそれが愛しさの証しに見えた。
「ティモンズ……」
「セレナ、この星で一緒に暮らそう。ここは地球に良く似ている。食べ物だって豊富にある」
「救助は……」
「最初はそうだったかもしれない。でも今は違う。感情溢れるこの星で、人間らしい生活を送るんだ……」
ティモンズは優しくセレナを抱き寄せた。
(――この星は
セレナはティモンズに抱かれながら、二人の周りに集まる猫たちを見た。
(アダムとイブは知恵をつけたことでエデンを追放された。猫たちに知恵を奪われた私達は、エデンに戻ることができるのかもしれない……)
セレナは集まってきた猫たちに祝福されているような気がした。緑色の目もただ鮮やかで美しく見えるだけだった。
その目にふと無明へとつながる暗く深い闇のようなものが浮かんだが、セレナがそれに気づくことはなかった。
セレナは暖かく幸せな気持ちのまま、ティモンズを強く抱きしめた。
楽園の猫 八川克也 @yatukawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。楽園の猫の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます