第3話 ハプニング
……パパパパパーッ、と間抜けに乾いた音が夜の住宅街に響く。この独特の形をしたバイクを俺は結構気に入っているのだが、格安で譲ってもらったモノだからいつ寿命が来るのかとビクビクしている。大学への通学でもバイクを使おうと思っているから、金が溜まるまでは待ってほしい。
バイトが終わって時刻は九時過ぎ。こんな時だから早く帰りたいのは山々なのだが、頼まれると断りずらくてずるずると残業をしてしまった。もちろん給料はもらえるから良いと言えば良いのだが。
鍵を開けて玄関を入ると靴が一足置かれている。茶色のパンプスだ。そして廊下の奥からは水の流れる音と僅かな湯気が漏れていた。どうやら夢子がシャワーを浴びているらしい。
隙間の開いていた引き戸を静かに閉めて、俺はリビングへ向かう。中に入ると、食卓には既に二人分の食事が用意されていた。そうか、待っていてくれたのか。
俺はコンビニで買ったカップ麺とバイト先から持ってきた賄のポテトとチキンのコンボ(文也スペシャル、通常の三倍の量)を冷蔵庫にしまって、夢子がシャワーから上がってくるのを待った。
カップ麺を冷蔵庫に入れたことには気が付いている。ただ、同じ袋に入っているのを一つだけ取り出すのが面倒なだけだ。
テレビは好きじゃないため、俺はソファに腰掛けてぼーっと天井を見上げて待っていた。ふと横を見ると、ソファの横に女性向けのファッション雑誌が置いてある。ターゲット層の年齢が夢子とはやや合致していないように思える。表紙のモデルは、恐らく俺と同じ年かそれより少し年上のようだ。
メイン記事は、街の男子に聞いた好きな女子の服装ランキング。なるほど。
こういう本って、書店に並んでいても目につかないけど、読める状況にいると無性にその中身が気になってしまう。だから俺は雑誌を手に取った。ページの一つに、ライムグリーンの細い付箋が張ってあるのを見つけて、誘われるようにそのページを開いた。
「服に興味のない男子には、少し派手目なかわいいコーデ!」と書かれている。男のモデルは白シャツにジーンズとスニーカー。女は淡い色のブラウスとロングスカート。靴は背の高い茶色のパンプス。
奇しくも今日の俺の恰好は白シャツとジーンズだった。というか、基本的にTシャツ(インナー兼用)と白シャツ、それにジーンズと冬用のコートしか持っていない。ちなみにミニマリストではない。
しかしなるほど。確かにこれなら女が引き立ってより可愛く見える、気がする。モデルが美男美女だから、少なくとも俺の参考にはならないな。
などと考えてから雑誌を閉じて元の場所に置く。頭の後ろで手を組み、ぼーっと天井を見上げた。
するとその時、バスタオルを肩から掛けただけのあられもない姿をした我が妹が、鼻歌交じりに髪の毛を拭きながらリビングへ入ってきた。
俺は黙ってその姿を見た。
「あ……っ」
夢子と目が合う。瞬きを二回。当たり前だけど、俺と夢子の顔は全く似ていない。
騒ぐわけでもなく、夢子はただ顔を赤くしてゆっくりと出て行った。あれが多感な中学生(実質高校生のようなものだろうが)の反応だというのだから大したものだ。
特に何も考えず、俺は再び扉が開くのを待った。
程なくして夢子が来た。昨日とは違うパジャマ。イメージとは少し違う、淡いピンク。
「いるなら言ってよね。もう」
結構プンスカ怒っていた。夢子はいろいろな言葉で俺をチクチクと攻撃してきたから、俺もまた「すいません」とペコペコ謝った。
チクタクと時計が進むこと5分。これ以上言っても仕方がないと思ったのか、「気を付けてね!」と言ったのを最後に夢子は席を立って、夕飯の準備を始めた。
俺は食卓に置いてある皿をレンジに入れて温める係だ。それ以外を手伝っても恐らく邪魔になってしまう。
程なくして準備が完了した。麦茶をコップに注いで二つ運ぶ。そういえば、出かける前につけておいた皿がなくなっている。夢子が洗ってくれてたのだろう。せめて夕飯の分は俺が洗おう。
「いただきます」
声を合わせて挨拶をする。茶碗には山盛りのご飯。大皿に肉野菜炒め。その隣に卵焼き。味噌汁、冷ややっこ。後はごはんのお供が数種類。最高。
取り皿に取り分けてから、俺はおかずとごはんを頬張る。一口飲み込むごとに「これうまいな」というと、夢子は3回目辺りから「わかったから(笑)」と応えるようになった。
「お兄ちゃんは何作ってもおいしそうに食べるよね」
飯を飲み込む。
「そうだな。うまいし」
「嫌いな食べ物とかないの?」
うーん。
「特にないなぁ」
気が付くと、茶碗にご飯が残っていない。さっさと席を立って茶碗にご飯を盛りつけて、席へ戻った。
「本当によく食べるね」
うん、と頷いて俺はまた箸を進めた。そんな時、ふと気が付く。
「夢子、全然食ってないな。具合悪いのか?」
少し減っているが、かなりのスローペースだ。
「ううん。そんなことないよ。お兄ちゃんが食べてるとこ、見てるだけ」
夢子からすれば大食い番組を見る感覚なのだろうか。それか、妹は割と食が細い方だから、単純に自分と違う部分を見て楽しんでいるのかもしれない。何にせよ少し気恥しいが、さっきのに夢子に比べれば些末なことだった。
