第50話 指輪
「かっこよくない」
それ今言う必要ないよね?わかってても言われると傷つくんですけど。
「でも、文也の顔嫌いじゃない」
「……どうも」
俺はコップの中のお茶を全て飲み干して、表情を誤魔化した。
「一週間後、私はいなくなるから。ジレンマのみんなには文也から言っておいて」
「自分から言わないのか?」
そういう重要な事を人に任せるのは意外だ。
「あんた以外の奴は、みんな引き留めるから」
人気者故の悩みだった。俺はそれを聞くと、立ち上がってコートを羽織った。
「わかった。任せろ」
きっと、俺はなぜ説得しなかったのかと文句を言われるだろう。ここにいる理由がなくなったと言う奴だっているかもしれない。でも、構わない。最後に助けてくれたのだから、俺だってそれくらいしてやる義理はある。
「見送りは要らない。だからここで……、さよなら」
深いため息。それを吐いたのは俺だ。
「楽しかったよ」
言うと、彼女は左手を差し出した。その意味は、永遠の別れ。だから、言葉を口に出すことはしない。
「俺もだ」
握り返す。互いに目線を合わせて、そして笑った。
手を離すと彼女を追い越して、扉を開けた。俺は一瞬だけ立ち止まったが、それでも振り返らずに外へ出た。
……だったよ。
扉の閉まる瞬間、何かが聞こえた気がした。しかし俺がそれを確かめる方法はもうない。だから心の中で返事をして、そこから立ち去った。
それから数日。ずっと方法を考えていた。結局のところ夢子本人の話だから俺が出しゃばってやれるのは準備の部分だけだ。だからこそ、真剣だ。
今日夢子は本屋でのバイトがあるから、迎えに行くのは夜の事だった。家を出て少し早く駅前につくと、件の本屋の前で彼女を待っていた。
しばらくして夢子が出てきた。「お疲れ」と迎えると、彼女は俺の右手を握って笑った。
買い物を済ませて家に帰る。食事をして風呂に入り、そしてコーヒーと紅茶を淹れてから炬燵に入った。
「夢子、話がある」
「どうしたの?」
俺は努めて真面目な声を出したから、その雰囲気を感じたのだろう。夢子は俺の方へ向き直る。
「父さんと時子さんに、俺たちの事を話そう」
それを聞いても、嘗ての暗い表情はない。
「うん。わかった」
覚悟は決まっていたようだ。もしかすると、俺を待っていたのかもしれない。
「……それでな、夢子にはここを出て行ってもらおうと思ってる」
「えっ、ど、どうして?」
前のめりになって訊く。落ち着いた様子から一変、焦っているようだった。
「落ち着け。それは俺が学生だからだよ」
「だって、今だって二人でやっていけてるのに」
それは俺たちが一定の支援を受けているからだ。
「父さんの仕送りが無ければ、とてもじゃないけど二人で生きてなんていけない。それに、俺は夢子には大学にも行って欲しいと思ってる。それは父さんも時子さんも同じだ」
夢子はゆっくりと近づいて、俺の隣に座り方を寄せる。
「……やだなぁ」
頭の中ではわかっているのだろう。兄妹だった俺たちが恋人になった以上、もう前のように両親が安心して俺に夢子を任せられるわけがない。普通に考えて、それを許す親はいない。
「ごめんな。でも、今は俺も夢子も一年生で時間があるけど、学年が上がるにつれてやることはどんどん増えていくんだよ。そうなったとき、必ず困る事が起こる」
「……うん」
彼女が、自分の指と俺の指を絡めて手を固く握る。俺がそれを握り返すと、夢子は更に強く力を入れた。
「週末とかさ、暇なときに遊びにおいで」
「そうする。……バイトも変えなきゃ」
ある意味、一番の被害を受けるのはあの店の店長なのかもしれない。夢子の集客効果で売り上げが三十パーセントも上がったのだと、前に話した時に言っていたからな。
「俺が就職したら、また一緒に住もう」
「うん。そしたらさ、けっ……んっ」
その言葉を聞く前に、俺は彼女の口をふさいだ。
俺は目を閉じていたからわからないが、きっと目を丸くして驚いたに違いない。
「……はぁ、はぁ。ず、ずるいよ」
怒っているのか照れているのか判断の付きにくい表情だ。
「まぁ、待っててくれ」
そう言って頭を撫でるとしばらく下を向いていたが、やがて立ち上がって夢子はクローゼットの奥からクッキー缶を引っ張りだし、再び隣に座った。前に一度見たはずだが、どうしたのだろうか。
中を開けると、『さよなら』と書かれた紙を除いて、掘り起こした時と全く同じモノが入っている。
「これさ、お兄ちゃんの夢」
それが文字かどうかも判断付かない記号で綴られた文章を眺める。
「お兄ちゃん、昔は建築家になりたかったんだね」
作文の最後に、茶色いクレヨンで四角い塔のようなものが何本か描かれている。恐らくそれしか職業を知らなかったのだろう。今となっては何故それを書こうと思ったのかも覚えていない。
「みたいだな」
「ヒーローとかさ、そういうのじゃないのもお兄ちゃんらしい」
むしろ、倒される悪役に感情移入していた覚えがある。
「子供の頃からそういうガラじゃないって、自分で分かってたんだろうな」
言っていて、可愛げもない奴だと思われても仕方がないと自覚した。
「お兄ちゃんのお母さん。綺麗な人だよね」
写真は色褪せていて潰れてしまっているが、その面影を知ることは出来る。しかし、俺はその話に口を挟まなかった。
「……それとさ、これ」
それは、俺が母に手渡したピンクのビーズの指輪。唯一この中で状態がいい。きっと、家を出るその直前まで自分で持っていたのだろう。
「指輪ってさ、相手のお母さんの形見とかを貰うこともあるんだよ」
言って、少し離れると俺の方を向いた。
別に死んでいるわけでもないが、二度と会うこともないだろうから形見という言い方は正しいかもしれない。
「これ、貰ってもいいかな」
「いいよ、そんな物で良ければ」
「そんなモノって、言い方もうちょっと考えてよ」
ごめんと呟いて、指輪を手に取った。夢子にとって、物としての価値よりも大切な理由があるのが分かったからだ。
彼女は左手を差し出した。俺はその手を取ると、薬指に指輪を通した。まるで、最初から夢子の物だったかのように、サイズはピッタリだった。
夢子は天井のライトに手を掲げると、「綺麗」と呟いて嬉しそうに笑った。そんな姿を見て、俺は必ず幸せにすると再び心に誓った。
しばらく眺めて、夢子は俺に向き直る。そして。
「ありがとう。大切にするね」
その表情に俺の心臓が跳ねたが、深呼吸をすると「あぁ」とだけ返事をすることが出来た。
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