第16話 解氷
前に一度、お兄ちゃんの学校の文化祭に遊びに行ったことがある。お兄ちゃんはクラスの出し物の出店で、確かお好み焼きを焼いていたはずだ。
その時、お兄ちゃんとすごく仲のよさそうなおじさんがいた。竹藤という男の先生だ。
その人は私が妹だと分かると、とてもうれしそうにしていた。その時の言葉を、私は今でも忘れない。
『そうか、君が新目の理由か』
詳しいことは教えてもらえなかった。(お兄ちゃんが人に過去を語りたがらないのを分かっているからだと思う)ただ聞いた話をまとめると、怒ったお兄ちゃんを誰も止めることが出来なかったということ。そして、私が妹になってから一度も喧嘩をしなくなったということ。
……私が実態を知らないから、想像の中でお兄ちゃんの過去を凶悪にしているところもあるのだとは思う。それでも、私はお兄ちゃんの怖い姿を見たくなかった。お兄ちゃんに対して、怯えたくなかったのだ。
「おい待てよ!」
振り返ったお兄ちゃんをつかんで、その男が手を上げた。
「いや……っ」
私は、どこまでも自分本位だと思う。殴られたお兄ちゃんの心配でも、これからどうなるかわからない相手の男の心配でもない。
今の悲鳴は、私の中のお兄ちゃんが崩れるかもしれないという不安からだった。
涙をこらえるので精一杯だった。人はあまりに多くを考えすぎると笑いか涙しか出ない、というものの例えの典型的なパターンだと思った。
しかし、お兄ちゃんは全く動じなかった。殴られた頬を拭うと、周りの大人に背中を任せて私の手を引いてそこから離れた。
周りの声は何も聞こえなかった。たった一つの結果が、私の感覚の全てをマヒさせたからだ。
何故、私はお兄ちゃんが最後まで守ってくれると、信じきれなかったのか。
こんなに情けないことはなかった。たった一人信じたいと縋った私自身を、私は裏切ったのだ。
……。
しばらく歩いて、とある裏道で止まりお兄ちゃんが言う。
「悪かったな、もう少しうまく処理できればよかったんだが」
……違う。違うんだよ。
「そうじゃないよ」
涙が止まらなかった。ごめんなさいという思いが、言葉にならなかった。私がお兄ちゃんを信じなかったことを、知られたくなかったから。だからその代わりに。
「助けてくれてありがとう」
そう言った。
帰りの道中、一度も口を開かなかったし、戻ってすぐに私は自分の部屋に引きこもった。お兄ちゃんに合わせる顔がなかったからだ。
部屋でしょげていると、チャットルームにメッセージが届いた。
『どうだった?』
その文字列を見て、私は心の底から安心してしまった。だから柄にもなく。
『ダメだった。失敗した』
電話がかかってきた。その間、三秒。瞬速だった。
「……もしもし」
少し、涙声だったかもしれない。
「何があったの?」
全てを察してか、一つも飾らない言葉を真琴が投げかけた。答えあぐねている間に、理子からの着信もきた。女運にはとことん恵まれているのだと、私は再確認した。
先に真琴に事情を話してから、次に理子へ折り返して同じ内容を伝えた。
メッセージが届く。
『今日うちに来なよ』
真琴からだ。こうして誘ってくるということは、もう準備を済ましたのだろう。あの子はそういう子だ。
理子と私は各々返事を返す。あまりおぼつかない足取りで立ち上がると、鞄の中にお泊りセットを詰め込んで部屋を出た。
真琴の家の最寄り駅に着くと、二人が先に待っていた。二人してショートパンツにTシャツのラフな格好をしていた。きっと、やり取りの後すぐに出てきたのだろう。
その姿を見て、また涙が出てきてしまった。そんな私を見かねたのか、二人はすぐに駆け寄って抱きしめてくれた。温かくて、感情をせき止めていた氷を溶かされていくのが分かった。
ひとしきり涙を流してから、私たちは真琴の家に向かった。偶然にも、家族は家を空けているらしい。今の私にとっては好都合だ。今日は思う存分、二人に甘えよう。
既に外は暗い。真琴の準備してくれたご飯(かき玉と天ぷらの乗ったうどん。おいしかった)を食べて、三人でお風呂に入った。さすがに浴槽は狭かったけど、それでも居心地の良さは抜群だった。
きっと努めて別の話をしてくれたのだろう。二人は高校生活の妄想を膨らませて、あれこれと話題を提供してくれた。
ならば、私は今日の出来事をすべて話さなければならない。全てを広げて、そして共有したい。私は二人の悩みならなんだって解決してあげたいと思う。きっと二人も、同じ気持ちのはずだ。
お風呂を出て、テーブルに着く。程なくして、真琴がテレビの電源を消した。
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