「そっか。おいしいよ。ありがとな」
変に気取った態度なのも変だから、俺は真顔でそう言った。その時の夢子の顔といえば、それはかわいい笑顔だった。
……食べ終わった皿を洗っていると、ふと背後に気配を感じた。
「お兄ちゃん。今日はどこ行ってたの?」
「バイト。ピザ届けたり作ったりしてた」
「ふぅん。そうなんだ」
一瞬の沈黙。その後、夢子が俺の背中に抱き着いてきた。
「冷蔵庫にラーメン入ってるから知ってる。後ポテトも」
バイトの日、俺がいつも持って帰ってくるものだから当然といえば当然の話だった。それならばなぜ、わざわざ訊いてきたのだろうか。
「寂しかったのか?」
スポンジの泡が切れた。液体洗剤を染み込ませて、再び皿を擦る。
「別に。そんなことない」
言葉とは裏腹に、夢子の腕には少しだけ強い力が込められた。
「そっか。ごめんな」
言うと、ふと背中の感触が消えた。全て洗い終えて向き直ると、夢子は昨日買ったオールレーズンを食べていた。
「一枚ちょうだい」
手を伸ばす。
「だめ」
胸元に隠してわざとらしく身を捻る夢子。果たして妹は春休みより前にこんなおちゃめな一面を見せてくれたことがあっただろうか。夢子がそんな態度をとることが、俺は嬉しかった。
「そんなこと言わずにさ」
言うといたずらっぽく笑った後、俺にその袋を預けるとどこかへ行ってしまった。
その後、俺は特に何をするわけもなく、ただ軒先に座って空を見上げていた。こういった何もない時間が、俺は結構好きだったりする。
暗い空にポツポツと星がある。北極星を見れば道に迷わないと昔の人たちは言っていたようだが、そもそも俺には北極星がどれなのかわからなった。
「あれが北極星だよ」
突如指さされた場所を俺は半ば反射的に見上げる。確かに他より少しだけ青みがかった星があった。
ふーんとから返事をして俺がただ単純なのか、それとも夢子が読心術を使えるのかを考えた。恐らく前者だろう。
オールレーズンを齧る。思ったよりも口が渇いたから、袋を折って残りは後で食べることにした。
「お兄ちゃん、明日暇だよね?」
突然の問い。確かに明日、お兄ちゃんは暇だった。
「買い物に付き合ってよ」
付き合うのはやぶさかではないが、友達といった方がよっぽど楽しいだろうに。
「お昼ご飯外で食べようよ。私ピザ食べたい」
俺はナラの木の薪で焼いた故郷の本物のマルガリータを食べたい。ボルチーニ茸ものっけてもらおう。
「お兄ちゃん、それは死亡フラグだよ」
なぜ知ってるんだ。
小さく笑う夢子を見て、こいつは何でも知ってるし何でもできるな、と感心していた。
スマホの画面に目線を落とした夢子の顔を見る。長くて黒い髪。大きな目は猫を思わせる形をしている。こうしてじっくり見てみると、普段大人びて見えるのは夢子が意識して周りにそう見せているからなのかもしれないと思った。画面をタッチするその無防備な表情は、俺にはとても幼く見えた。
俺は妹のこと何も知らないのだと、この時気が付いた。
「あのさ」
……聞けば友達は多く成績は優秀。スポーツもなかなかの成績を残したらしい。吹奏楽部はやり切ったから、高校では別の部活に入りたいとか。やはり完璧超人だった。
「彼氏はいないのか?」
沈黙。
夢子はスマートフォンから目を離して俺の目を見た。瞬きを二回。
「いると思う?」
いないと思う。訊いてみただけだ。男が信用できないのだから、恋人を作るとは思えない。
しかしそれは夢子本人の事情である。もしアプローチがないのなら、その超人ぶりに周りがびびって手を出してこないだけだろう。男は女が思っている以上に度胸がないし、奥手なのだ。
「まあ作ってみれば、男への価値観も変わるかもしれないな」
言うと、夢子は少し寂しそうな顔をした。恐らく、俺は今回答を間違えたのだろう。
「あー、代わりといっては何だけど、明日はデートのつもりで出かけましょう」
チラッとこちらを見た。「意味わかんない」と呟くと、妹は膝をたたんでそ腕を組み、そこに顔を伏せてしまった。
また沈黙。遠くのパトカーのサイレンの残響が聞こえた。
「お兄ちゃんは彼女いないの?」
そのままの姿勢で夢子が訊く。
「うん。受験前に別れた」
お互いの勉強のために、という話だった。しかし、今考えれば体のいい別れ文句だったのだろうが、俺は当時それをちっとも疑わなかったし、受験が終わればまた付き合うのだろうと思っていた。
だが、あの子はまだ受験期間中に別の彼氏を作っていた。ひょっとすると浮気されていたのかもしれないし、俺が浮気相手だったのかもしれない。何にせよ割と酷い方法でわからされたのだ。それ以来俺は恋愛から遠ざかっている。ちなみに、恨みなどはない。
「そうなんだ。じゃあデートのつもりで出かけてあげるね」
気が付くと夢子は顔を上げてこちらを見ていた。その表情は先ほどまでとは違う、少し大人びたものだった。
その後、俺たちはそれぞれの部屋に戻った。バイトの疲れもあってか、俺はベッドに倒れこむとそのまま気を失うように眠ってしまった。
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