第2話 不眠
その後、俺は焼きそば(目玉焼きも乗っていた)にソースをドバドバかけて食べてから少しだけリビングで夢子と話をして、そして自室に戻った
俺は腕立て等の自重トレーニングストレッチをしてからベッドの中へもぐりこむ。これをするだけで、寝付きが段違いだからだ。
ところで、コーヒーを飲むと夜眠れなくなるという話を聞いたことがあるだろうか。
あれはコーヒーに含まれるカフェインという成分に覚醒作用があるため、それによって脳や体が興奮状態となってしまうためだといわれている。
通常であれば、夜になり暗くなるとメラトニンというホルモンが分泌され体を急速の状態に切り替える。しかし、覚醒調節機構に何らかの異変が起こると、これの分泌量が減ってしまい人は眠たくならないのだとか。
……暗い部屋の中、かすかにドアが開く音が聞こえた気がして、目が覚めた。果たして今は何時だろうか。そう思ってベッドの端に置いてあるはずのスマートフォンに手を伸ばし、ホーム画面を開いた。
午前二時。すっかり深夜である。こんな時間に起きてしまって後悔をしかけたが、考えてみれば今は春休みだ。別に困るようなことはない。すぐに悩みは解消された。
「お兄ちゃん……」
ふてくされたような声。スマホの画面を逆に向けると、そこにはパジャマ姿の夢子が立っていた。ぼんやりとした明かりで、表情はよく見えない。
「どうしたの」
「寝れないよ」
「……うん」
としか言いようがなかった。そういえば夢子は食後にもコーヒーを飲んでいた気がする。
ひとまず部屋の電気をつけてベットに腰を掛けた。その隣に夢子も座る。
「何回かうとうとするタイミングはあったんだけど、なぜかその度に外で犬が吠えたり、時計の音が気になったりして」
あるあるだなぁ、などと浅いことを考えていた。しかしこれが本人となると中々に難しい問題なのも知っている。
「体を温めると眠れるんじゃないか?ホットミルクとか飲むか?」
「うん、飲む」
明らかにいつもよりふてくされている。しかしこれが本来の妹というものなのだろうか。
一度下へ降りて小さな鍋でミルクを沸かし、カップに移してから少し冷まして、そこにまあまあの量の砂糖を入れて部屋に戻った。夢子は変わらず、ベッドに座ってふてくされていた。
カップを手渡すと、夢子は息を数回吹きかけてカップの縁を啜った。啜っただけで、ミルクは口に入っていないように見える。そうか、夢子は猫舌だったのか。
そんなことを考えて、俺はしれっとベッドに横になって布団をかぶった。
「ちょっと。まだ寝れないよ」
「うん。でもお兄ちゃん眠い」
結構頑張ったし、寝ちゃダメですかね。
「……じゃあ一緒に寝る」
夢子が、思わず目が覚めるようなことを言った。
「寝る、お兄ちゃんと」
倒置法だった。
「そんなに寝れないんですか」
尋ねると縦に首を振った。そこまで言うのであれば仕方ないというか、まあ妹と同じベッドで寝るというただそれだけの事だ。
……。
「わかった。じゃあおいで」
そういって俺は壁際に寄って、空いたスペースの布団を捲った。夢子が電気を消す。訪れる暗闇。その中で夢子の吐息が聞こえる。小さく、少し深い吐息。何も言わずに俺の隣に横になると、こちらに背中を向けた。俺はその後ろ姿に布団をかけて目を瞑った。
「……ねえ」
夢子が訊く。俺はそれにギリギリ返事ともとれるような間の抜けた声で応えた。
「頭、撫でてほしい」
聞いて俺は目を閉じたまま、横を向いて夢子の感触を探した。俺よりもやや下の方にあるその柔らかな髪に触れて、そして傷つけないように優しくなでる。
夢子の体がわずかに震えた。俺の手の感触の驚いたのだろうか。それとも髪に触れられることに慣れていないのだろうか。
時子さんと二人で暮らしているときも、彼女は仕事が忙しかったという。もしかすると、家族に寝かしつけられた経験があまりないのかもしれない。
どれとも言えないが、しかし俺が今やるべきなのは、ただ黙って夢子に夢を見せてやることだけだ。もちろん、洒落で言っているわけではない。
思えばこうして夢子を妹扱いするのは初めての事だ。巷(主に近所の井戸端)でもどちらが姉か兄かわからないと噂されているのも知っている。もちろんそれは俺を陥れるための文句ではなく、夢子を褒めるためのものだということも知っているし、腹を立てたこともない。
何度か撫でているうちに夢子が寝がえりを打った。これまでと同じように撫でると顔に手が当たる。だから俺は目を開けてその輪郭を確かめた。
……近くないですかね。
それを口にすることはなかったが、代わりに生唾を飲み込んだ。俺の使っているものとは違うシャンプーの香り。女の子の香り。とてもいい香り。
まるで俺の胸に頭を預けるような姿勢で、夢子が俯いている。うつらうつらとしているようにも見える。このままもう少し続けていれば、ようやく眠りに落とすことができるかもしれない。
