皆さんが静かになるまでに三分かかりました。
ズールムンケ・フロイト
ある夏の日にて
騒然とした教室。あちらこちらと素っ頓狂な方向を見る無垢な無数の双眸は、しかし一つとして教壇に立つ彼を見ていない。
薄い窓の外では、気の早い蝉たちがミンミンと喧しく鳴いている。それに覆いかぶさるように、クーラーのよく効いた教室にいる小学生たちの喧しい声が充満している。
彼とて小学校教師として働き出してからもうじき三年を数えようとしているわけで、よってこの不愉快な状況にも慣れているはずだった。だがどうにもむかっ腹が立つ。その理由を求めるように眼球のみを動かすと、頭をまん丸に丸めた坊主の少年の姿が引っかかる。
あの少年は確か爆竹でカエルを殺したとして注意を受けた生徒だ。得も言われぬ黒い感情が彼の臓物に生じた。
それをきっかけに、他の生徒の顔も順に見てゆく。するとどうであろう、この教室に集いし生徒たちは、全員漏れなく問題児と呼び声高い生徒たちではないか。
彼が若いからといって、他の先生たちに面倒事を押し付けられたみたいだ。憤りを隠そうともせず、彼はちらちらとわざとらしく安い腕時計を何度か見た。
生徒の誰かがその動作に気づくと、近場の仲間に何かを話し出す。次第に教室にはこそこそと話す声だけが広がった。しばらくもしないうち、それさえも無くなる。
まるで早朝の湖畔を思わせる雰囲気は、けれども嵐の前の静けさと言ってよかった。
見計らったように、教壇の彼は口を開く。
「……はい、皆さんが静かになるまでに三分と三十三秒かかりました」
ただの嫌味のつもりだった。たいていこのセリフが聞こえると、そのあとは説教が始まるものだとおよそ相場は決まっている。それゆえか、生徒たちは身構えたり、嘲笑めいたものを浮かべたりと、千差万別の表情を見せる。
しかしその期待を裏切るように、彼はいたって普通の声音で続ける。
「皆さん聞いていると思いますが、このクラスでは算数の補修を行います」
「えー、ダリーよう。ゲームしようぜゲーム!」
彼の言葉にそう反旗を翻したのは坊主の少年。元気が溢れる憎たらしい表情に、彼は思わずちいさな舌打ちをした。
「……では、教科書五十四ページを開いてください」
無視して言うと、坊主の彼や周辺の生徒たちが騒めいた。嫌なものから逃避するように、彼は背を向けて例題の板書を始める。神経質に掃除された深緑のそれに、チョークを削っていく。自然、平素より筆圧が強くなってしまっていることを意識せざるを得なかった。
「センセー、おれ教科書忘れちゃったンですケド、どーすりゃいいっすかね?」
「隣の人にでも見せてもらってください」
「えーでもこいつの教科書ラクガキばっかで見にくいんですよお」
黒板に向き合ったままのやり取りだった。顔の見えぬ坊主の生徒が何かを言うたび、チョークの濃さに、さながら雪舟の水墨画がごとくの濃淡がついてゆく。そしてついに脆い炭酸カルシウムの棒は音を上げて、ぽきんと小気味いい音を立てて教壇に転がった。
「センセーどしたのー? 大丈夫―?」
きんきん響く声が鼓膜を突いた。その言葉に言葉通りの意味はない。嘲りが主成分のその声は、僅かに焦りを含有している。転がった片割れを拾いつつ、彼はそう思った。
「……すみません。何でもないので、続けます」
喉奥から迫る吐瀉物のような負の言葉を飲み込んで、一瞬、ジプトーンの天井を見上げる。
「で、教科書はどーすればいいっすか?」
「ではもう片方の隣の人に見せてもらってください」
「でもーこいつのは何かいやっつーか、アレなんす――」
坊主の彼が言い切るより早く、彼は振り向き、そこ目がけてチョークを投げた。果たして、それは見事に坊主ゆえに防御力の低い額に命中する。
――ああ、やってしまった。一切の迷いなく投げ放ったあと、彼は後悔を焼き付けた。
今日日の親は面倒くさい。とりわけ問題児の親ともなると、その面倒さと言ったら筆舌に尽くしがたい。今まで対応したことがあるが、この親にしてこの子ありとはまったく言い得て妙と感じたものだ。
と、自らの未来を案じていると、額をさする坊主は不敵に笑いかけた。
「あーあ、やっちゃいましたねえ、センセー」
ほんのさっきまではまとまりなぞまるで無かった生徒たちは、ここぞとばかりに教壇に目をやった。
その黒目には、明らかな敵意があった。
汚い目だ。大人みたいな汚い目だと、教壇から彼は感じた。
だが同時に、ならば臆することもないと安心する。
改めて、この教室に集う生徒たちを見やる。
筋骨隆々の生徒たちが、電柱ほどはあるのではないかと言うほどの腕やら太ももやらをピクピクさせていた。もとより、この小学校は普通ではない。小学生とは思えぬほどの肉体を持つバケモノたちが、この学校には平然といる。
彼らの着る色とりどりの不調和な私服が、その筋肉のベージュとなって怪しく揺れる。
額の白い跡をぬぐった坊主は、ニヒルに口元を歪めた。
「闘りますか、センセー?」
「……別にいいですが、授業は受けてもらいますよ」
「おれと闘ったあとでセンセーがまだ立てたら、いいっすよ」
挑発的な態度に、彼は本心から苛立ちを感じていた。坊主の彼の身長は百八十センチほど。それは既に日本人の成人男性の平均身長を越しており、大の大人の彼でさえ見上げるような格好になってしまっている。
だが、臆することはない。なぜならば。
「それでは、始めましょう――」
言いつつ、まん丸頭に向かって手招く。そちらからどうぞ。そんな意味を込めたジェスチャーだった。
「へえ、いいんすね?」
気味の悪い笑みの後、その教室には机が舞った。特段勿体ぶるものでもない、坊主の彼はほとんどの予備動作なくして机を蹴り飛ばしたのだった。
恐怖を演出するには十分な威嚇だった。ただし相手が普通の教師だったら、の話だが。
皆が空を舞う机に夢中になって教壇から目を逸らし、そしてその数瞬後に再び黒板に目を向けたときには、そこにはいたはずの教師がいなかった。
その代わりと言ってはあまりに落ち着いた声が、生徒たちのつむじに言い放つ。
「遅いですね」
見れば、何と言うことであろうか。
片手にて天井の蛍光灯を掴み、もう片手では机を掴んでいる彼が、そこにはいた。
本来ならば地球に引かれて床とキスしていたであろう机は、今こうして吊り上げられている。ともすれば生徒目がけて落ちていたかもしれないそれは、落ちていない。
「危ないでしょう。こういうのは、しっかり先生を狙ってください」
「分かりましたよお!」
少年の頭でいったいどれくらい教師の言葉が理解されたかは判然としないが、未だぶら下がる彼に向って蹴りを入れたところを見ると、しっかり先生を狙うという言いつけは守ったように思える。
その八百屋にも売っていないような極太の脚は、およそ鉄といって過言ではないほどの強度を誇る。そんなものに蹴られてしまっては一たまりもあるまい。
彼は取り急ぎ机を盾に見立てて凌ぐ。
だが衝撃を殺しきるには足らず、彼の身体は黒板に叩きつけられた。盾に使った机は蹴られた場所を中心にクレーターのようなモノができていて、いかにその蹴りが強力であったかを窺える。
彼はと言えば、背中を酷く打ってしまったがために呼吸がしにくく、視界が眩むのを感じていた。
けれども、ここ一連の行動にまったく意味がなかったかと問われれば、彼は当然ノーと答えるはずだ。
掌中に握られているのは、紛れもなく蛍光灯。奇しくも、それはまるでチョークを巨大化させたかのような体状である。ここで今日初めて、彼は作り笑いではない本物の笑顔を浮かべたのかもしれない。
「武器は卑怯っすよお」
蛍光灯を指さすへらへらとした態度に対して、彼が返す言葉はなかった。
幾秒かの静寂ののち、坊主の少年はついに駆け出す。これ以上待っても何もいいことがないということを知っているのだ。応じて、彼は蛍光灯をまるで剣みたいに構える。
間合いの読み合いと呼ぶには知性が足りなかった。