今度はつむじからうなじにかけて優しくなでる。立肘をついて横を向いているため大して苦しくはないが、僅かにしびれるその感覚が、今度は俺の脳みそを少しずつ覚醒させていった。
幾分後、夢子が寝息を立て始めたころ、俺はようやく頭を下ろして、枕のない平らなところに腕を置き、壁を向いて目を瞑った。すでに眠気はない。
しばらくの間、俺はなんとなく自分の想像する兄としての理想の姿を妄想していた。この先もずっと夢子のそばにいてやること。困っていれば助けてやること。笑っていれば一緒に笑ってやること。
きっと高校生になれば悩みも増えて、そのうち俺を疎ましく思う時が来るだろう。思春期には家族を嫌うのが女子高生というものだ。その時には潔く身を引き、そしてまたいつか俺を頼ってくれる時を待って。
いつか家に恋人を連れてくるだろう。そいつはきっと俺よりもかっこいい誠実な奴だ。いや、妹は出来る奴だから、相手は夢子を助ける影のようなタイプなのかもしれないな。
そんな奴らに俺は頼むわけだ。「妹をよろしく」と。そこで俺の役目が。
……これっていうほど兄か?むしろ父親に近いような気がする。
冷静に考えてみると、兄であろうとしている時点で俺に兄としての素質は無いのかもしれない。普通、生まれた時から兄は兄だし、妹は妹だからだ。
それでは、俺と夢子の関係はなんだ?それを考えると、胸の奥につっかえるような違和感を覚えた。
……これ以上考えるのはよくない。大体何を考えたところで、俺が出来るのは信用を積むことだけだ。他に何もない。
やがて眠気が訪れた。何とか朝が来る前に眠れそうで、本当によかったと思った。
……目が覚めたのは昼前のことだった。夢子の姿はすでになく、友達と遊びに行ってくるという書置きがリビングに残されているだけであった。
歯磨きと洗顔を済ませてから再びリビングへ。
冷蔵庫から納豆を二パック取り出しボウルに移した後、付属のたれではなく普通の醤油と、これまた普通のチューブの練りからしをあり得ないほど発射し、刻んだねぎをこれまた冗談のようにぶち込んだ。
ごはんは釜に残っているものを全て、どんぶりの中によそった。おそらく二合くらいある。これくらいなら俺の体に何の躊躇もなく入っていくだろう。ついでにレトルトの味噌汁も作ろう。お気に入りのわかめのモノ。
お湯を沸かし、ごはんをレンジに入れてスイッチを押す。ターンテーブルに乗ってクルクルと回る大きなどんぶりを見て、俺は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の一節を思い出していた。
玄米四合、宮沢賢治も結構食うよなあ。等と意味のわからない親近感を覚える。もちろん、俺は銀シャリの方が好きだ。
温めたご飯の上にかき混ぜた納豆を投入して、表面に広げるように箸で形を整えた。俺はごはんにかけたものを混ぜて食べない派だ。カレーとか。
コップを二つ取り出して、一つには牛乳、一つにはオレンジジュースをいっぱいに注ぐ。そしてちょうど沸いたお湯を、味噌とフリーズドライの具材を入れた茶碗に入れると、味噌の香りがキッチンに広がった。そこに七味唐辛子を十回振りかける。吸い込んでしまったのか、むせて咳が出た。
その後全てを食卓に移すと、適当にいただきますを口にして納豆ご飯をかっ込んだ。
時子さんも夢子も料理がとても上手なのに、皮肉なことに俺はバカ舌だ。好きなものは味の濃いもの。(マグロも半分くらいは醤油が好きで食べているところがある)
だからこうして、自分でモノを作って食べるときには醤油や辛子、ソースやケチャップ等の調味料をたっぷりかけて食べる。
舌バカの理由は分かっている。母が料理をする人ではなかったからだ。
思い返してみれば、俺はあの人の料理を食べた記憶がない。カップ麺や冷凍食品のチャーハンや唐揚げばかりを食べて育ってきた。だから俺にとって、おふくろの味はコンビニ飯だ。
ちなみにこれでも大分マシになった方だ。何故なら、時子さんの弁当屋でご飯を買っていた頃、優しい味付けが俺には味がないように感じで思えていたからだ。
なるべく時間をかけずにご飯を平らげると、俺は桶に水を張ってそこに皿を落とした。夜までに粘りは落ちているだろう。
束の間、ソファに腰を下ろしてまどろんでいたが、時計の短針が間もなく「1」を指しそうなところを見て俺は立ち上がった。
髪をセットして服を着替えて鞄にバイトの制服を突っこんで、俺は玄関の扉を開けた。ガレージに止めてあるバッソルにまたがってエンジンをかけると、俺はバイト先のピザ屋へ向かった。
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