少年は、蛍光灯なんて脅威にもならないと考えているからその間合いなんてまるで考えていないし、教師たる彼だって、蛍光灯がこの場においてどのくらいの効力を持つのかを知っていたからだ。筋骨隆々小学生を相手するのに、この棒は脆弱すぎる。
だがだからこそだったのだ。
無防備に、あるいは無策に突っ込んでくる坊主頭を、彼は教壇から遠い目で見ていた。
気分はバッターだった。
三点ビハインドで迎えた九回裏、ツーアウト、満塁。そのバッターボックスに入る自分を想像する。観客の誰を応援しているのか分からぬ声や、ここまで共に努力してきた友人の声援は聞こえずに、ただただトントンと規則的に脈打つ自身の心臓の声にのみ耳を傾ける。
究極、人間はいつも一人でしか戦えないのだという事実に気が付いた自分に酔いつつ、バットに見立てた蛍光灯を振りかぶる。
迫り来る坊主頭は、面白いくらいにボールのように映った。
確かにフィジカルでは教師の彼は負けてしまう。けれども、経験や教養は、彼の方が十数枚は上手であることは明白である。
彼のほうに勝機を見出そうとするならば、もはや知識に頼るより他なかった。
微塵の手加減もないフルスイングは、果然、少年のボディに炸裂する。
炸裂。そう表現するのが一番似合っている。
坊主の彼は知らなかった。
蛍光灯が割れるとき、耳をつんざくような鋭利な爆音を発することを。
続けて、内部の塗料が粉塵となってガラス片と共に飛散することを。
音は聴覚を封じ、白煙は視界を奪う。
人間は聴覚と視覚に頼りすぎている。だから、いくら強靭な肉体を持っていようとも、そんな筋肉だけの少年は木偶の坊にすらなれていない。いいところ案山子だった。
思った通り混乱する少年に、彼は嘲った優しさを向ける。
悠々とした華麗な動きで、みぞおちに一発、鋭いパンチを刺す。たったそれだけのはずなのに、坊主のシルエットは崩れ落ちた。
うつ伏せに倒れつつも、しかし何とか顔だけはこちらに向けて、されど坊主は同士に向けてこう言葉を残すのだった。
「おれの仇を……取ってくれ……ッ!」
仇、か。
崩れ落ちた教え子の言葉を反芻し、やはり稚拙な言葉だと唾棄する。
いくら世界をひっくり返す力を秘めた驚きの核兵器だろうと、それを操るのが子供――例えば小学生だったら、それが本領を発揮することは叶わない。
一丁前に外壁だけ固めたところで、本質のところで砂上の楼閣なのだ。
どこまでいっても、少年らは未だに大人になりきれていない。大人ぶったり、大人みたいな汚い目をしたりするのが関の山。だから、恐るるに足りぬ。
小学生という生き物は、往々にして結束がすべてだと考えるきらいがある。田舎の狭いコミュニティにも似ていて、仲間との強い結束の反動で排他的になる。学校と家庭、それからせいぜい習い事にしか居場所を持たぬ彼らは、それだけ自分たちの限られた世界の濃度を濃くしようとするのだ。
従って、この場で彼と坊主少年の戦闘を静観していた他の生徒たちも、動き出す。
やれ仇だ、やれキズナだと叫ぶ恥知らずな声のなかに、彼ら大人が忘れてしまった何かが潜んでいる。
改めて、彼は嘲笑を溢した。不気味で気色悪いその笑みは、本物の汚さを孕んでいる。
「オラァァァァァァァァァァァッ! デュクシッ!」
ついに業を煮やして、有象無象の生徒の中から一人、本来なら勇者と呼ばれる少年が殴りかかって来る。もちろんその少年も例に漏れず全身に張り付けた筋肉をピクつかせている。
「考えなしの攻撃ほどに怖くないものなどありませんね」
冷笑の彼は、身を軽くよじるという最小の動きのみで拳をかわす。
全力の空振りによって重心が不安定なところに、ほんの少し、ちょんと背中を押してやる。
生徒の背中を押してやるのが教師の仕事だと言わんばかりのその瞳には、確かな優しさが宿っていた。
結果としては、背中を押された少年は顔面から転んでしまったのだが。
それから間髪入れずに、男女関係なく筋肉まみれの生徒たちが襲い来る。
「デュクシ! デュクシ!」
間抜けな効果音を伴うストレートは、裏腹に彼の身体を殴打できない。強いていうなら、そのときに飛散する唾液の方がいくらか彼にダメージを与えていた。
ストレートしか来ないならば、かわすのも簡単というものだ。
「……本気で攻撃しますよ」
「来いよ! ほらほら」
相手の方から快諾を得たので、彼は遠慮も手加減もなく右フックを食らわせる。
肘を直角のままに放つことで反作用によって力が分散させられてしまうのを避ける。それでいて相手のガードのすき間を縫うようにして放った、最高の一撃。
「はいバァーーーーーリアッ」
その直撃を顔面に受けておきながらも、その小学生はそう言い放った。バリアなど一切できていないけれども、さすがのフィジカリティである。並の人間ならダウンしていたはずだが、だからこの小学生たちは並ではないのだ。
「つかセンセー手加減なしに攻撃するとかマジかよー」
「そちらが本気で攻撃することを了承してくれたのでしょう」
「えー言ってねえよう。何時何分何秒地球が何回回ったときぃー?」
答えなどない、それ以上に中身のない質問を無視して、彼は少年のすねを蹴った。かの豪傑、弁慶ですらも涙したと言われる急所である。
少年もさすがに顔を歪めて後退する。それを逃さず、追撃を加える。前傾姿勢となって無防備な顔面に膝蹴りという、飾り気のない攻撃だ。
されどそれはよく刺さる。鼻と口の間――通称人中を狙ったから、しばらくは立ち上がれまい。
入れ替わりか、覆いかぶさるように三人の生徒たちが取り囲み、彼に迫る。
頭を使われてしまっては、彼の体術に勝機はない。ちらりと腕時計を確認しながら、彼は身をひるがえす。ただし横回転ではない。縦回転――つまりバク転だ。
あまりに鮮やかな身のこなしに、生徒たちは一瞬、気を取られた。
一瞬なのだ。そのたった一瞬があれば、三人を始末するのは難くない。
バク転の着地点を一人の生徒にし、顔面に両足キック。すかさずもう一人に飛びつき、死なない程度に首を絞る。大木に登るような格好になった彼は、最後の生徒に笑いかける。しかしそれも一瞬にさえ満たない刹那であり、間もなくその生徒の顔面にも回し蹴りが牙を剥いた。
いつもなら、生徒たちだって反応できたはずのお粗末な攻撃なのだ。けれども、この状況では反応できなかった。
仮にも教え子の顔面を平気で殴ったり蹴ったりする教師に、少なからず動揺していた。彼らはどこかで、先生たちのことをバカにしていたのだろう。内面まで見抜く力が希薄な彼らは、外見の、つまりは体躯の良さだけで人間を判断する癖がついている。ある種のステイタスとなった筋肉は、彼らの中で唯一絶対の信頼を寄せるものだったに違いない。
それが見事に、脳味噌によって打ち砕かれた。
動揺するなというほうが無理だったのだ。
初めての敗北は、きっと血の味がしただろう。
泥よりもカルピスの原液よりも濃い、舌に染みつく血の味だ。
何の変哲もない教室に転がった、異質な五つの巨体。それらを視界のどこかに引っ掛けて、彼は再び教壇に上る。
今度はもう、誰も教師の彼に殴りかかろうとしなかった。
好奇と夢と希望とほんの少しの悪意で構成されたまん丸の眼球たちが、決して逸らすまいと彼のことを見る。
気がつけば、無知なるセミのミンミンという鳴き声だけが夏の一日を彼らに刻み付ける。
彼はちいさく笑み、安いと思っていた腕時計に目をくれる。
ギリシャ文字の十二きっかりを、理性的な秒針が指した。
こく、と一つ頷いて、彼は苦い言葉を溜め息にして空気に溶かす。
その代わり、とびきりに甘い小学校教師としての仮面を貼り付け、こう言い放つのだった。
「皆さんを静かにするまでに三分かかりました」
皆さんが静かになるまでに三分かかりました。 ズールムンケ・フロイト @omakanoponta
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